朝駆け   仗露



 酷く怖い夢を見た。

 怖い、と言っても内容はほとんど覚えていない。ただ目が覚めた時、夢で良かったとたまらなく安心した。
 冬だというのに、いやに汗をかいていた。どんな夢だったか思い出してみようかと布団を跳ね除けている内に、すぐその汗が冷えて身体が震えた。窓の外を見るとまだ夜明けには程遠い。しばらくぼんやりした後、母親を起こさないよう静かに廊下を歩いてシャワーを浴びた。浴びた後は予想通り、先ほどまでにも増して目が冴えてしまった。二度寝しても夢の続きは見たくない。髪をいつも以上に丁寧にセットしても、手元の雑誌を捲って見ても、時間が経つのが遅く感じる。一人で居るのがやけに寂しい気がした。

 どうしても手持無沙汰で外に出ると、やはり町中真っ暗なままで、顔を近づけてようやくポストの東方、という文字が読み取れた。何となく、それで寂しい気持ちが一層募る。少しずつ目は慣れ、けれど街灯の下を通るとまたすぐ暗闇が戻ってくる。行く当てもないのに少しだけ早足になった。
 歩いている内に少しだけ、夢の内容を思い出した。自分は走っていた。何かから逃げているのか、それとも何かを追っていたのかわからない。ただ足がやけに重くて、それがとてつもなく怖ろしかった。今思うと、あれは怪我して動き辛い時の感覚によく似ていた。

 見る人が見ればどこかに急いで駆けていると思うかもしれない。気付くと夢の怖ろしさから逃げるみたいに早歩きしていた。それでも夜明けがまだ来ない、町の人にも全く遭遇しない。嫌な焦燥感すらあった。
 それが、少し遠くから聞こえた音で急にピタリ、と止まった。
 耳を澄ませると、どうもバイクのエンジンらしいとわかる。新聞配達か何かかとも考えたが、遠ざかる気配はなく、ゆっくりと遊ばせている様な音に聞こえた。
 音を頼りにフラフラ近づいて行くと、いきなりその音が止まった。慌てて少しまた早足になって探すと、少し離れた場所で人影が動いたのが見えた。自販機の目の前にバイクを止めている。目を細めてよく見ると、それはどうも見知った人物に思えた。

「露伴?」
 近づきながら声を掛けると、肩をビクリと撥ねさせて露伴が振り向いた。一瞬、酷く驚いた顔をしていた。
「……お前かよ」
 それからこっちの顔を判別して、すぐに安心した様に緊張を解いた。やもすると睨む様な目つきでこちらを見据えてくる、露伴のその手元には缶のコーヒーが握られている。まだ蓋は開いていなかった。
「何か見た事あるヤツ居ると思ったんスよ。やっぱあんただった」
 人に会えて何となしにホッとしたのを悟られない様に、自然な風を装って適当な事を喋った。喋る内に、自分は何を怖れていたのか、という気持ちすら沸いた。露伴はどう思ったのかわからない。どこか怪訝そうないつもの表情で、こっちを見たまま黙って缶コーヒーのプルタブを開けた。

「こんな時間からいつものお仕事っスか?」
 肩に掛かったスケッチブックを指差すと、露伴もちょっとだけ視線を動かして自分の傍らを見やる。
「……まあね」
 それから一口、ゴクリと音を立ててコーヒーを飲んだ。素っ気ない返事だと思う。もしかすると実際は違うのに、質問に答えるのが面倒で適当に流しただけかもしれない。それでも、自分にはそれだけで十分満足だった。
「そのバイク、久しぶりに見た」
 露伴がゆるく寄りかかっていたバイクに視線を移すと、露伴もまた同じ様に、その視線を追った。
「ぼくも乗るのは久しぶりさ」
 素っ気なく言いながらも、露伴は優しくハンドルを撫でた。いかにも大切そうなその動作を見ると、意味もなく自分まで嬉しい心地がしてくる。今帰って寝ればもう怖い夢は見ないかも、と、何の根拠もないけれど、漠然とまた安心した。

「最近何か変わった事ありました?」
「あったら康一くんに話してるさ」
 もし許されるなら自分ももう一度乗らせて欲しいが、露伴の態度からして今の所は無理そうだ。
「っスよね」
 即答に呆れつつもつい笑ってしまう。露伴は素知らぬ顔をしたまま、コーヒーを煽った。空になった缶をゴミ箱に入れて、すぐにバイクのエンジンを掛け始める。
「いや、一つある」
 跨るのをぼんやり見ていると、露伴がふと何か思い出した様な顔をした。
「何スか?」
 ハンドルを捻って音を唸らせながら、首だけ曲げて、こっちの顔を見据えてくる。

「今朝、君の夢を見たよ」
 それだけだ、と。
 呟いた露伴の顔には悪戯する様な、どこか優しい微笑が浮かんでいた。

 呆気に取られた隙に、露伴は含んだ笑いのままバイクを走らせ遠ざかって行く。
 その先を見るともう、いつの間にか朝焼けが始まっていた。



 2013/01/30 


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