逃避行   承露



 日が暮れ切る寸前の、薄暗いホテルの室内が二人には妙に居心地が良かった。

「読んでも良い」
 ベッドに四肢を投げ出した承太郎の言葉に、露伴はしばらく考え込んだ。
 首を傾げて視線を天井に向け、その後承太郎の方に向き直る。承太郎は目が合うと、促す様に一度だけ、小さく頷いた。

「それってさ」
 露伴が片膝だけベッドに乗せると、ギシリとスプリングが音を立てる。
「読んでも良い、じゃなくて、読んで欲しい、じゃないの?」
 覗き込んだ露伴がにやっと笑うのを見て、承太郎も少しだけ、微笑んだ。
「どっちもだ」
 どっちにしたって読めるのはあんただけだろう、と頬を緩く指先で摘ままれて、露伴は釈然としない風に上半身を起こした。
「ぼく以外が読めたなら、そいつでも良いくせに」
「おれだって相手は選ぶ」
 露伴の拗ねたような口調にまた、承太郎は笑った。

「読むなら、電気は点けなくちゃね」
 言いながら、露伴は窓辺に近づいてブラインドを下げた。承太郎はしばらく目を慣らす様にぼんやりと暗闇を見つめていたが、やがてサイドテーブルのランプに手を伸ばした。
「一気に夜になったみたい」
 お互いの輪郭が急に明瞭になった。露伴が可笑しそうに笑うので、承太郎も薄く微笑んで手招きする。密着してしばらくの間、他愛なくじゃれていた。

「読みたいけど」
 ボソリと露伴が呟いたのに、承太郎は窺う様に覗き込む。お互いの身体に回された腕が少しだけ緩んだ。
「読みたいけど、読みたくないな」
 承太郎の胸板に顔を埋める様に、露伴はその窺う視線から逃れた。

「あんたの過去も家族も、今、何を考えてるのかも。知ったら多分、ぼくは逃げたくなる」
 言葉にしなくても行動の端々に、それは如実に表れている。それでさえ見ない様に必死でいるのに、もし本にして目の当たりにした時。自分が今まで通りの態度を貫ける自信が露伴にはなかった。

「逃げても良いぜ」
 承太郎の言葉は庇護する様な優しい口調だった。指先で露伴の髪を梳く、その動作も酷く柔らかい。
 露伴は少し驚いた様に顔を上げて、視線を合わせた。
「逃げたくなるだろうけど」
 しばらくされるがままに撫でられていた。その内に、承太郎の身体の上に据えていた拳を握りしめながら声を絞り出した。
「でも……逃げたくないんだよ、承太郎さん」
 不安げに揺れていた瞳がその間に力を持ったのを承太郎は見逃さなかった。

「そうか」
 言いながら、承太郎は露伴の二の腕をガシリと掴んで、少し抱き上げる様に身体を浮かせてみせる。
「おれも、逃がしてやりたい所だが……正直逃がしたくない」
 鼻先が掠る距離でそう囁いた。囁いてから、驚いた顔の露伴を転がして覆いかぶさる。
「あはっ……それだけでぼく、少し勇気が出てきましたよ」
 吹っ切れた様に露伴は笑い出して、その承太郎の肩に腕を回した。

「ぼくは綺麗事で済ます気なんてないぜ、承太郎さん」
 そう言って露伴は不敵に笑ってみせる。
「だろうな」
 先ほどの不安そうな表情が嘘の様で、承太郎も口辺に笑みを浮かべた。
「何か書き込んで良い?」
 また読む時になったらだけど、と露伴は承太郎の胸元を拳で一度、トンと叩く。
「……書くなっつっても、あんたなら書きそうだな」
 呆れた風な、承太郎の声はやはり優しい。

「良いぜ。あんたが……そうしたいなら」
 それでも枕元の灯に照らされた二人の顔には、暗い影が確かに落ちていた。



 2013/05/20 


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