近距離   承露



 妙な体勢だと思いながら、真横に座っている露伴に視線だけを向ける。露伴はそれに気付いたが、特に反応もせず、背もたれに身を委ねて熱心に絵を描き続けていた。
「露伴」
 右手の甲で頬を緩く撫でるとくすぐったそうに目を細める。
 最初の内は慣れなかった近距離でのスケッチも、最近では仕事をしながらでも露伴の様子を窺うのが容易になったので気に入ってきていた。
「何?」
 矯めつ眇めつ真横から観察されながら論文を書くのは少し気恥ずかしかった。けれどこうして手を伸ばせばいつでも触れられる距離というのは、かなり魅力的だ。

 描く手を止めて露伴は顔を上げた。膝を抱える様に座っているせいで少し窮屈そうだが、スケッチブックを覗き込めばいつも通り自分の横顔や手元が丹念に描かれていた。
「あ、見ます?」
 少し浮かれた調子で手渡してくるので、前の方へとページを捲っていく。やはり自分の顔ばかりが並んでいて、妙に面映ゆい。
「飽きないか」
「飽きないですね」
 即答した露伴が、鉛筆を指先でクルリと回したのが視界の端で見える。
「承太郎さん、中々居ないくらい整ってますもん」
 頬を撫で返されたので、スケッチブックから視線を上げる。露伴はニヤニヤと楽しそうに笑っていた。
「実を言うと、あんまり整い過ぎてるから最初は描き甲斐なさそうって思ってました」
 最初というと、やはりこうした関係に至る前だろうか。自分にとっての最初は、おそらくスケッチを頼まれたあの日が本当の意味で始まりだったのだろうと思っている。しかし露伴にとっては違うかもしれないと、今日になって思い至った。
「でもやっぱり、想像と実際は違いますよね。全然思った通りに描けないんで毎日歯がゆいですよ」
 露伴は眉を寄せながらも、やはり笑っていた。その内機会が恵まれたなら最初がいつなのか訊ねてみたいと思いながら、スケッチブックを露伴の手元へ差し出す。最初のページのスケッチは、自分がまだポーズを頼まれていた頃の物だった。

 受け取ろうと露伴が腕を伸ばした拍子に、椅子の縁ギリギリに置かれていた足が滑って、ガクリと身体が沈んだ。驚いてバランスを取ろうとしたが、やがてずるりと床に落ちた。思わず自分まで目を丸くしてしまう。
「うわ、いったい……」
 少し遅れて上半身を起こした露伴は照れた様な、まだ驚いたままの顔で打ち付けた肘をさすった。
「……あんたは案外、隙があるな」
 手を差し出しながら思わず言ってしまう。
「はぁ?」
 立ち上がりながら露伴も思わず、という風に訝しげな声を出した。

「もっとかっちりした人間かと思ってたが」
 何となしに、脱いだままでなく揃えて床の上に並べられた靴を見やる。第一印象通りなら、この靴の揃え方の様に椅子にもきっちりと座っていたのだろう。少なくとも、初めて対面した時には椅子から落ちる様を見ることになるとは想像していなかった。もっとも、そんなことを想像する方が稀だろうが。
「抜けてるって言いたいんですか?」
 椅子に座りなおした露伴はそう言ってむくれかけたが、すぐに鉛筆も落としていることに気付いて床の上を探し出した。
「いや」
 その一連の動作がやはり、最初のイメージと随分違っている様に思えた。思わず少しニヤついてしまう。
 それを露伴に気付かれてしまったらしく、また一瞬ムッとされた。
「これはつまり」
 わざとらしく説明掛かった口調を一度途切れさせ、椅子の上で体育座りの様になっていた脚を伸ばした。そのまま自分の膝の上に置かれた爪先を一瞥して、改めて露伴の顔を見ると笑顔に戻っている。
「あなたに気を許してるってことですよ」
 グリッ、と露伴が踵で太ももに体重を掛けてくる。靴のままだったら汚れただろうな、という思考には至るが、別にこれが侮辱的なものだとは感じない。
「それは……喜んで良いのか?」
 足首を掴んで見せると、筋肉の収縮が手のひらから伝わってくる。
「それは、承太郎さんのお気持ち次第ですね」
 真面目な顔で言ってから、からかう様に露伴はまた、小さく笑った。

「椅子から落ちるなんて、自分でも思ってなかったんですけどね」
 恥ずかしいや、と、露伴はスケッチブックを抱え直した。
「可愛げがあるのは良いことだ」
 掴んだままの足首に親指で力を加えると、露伴は唇を少し尖らせる。

「やっぱり抜けてるって言いたいんでしょ?」
 また、露伴の踵が小さく太ももを抉った。



 2013/05/27


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