釣り合い 承露 深く貫いていた針を慎重に外す。親指で腹に力を加えると、口をパクパクとさせる動作が僅かに鈍くなった。 「承太郎さん、逃がすんですか」 露伴の言葉に頷き、釣ったばかりのヤマメを足元に放す。一瞬水の中に浮いた後、すぐに見えないところまで泳いで消えた。 「いつもは何でもかんでも採収してるでしょ」 露伴の方を振り向くと、どこかふて腐れた様に岩に腰掛けてスケッチブックを開いていた。初心者を渓流釣りに誘ったのは失敗だったかもしれない。釣れない釣りに、露伴は早々に飽きたらしかった。 「今のは若かったからな」 手を微かに上げて指先でサイズのジェスチャーを取る。露伴は目を細めてふぅん、と首を傾げた。 新しい餌を付けていると、ザブザブと水音がしたので再度振り返る。岩の上にスケッチブックを放り投げたまま、脇まで露伴が近づいて来ていた。 「何だ」 顔を覗き込んでも露伴は黙っている。始めたばかりだが今日はもうこれで終いにしようと思って仕掛けを流す。その途端に、露伴が糸を掴んでギョッとする。 また露伴の方を向くと、露伴も自分のした事に驚いた様に目を丸くしていた。 「ぼくが引っかかりましたよ」 けれどすぐ、何かに観念した様にそう呟いた。言いながら恥ずかしかったらしく、最初はこちらを向いていた視線を、川上の方に逸らしながら。 「……何だ、一体」 困惑したまま、取りあえず手を離させる。握ったまま少し手を滑らせたのだろう、露伴の手のひらには薄らと細い線が引かれていた。その線を親指で緩くなぞると、露伴はこちらに顔を向き直した。 「ぼくも、放しちゃうんですか」 言いながら、やはり恥ずかしいのか、それとも辛いのか、露伴は眉根を寄せた。 「……」 ぐっ、と掴まれた手を握り返して良いのか、自分には解らなかった。黙ったままでいると、露伴はまた何かに観念する様に、一度浅い溜息を吐いた。 「悩まれると、結構複雑な気分になるんですけど」 手を離して、露伴は背を向けた。喜ぶのも悲しむのも何だか難しいですね、とポツリと小さく呟いたのが耳に届いて、その言葉が何故だかグサリと深く突き刺さる。 「今日はもう、ぼく帰って良いですかね」 露伴はチラリと視線だけこちらに向けて、声の調子を少しだけ普段通りに戻した。腕を上げて、来た道の方をスッと指差す。丁度木陰が落ちて露伴の白い服に映え、チカチカと眩しかった。 「……居てくれるんなら、おれは、嬉しい」 その腕を掴みたかった。けれどその勇気が沸かずに、ただそう言葉だけを紡ぐ。露伴は驚いた様にこちらにまた顔を向けた。その瞳にまた木漏れ日が反射する。期待が込められている様な気がして、思わず自分の方が逸らしてしまった。 「ただ、あんたが逃げたい時には逃げてくれて、良いんだ」 言いながらこれはまずいだろうと、自分で理解した。露伴の方にそろりと視線を戻すと、その顔には明らかに失望の色が浮かんでいた。 「つまり、放し飼いってやつですね?」 そのままの顔で、けれどふざけた様な口調で露伴は首を傾げる。そんな言い方はないだろうと言いかけて、自分が言って良いはずもないとすぐに気付く。 「……すまん」 視線を彷徨わせた後、露伴の目を見つめて何とかそれだけ零す。 「ちょっと嬉しかったんですけどね」 露伴はほんの少し、首を竦めて見せた。 「別に、おれじゃなくても良いだろう」 背を向けようとした露伴が、その呟きにまた驚いた様に身体を半分こちらに戻した。年上で妻子持ちでこんな男、と付け加えようかと思案していると、露伴は面白くもないクセに、ふっ、と笑った。 「……承太郎さんって自分の価値、解ってないですよね」 そう言って露伴は歩き出す。また近々、と、片腕をひらひらさせて川岸に戻って行った。 「……あんた程じゃあないだろう」 最後の一言が露伴に届いたか、自分には解らなかった。 2013/08/02 |