冗談話   承露



 夕方から降り始めた小雨は、まだ止みそうになかった。

「何か見えますか?」
 ぼんやりとその降り様を眺めていると、向かいに座った露伴が新しいビール缶を開けた音が聞こえた。彼が飲もうと誘ってきた、この庭に突き出た形のテラスは幸いにして広く今夜は風も吹いていない。少なくとも濡れる心配はなさそうだった。
 トクトクトク、と、ビールがグラスに注がれていく。
「街灯」
 実際、街灯以外は民家の明かりくらいしか見えなかった。案外普通の夜景なんかより、静かな雨の音を肴にするというのは風情があるかもしれない。そう思いながら座る向きを直すと、露伴が少しだけ困った様な顔でおれの顔を見詰めていた。それからすぐ冗談ではなく本気で言ったのを理解したんだろう。目を伏せて小さく笑い出した。
「……承太郎さんの奥さんは気苦労が多そうだ」
 一頻り肩を震わせた後ポツリと呟いて、今度は何か疲れた様に細くため息を吐いて見せた。

 意図を読み取ろう、と一瞬考えようとした。けれどすぐ、知るべきではないと脳裏で打ち消した。
 聡い彼はそれに気づいたんだろう。誤魔化す為にビールをあおる間も、どこか刺さる様な視線がこちらに向けられているのがわかった。
「一体どれだけの人に、憎い人って思われてるんだか」
 気付かないふりをして目を合わせないでいる内、露伴がまた疲れ切った声音で呟いた。視界の端でグラスを口に運ぶのが見える。
 そのグラスを、どうも手元が狂ったのか露伴は取り落とした。ガツッ、と小さな音が立ち思わず目を向ける。ほとんど飲み干したビールの泡が僅かにテーブルの上に流れていたが、割れた様子はなかった。
「先生?」
 バツが悪そうにグラスを立て直した、露伴のその顔を改めて見るとほのかに頬が赤く染まっている。
「……冗談ですよ、冗談」
 今度は露伴が誤魔化して、わざとらしい明るい声を出した。ビールを注ぎながら、あえてこちらに視線を寄越そうとしないでいるのが良くわかる。
「酔ってるのか?」
 自分もまるで茶化す様な、さりげない口調を作った。本当は酔っていてくれ、と、ただ自分が願っているだけだ。
「……正直、あんまり」
 露伴は視線を向けないまま、それを茶化し返してくれはしなかった。


「物珍しいから興味が沸いただけだろう」
 まるで言い聞かせる様に問いながらも、結局そうであってくれ、と、自分の都合で願っているのはこっちの方だ。
「はっきり言うなぁ」
 彼にはきっと、それも全部伝わってしまっているんだろう。掠れた声で、小さく笑うのが聞こえた。
「そうですね、そうかもしれない」
 合間にビールを飲みながら、まるで他愛ない風な口調だと思う。
「でも、そうじゃないかもしれない」
 けれどその自然な口調が、むしろ自分にとっては酷く真剣な意味を含んでいる様に思えて仕方なかった。

 やけに雨音が遠くに聞こえる。
 きっと実際はたった数秒の沈黙だったんだろう。露伴がビールを口に運びながら、ようやくこちらに目を向けた。
「でも、良いんです。冗談で済ませておいて、くれれば」
 その時にはもう、彼の普段通りの声音に戻っていた。


 小雨は未だ止む気配を見せない。それでもこの場に居るのが悪い気がして、最後の一口を流し込みながら席を立った。
「まだ良いでしょう?寝るには早すぎる」
 露伴はまるでさっきの会話を忘れた風に名残惜しんでそれを引き留めた。
 ほんの一瞬迷った。けれどすぐ、コートの襟を正しながら庭に降りる。

「おれが変な気起こしたら困るだろう、アンタ」
 茶化す様な体で言いつつ、実際そうなって困るのは自分の方だ。おやすみ、と付け加えながら逃げる様に視線をそらす。
 けれど露伴が驚いた顔をしたのがわかった。

「……冗談ばっかり」
 彼が背後で小さく呟くのが、自分には雨の中でもはっきり、耳に届いた。



 2014/06/01 


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