全て 仗露 仗助が優しい手つきでぼくの一番大事にしている右手に触れた。触れた先からじんわりと暖かくなった気がして、それから傷の痛みが和らいでいく。 「おまえが居ると厄介だな」 「ん?」 後ろから抱きかかえたまま仗助が覗き込んでくる。その動作に合わせて、二人分の重みに耐えかねた様にソファーが一度、ギシリと鳴った。 「元々痛みには強い方だからその傾向はあったんだが」 先ほどまでの痛みを思い出そうとしてみる。ちょっとした好奇心で随分大きな傷を作ってしまったと少し反省したが、生理的な涙が滲むまでもない、わずかな痛みだったはずだ。 「おまえが治してくれると思ってるから、昔以上に怪我に鈍感になってきてる」 それでも血の出方が尋常じゃないことは一応分った。だからこそこうして当日の内に仗助にスタンドで治癒を頼んだ。喉元過ぎればなんとやらで、完璧に治った今はわずかな痛みすら思い出せない気がした。 「別に良いじゃん」 そう言ってニカッと笑う、仗助の顔を横目で見やる。どうもぼくに頼られるのが余程嬉しいらしい。まだ礼も言っていないどころか厄介だと言った後だと言うのに、どこか褒められて喜ぶ子供の様に声の調子が緩んでいた。 「おれが治したげるっスよ。腕でも足でも、全部」 繋いだままの右手をプラプラ持ち上げて、仗助が耳元でくすぐる様に囁いた。ジゴロだな、タラシだなと内心毒づく。けれど、それを喜んでいるのも自分自身に違いなかった。 「それはそれで問題だな」 視界の端で揺れる自分の右腕を眺めながら、頭を僅かに反らして仗助の肩に体重を掛ける。 「何で?」 仗助がまた覗き込んだせいで、首の裏に当たった鎖骨の感触が強く感じ取れた。 「万が一漫画を描く気が無くなった時……放棄する理由がなくなる」 言葉を慎重に選びながら紡いだ。言い訳を用意したいと言うよりは、正当な理由がないと満足できないだろうと、自分が一番良く分っているだけだ。 「何それ」 仗助はそれを聞いて、いかにも可笑しそうに小さく笑った。 「頭良い人って、考え過ぎて時々すげぇ馬鹿なこと言うよな」 おれには考えつかねぇ域っスよ、と。言いながら、揺りかごの様に仗助は身体を前後にゆっくりと動かす。 「真面目な話だぜ、こいつは」 まるで赤子をあやす様だと思いながら、チラリと仗助の顔に視線を上げる。仗助はまだ可笑しそうにニコニコ笑っていた。 「正味な話、手が折れても口や足が残っていればぼくは描くさ」 繋いでいた右手をようやく離して、仗助の視線の高さに合わせて右手の甲をかざして見せる。仗助のおかげで傷一つない、何の違和感すらも感じられない、万事快調のぼくの右腕だ。 「漫画を描くことから逃げられないし、逃げたくない」 また言葉を選びながら、やけにネガティブに取れる言い様になったことに自分で驚く。 「……ぼくがそういう奴だって知ってるだろう」 それでもあくまで自分の選択で逃げないんだと、仗助なら理解してくれるだろうと勝手に結論付ける。また一つ、仗助に甘えてしまったことになるんだろうか。 「そうっスねぇ」 仗助は少し唸る様に同意したが、暫く考え込む風に、またゆらゆらと身体を揺らした。 「先生」 その揺れが心地良いとぼんやりしていたが、仗助の声音がやけに改まって聞こえて僅かに驚いた。 「先生が漫画から逃げたくなったらおれが」 思わずまた、振り返る様に仗助の顔を見つめる。 「おれが、あんたの腕も足も、口も、全部壊してあげるから」 だから安心すると良いよ。 そう言い切って見せる仗助の顔は、庇護する様に愛撫する様に、この世できっと一番優しい微笑を浮かべていた。 「そうか」 その微笑みが空恐ろしい気がして、つい顔を逸らしてしまう。 「そうだな……」 けれど同時に、喜びを感じていることにまた気付いてしまった。 「そうっスよ」 能天気に聞こえる仗助の同意が、やはり怖くて嬉しい。そう思えた。 「けどな、目がつぶれたって……線は引けるんだ」 また、右腕をヒラリとさせて見せる。寄りかかって下から覗き込むと、仗助は一瞬キョトンとした風に、目を丸くした。 「嫉妬しちまうなぁ」 言いながら、仗助が緩い動作でぼくの右腕を捕まえる。 「おれがあんたの手も足も、口も目も、何もかも。全部奪っちまいたいよ」 手首や甲にキスを落としていきながら、また仗助はニッと微笑んで見せた。 「それなら良いかもな」 やるならそれくらい徹底的じゃあないと腑に落ちない。ぼくがそういう奴だと仗助はちゃんと理解しているんだと思うと、もう喜ぶしかなくなってくる。 顎で促すと、右手から離れた唇が瞼の上に触れた。酷く柔らかい、首筋に当たる仗助の骨とは全く異なる感触の悦びをぼくに与えてくれた。 「ぼくから全部……奪ってくれよ」 漫画が無くても生きていける程。 それくらいぼくから全てを奪って、そして全てを与えてくれよ。 2013/07/23 |