口笛   仗露



 皿の泡を洗い流す、その水音には僅かに掠れた別の音が混じっている。

 背後から覗き込まれて、露伴は小さく驚き持っていたスポンジをシンクに落とした。反射的に身が引けたのだろう、距離を取るどころかむしろ近づき、背中が仗助の胸にトン、と軽くぶつかった。
「先生、今口笛吹いてた」
 そのぶつかった肩を抱いて、仗助はまた露伴の顔を無遠慮に覗き込む。視線はほぼ唇の辺りに向けられていた。
「吹いちゃあ悪いか?」
 押し退けてやろうと突き出しかけた手がまだ泡にまみれていて、結局露伴は肩だけで仗助の手を払った。上半身だけ仰け反らせて逃げた仗助を一瞬睨めつけたが、相手をするのも癪だったらしく、またすぐ皿洗いに戻った。

 隣に立った仗助は覗き込むのをやめたが、レンジフードには確実に額のあたる長身な為か、露伴からすれば覗き込まれている状態とほとんど変わらなく感じられた。それに俄かに苛立ちつつも、口を閉じたまま皿の泡を水で流していく。水の音だけが広いキッチンの中で、静かに響いていた。

「吹かないの?」
 自分が食った分くらい洗えと言い出すつもりで露伴が顔を上げた、そのタイミングで仗助がまた口を開いた。瞳はなおも露伴の唇に注がれている。露伴の眉が再度顰められた。
「ジロジロ見られてる中で吹けるか」
 丁度ほとんど泡が流れていた水に濡れた手で頬を叩こうとすると、また仗助が僅かに身を反らして逃げる。
「良いじゃん、吹いて見せてよ」
 逃げながらも露伴がほんの少し照れている事実に気づいた様で、薄らと嬉しそうな笑顔を作った。
「自分で吹いてろ」
 その笑顔を馬鹿にされたと感じたらしい。露伴の方も一歩分隣に近づいて、今度こそ仗助の頬に冷たい手をピシャリと叩きつけた。

「ひでぇ!」
 大げさに飛び退いて痛そうな素振りを見せつつ、実際手加減を尽くされた平手打ちだったおかげでますます仗助の笑みが深くなった。露伴はそれを無視して、結局仗助の使った分の皿までジャブジャブと水音を立てながら洗い流していく。反応がないのを少しつまらなさそうにしながら、また仗助は隣に立って露伴と同じ様にシンクの中身をしばらくの間無言で覗き込んでいた。
「露伴、時々鼻歌も歌ってるよな」
 けれどシンクの縁に手を着いた仗助が何の気なしに呟いた、その一言に露伴はギョッとして今度は皿の方を取り落とした。大した高さではないが慌てて拾い上げて割れていないか心配する、その一連の動揺に、言った仗助の方も俄かに驚いた様だった。
「無意識だったんスか?」
 どこか感慨深げに、仗助は改めて露伴の顔を注視する。睨んでも逸らされないその眼に負けて、露伴の方が誤魔化す様にふいと視線を逃がした。

「……いつ歌ってた」
 一度取り落とした皿をもう一度水ですすぎながら、露伴がどこか悔しそうにポツリと問う。
「昨日の夜とか」
 仗助は一瞬上に目線をやり思案する素振りを見せたと思うと、すぐまた何の気なしにそれに答える。露伴は何とか動揺を見せるのは我慢出来たが、実際無言だったが為にほとんど伝わっている様なものだ。
「原稿進んで気分良いんだろうなって思ってた」
 ニコニコと笑いながら言う、仗助の屈託なさに露伴は言葉が詰まったまま最後の皿を洗い終えた。

 事実、仗助が隣の部屋で寝ていると思いながら深夜に描く原稿の出来は何故か良かったのだ。まさかベッドを抜け出しているのに気付かれているとは露伴も思っていなかったようだが。

 気恥ずかしさと気まずさが同時に沸いたらしい。何も言わないまま手の甲についた泡を水で流す、その露伴を覗き込みながら、仗助も無言だった。けれどすぐ、唇を俄かに突き出して掠れた口笛を吹き始めた。
 露伴は最初驚いて目を丸くしたが、調子外れのその曲についには笑顔になった。

「下手くそ」
 蛇口を捻って仗助に顔を向けると、仗助も一瞬拗ねた様に突き出した唇のまま眉を顰めたがすぐに破顔する。
「じゃあやっぱ見本、見せてよ」

 言い終わるのも待たずに。露伴の濡れた手がもう一度、ピシャリ、と仗助の頬を打った。



 2014/07/03 


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