気付いた後 仗露 知らなくていい事が世の中には五万とあって、そしてその中には知らない方がいい事も多分山ほどあるんだろう。 自分にスタンドを用いて読んでみた鏡越しのページ、右頬の下を小さく捲ったその中の一文。これは明らかに、知らない方がいい事の部類だったに違いない。 『東方仗助が気になる。』 何度瞬きして読み返してもページに刻まれたその一文はそうとしか読み取れない。逆さ文字で多少は読み辛いが、確かにどう読んでもそう書かれているとしか思えなかった。 思わず両手で頭を抱えかけ、鏡に映るその姿が余りに馬鹿らしくなってその腕を下ろした。『気に食わない。』なら納得できる。どう考えてもあの男と自分の関係は険悪そのもので、やる事なす事気に食わないと頻繁に思わされている。 もしかすると他のページにはその気に食わない旨も、全て記されているのかもしれない。一瞬ページを捲ってみようかとも考えた。ただあの東方仗助の名が記憶として自分の身体に点在してるんだと思うとそれこそ気に食わない気がして、またその手を止めた。 そもそも出掛けようと思い立って鏡を覗いただけだった。その顔色が地味に悪い気がして頬を擦ってみる内、ふと自分を本にしてみようかと好奇心が沸いた。その好奇心でうっかりと猫を殺してしまったのだ。酷く嫌な気分のまま洗面所の電気を消して家を出た。ドアを開けた瞬間のムワッとした熱気で、余計鬱屈した気分になってくる。 「露伴先生、どーも」 更に追い打ちをかける様に、数分歩いただけで鬱陶しい声が道の先から聞こえてきた。厄日っていうのはつまり、今日みたいな日の事なんだろう。 「……何か用か」 正面からの日差しが眩しくて、靴の爪先ばかりに向けていた視線を上げる。やはり声の主は東方仗助本人で、普段乗った所を見たことはなかったが自転車を押していた。 「いや、下向いて歩いてっから。気分悪ぃのかと思って」 自転車のかごにはコンビニの袋が押し込まれている。服装は珍しくTシャツ短パンにサンダルで、蒸し暑い今日見たいな日に学ランを拝む羽目にならなかった事だけは評価できる。髪型は相変わらずのダサいリーゼントだが。 「君と会ったせいだよ」 睨む労力すら使うのが惜しい気がして、表情をなるべく変えない様に毒づく。じわりと滲んでいた汗が玉になって頬を伝う感触があった。こいつがこんな時間に徘徊しこんな格好なのは夏休みだからなんだろうと、手の甲で汗を拭ってようやく気付いた。 「今日もすげぇ気立ってんな」 仗助が一瞬口を尖らせたが、すぐにしょうがないと言いた気に苦笑いを作って見せる。またそのいかにも譲歩しました、という笑い方が気に食わなかった。 「黙れ!君が、き……」 言おうとして、頭の中の整理が追いつかず思わず口を噤む。 「き?」 そもそも何と言えばいいんだ、『君が気にさせているだなんて気に食わない』とでも言うつもりだったのか。記述の事を喋ったところでろくな事があるはずもない。 「センセーがおれのこと嫌いなのはもー知ってるっスよ?」 人が必死に言葉を探している時に、首を傾げて仗助が口を挟む。この間の合わなさもきっと犬猿の一つの原因なんだろう。 「違う!そうじゃなく、て」 そうじゃなくて、気に食わないだけだ。じゃない、嫌いなことを否定してどうする。どういうわけか焦ってきている。日差しがジリジリと肌を焼き、首筋を汗が伝っていった。 「え?」 仗助は驚いた様に目を丸くしてまじまじこちらをじっと見つめてきた。 「おれ、嫌われてるわけじゃねーの?」 そう言ってまた首を傾けたその顔がほのかに嬉しげに見えてしまい、今度はこちらが虚を突かれた。 「……違う、嫌いだ!気に食わない!」 その表情を見て思わずまた口を噤みかけた。けれど仗助に勘違いさせたままでいるのがやはり絶対に気に食わない、気がした。 「何スかそれ……」 仗助はどこか残念そうに唇を尖らせた。けれどまたすぐ、そんなこと忘れたとでもいう風にこちらに身体を向き直した。 「マジで気分悪いとかならチャリ乗ります?送るっスよ」 そう言って、仗助は自転車の荷台を指差した。実際自分は暑さに参っていて、気分が悪い理由が嫌な奴と会ったからだけではどうもないようだと、薄々勘付いていた。 「……それだよ」 それを仗助に見抜かれているのが、やはり気に食わない。 「どうして嫌いだと正面切って言われた相手に、そんなこと言えるんだ」 我ながら心底忌々しげな口調になったと思う。 「や、別にこんぐらい知り合いならフツ―っしょ」 仗助はそれこそ当たり前、と言いた気に頬を指先で掻いた。 この男にとって単純な事が、ぼくにとっては酷く難しい。それが本当に、どうしても気に食わないのだ。 「あと、別におれはあんたのこと嫌いなわけじゃねぇし」 また無意識の内に俯いていた。けれど仗助の言葉は想像もしていない物で、顔を上げるのにしばらく時間がかかった。 「センセ、おれも気が長ぇ方じゃねーんで。乗るの?乗んねぇの?」 呆気に取られたぼくの顔を見ても、仗助は誤魔化す風もなく、また自転車を指差して自然と言葉をつづけた。 「……乗らない」 「あ、そう」 仗助はぼくの返事が想定通りだったらしく、さっと自転車に跨ってペダルに足を掛けた。 「気ぃ付けて帰れよ」 答えないまま横を通り過ぎたのは自分だと言うのに。背後に去っていく自転車を漕ぐ音が、酷く気に食わないと感じた。 2013/07/30 |