無い物   承露



 ホテルの一室から見える景色はいつの間にか夜色に暮れている。
 ほとんど何も見えない窓の外に露伴が目を凝らしていると、あの漫画家が死んだらしいなと、承太郎の口から見知った同業者の名前が零れた。

「承太郎さんお好きでしたか、あの人の作品」
 露伴は少し驚いた風を装ってそれに答えた。けれど一昔前のあの作家は丁度彼が学生時代に連載していただろうと、内心勝手に納得をしていた。
「好きって程でもねぇが……読んでいた」
 確かに買っていた漫画雑誌の記憶が承太郎にはあった。しかし、最終回まで見届けた記憶は、どうにもなかった。

「ふぅん」
 妙に気のない返事を受けて、承太郎も窓辺に近づいて覆いかぶさる様に外の景色を見つめる。街灯はぽつりぽつりと道路を照らすだけで、その先にあるはずの海もただ黒の一色に染まっていた。

 承太郎が左手で露伴の髪を掻き撫ぜる。常時はヘアバンドに隠れている額やこめかみを指先が掠めていく。露伴はそれに抵抗しようとはしなかったが、反応を示そうともしなかった。

「……でも、ぼくの漫画の方が面白いでしょう」
 真っ暗な外を空恐ろしい気持ちで眺めていた承太郎は露伴の言葉に少し虚を突かれた気になった。刺々しい物言いになったと露伴も自分で気づいた様で、言った後からバツが悪そうに顔を俯けた。
「……嫉妬か?」
 問われた露伴はしばらく口を噤んでいたが、やがて観念した様に肩の力を抜いて、承太郎の身体に柔らかく寄りかかった。
「……正直、奥さんの話を出された時よりも嫉妬しました」
 自分でもちょっとどうかと思うけど、と付け加えた露伴を、承太郎は窓に映る視線越しに笑った。
「先生らしいな」

 腕を身体に回されて、露伴は先ほど以上に力を抜いて承太郎に身を委ねる。それでも露伴の視線は窓から外れない。自分たちのほんの少しの挙動をも、目の前の窓は鏡の様に一つ残らず映し取っている。本当はその先には闇ばかりのはずなのに、あちらの方が随分幸せそうに見えた。
「……おれとしては残念だが」
 露伴の首元に顔を埋める様に近づける。ちょうど自分の身体には星の痣がある辺りに吸い付きながら、承太郎も窓から目を離そうとしなかった。自分にはある、妻にはない、露伴にもない、娘にはある。今本にされて読まれたら困る様な事ばかりが脳裏に浮かんだが、窓に映る露伴はくすぐったそうに身をよじるだけだった。

「まあそこはお互い、トントンってことで」
 笑いながら、露伴は右手の人差し指で窓を二度、トントン、と自分の言葉に合わせて叩いた。一枚隔てた向こうの闇を実感させる様に、その音は反響すらせず消えて行った。
「トントン、か」
 繰り返しながら承太郎も、丁度手の下にあった露伴の鎖骨を指で叩いた。こちらも大きく響きはしない。けれど、皮の下に詰まった血肉とそれを支える骨の存在を想像させる、鈍い音として承太郎の耳に届いた。

「良いじゃあないですか。無い物ねだりのない人生なんて、つまんないでしょ」
 首元を這う承太郎の手を、遮る様に露伴は握る。
「確かに」
 首を反らして承太郎の顔を見上げると、承太郎もようやく窓から目を逸らして、応える様に覗き込んだ。
「その方が燃えてくる」
 そう呟かれたばかりの唇が額に触れ、露伴はまたくすぐったそうに身をよじって笑った。
「ははっ、本当かなぁ」
 ホントはその気なんてないんじゃあないの、と、まるで冗談の口調で露伴が問う。力の込められた手に気付きながら、承太郎の方もさも当然と言う風に、口元に微笑を閃かせていた。

「そんなの……終わった時にわかる話だ」



 2013/07/15 


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