「結官吏?」
「…、え、あ…あぁっ!」

名前を呼ばれて彼方に飛びかけていた意識を呼び起こすと、自分が仕事中にも関わらずうたた寝をしてしまっていたことを悟る。そしてその名前を呼んだのが直属の上司である欧陽侍郎だということにも同時に気付き、動揺して机に足をぶつけて危うく墨を書きかけの書類にぶちまけてしまうところだった。なんとかすんでのところでそれを回避できたのは、欧陽侍郎の俊敏な動きのおかげである。

ほっと欧陽侍郎共々息をついたのもつかの間、今まで居眠りをしていたという事実にひやりと背中に嫌な汗が伝った。仕事には特に厳しい侍郎だ、お叱りを受けることは確実だろうなと思いながら静かに筆を置く。なんたる失態。

「結官吏」
「はい…すみませんでした。墨、ありがとうございます」
「え?あぁ、いえ、そんなことはいいんですが」

やる気あるんですか、貴方本当に私の直属でいたいんですか、などというキツいお言葉を身に受ける覚悟をしていたのだが、頭上から降ってきたのは怒りというよりも呆れを帯びた声だった。この後を予想してびくびくと縮こまっていたのだが、それを意外に感じてそろりと顔をあげると心配そうな顔をした欧陽侍郎と視線がかちあう。え、な、なんなんだ。

「…貴方の仕事について、私の采配が多過ぎるってことはないでしょうし、毎日定時過ぎには帰してますよね」
「は、はい」
「稀世、なにか悩み事でも?」
「は、…はい?」

いきなり官職名ではなく名前を呼ばれたこと、そしてその後に続いた言葉に驚きを隠せず、疑問に疑問を聞き返す形になってしまった。名前を呼ばれたのは公私を分けるためであって深い意味はないのだと瞬時に理解するものの、普段とは違うそれに妙にどきまぎする。

それにしても、たとえ上司だからという理由があるにしても、一応女である私に「なにか悩み事は」と聞くのは些か無粋ではないだろうかと思いながら、どうやって返そうかと口を引き結ぶ。ここ最近の私の奇怪な行動に、この人が気付いていないはずがないのだ。そこまで欧陽侍郎の観察眼を甘く見ていたわけではないが、心配をされたくなかったのが正直なところである。せめて、この直属の上司に迷惑が被られることだけは避けたかったのだ。

「……」
「稀世」
「…な、んでも、ありません。私の不注意でした、以後気をつけます。申し訳ありませんでした」

視線を逸らして座ったまま深く頭を下げる。やっぱり、言えなかった。欧陽侍郎を信用していないわけではなく、むしろ上司として尊敬も信頼もしている。けれどだからこそ、話してしまうことはできなかった。

私が唇をかたく引き結んだまま頭を下げていると、欧陽侍郎はひとつため息を零して私の頭をひと撫でしてから私の目前から立ち去った。一瞬頭に触れた欧陽侍郎の体温に目を丸くしながら、そのあたたかさにくしゃりと顔を歪める。ごめんなさい、と欧陽侍郎に聞こえないくらいの大きさで小さく呟いた。






121008/