白昼の夢   承露



「現実と妄想の区別、かぁ」
 カラン、と、露伴が手にしていたグラスの中で、氷が勝手に解けて音を立てる。寝不足の頭にはその音がやけに大きく響いた。
「それってだいぶ、やばいと思いますよ。……承太郎さん?」
 聞いてます?という露伴の訝しげな声。確かに聞いている。聞いてはいるからああ、と返事はしたが、この状況自体現実なのか妄想なのかよく分っていなかった。

「ちょっとぼんやりし過ぎじゃないですか?」
 露伴が指の腹で、グラスについた水滴を弄ぶ。その動作が妙に生々しく見えて、吐き気すら少し催した。
「……やけに鮮明な夢ばかり見て、最近眠れていない」
 喉は渇いている。けれど自分がいつの間にやら注文したアイスコーヒーに、手を付ける気になれなかった。
「どんな夢ですか?参考までに」
 カフェの窓を隔てた向こう側では、太陽がジリジリとアスファルトを焼いている。クーラーの効いた店内にいる自分はその日差しから逃れている。だのに瞳は熱気を発散させる歩道を眺めている。それで何も可笑しくはないはずなのに、何かがあべこべな気がしてきた。

「……仗助を殺しかける夢を見た」
 自分の発した言葉によって、露伴の瞳が好奇心を滲ませた瞬間を見て取った。
「次に億泰、その次に康一くん」
 どんな風に殺そうとしたのか、言うのも憚られた。
「この町の顔見知りを、何度も殺しかけた」
 不思議と過去の友人や、別の場所で会う人間はこの夢に出てきたことがない。
「そういう夢だったんだ」

 しばらく露伴は腕組みをして、何事か考えている風だった。そういえば、今思い返すと夢は血の色まで鮮明だった割に、相手は何も喋らない、無音の夢だったと気付く。
「先生」
 露伴は呼ばれて、やはり黙ったまま顔を上げた。
「おれは今朝、あんたをついに殺した」
 そう。丁度こんな、無音の中で。


「……馬鹿だなぁ、承太郎さん」
 露伴は目を瞬かせて驚いた表情をしていたが、すぐに、笑い始めた。ほとんど氷が融けて水になっているグラスを傾けて、薄いアイスティーを流し込むのを見届ける。
「夢はね、ただの夢ですよ……」
 そう言う割に、口元に微笑を張り付けたままの露伴の、その目は笑っていなかった。
「夢の中で殺した相手に相談って、すごいですね」
 承太郎さん、そういうところでズレてる気がしてました。そんな露伴の言葉に確かにそうかもなぁとぼんやり、思考の中でだけ同意する。
「まあ、殺しかけた、と殺した、だと、全然違いますもんね」
 少し浮かれた様な、弾む露伴の声が妙に不快に感じた。

「ねぇ承太郎さん。教えてくださいよ」
 言葉に促されるように、顔を上げて目を合わせる。岸辺露伴という青年はこんな顔をしていただろうかと今更感じる。
「何を?」
 そもそも、ほとんど会話した経験もなった気がする。どうやってここに呼び出したのだったか、電話を掛けたんだっただろうか。
「どんな風に、ぼくを殺したのか」
 急にブワッ、と汗がにじんだ。

「……せんせい」
 先生、いや、自分は彼を先生と呼んでいたのだろうか。露伴。露伴先生?岸辺?露伴くん。君、あんた。
「承太郎さん」
 何もかもしっくりこない中で、彼が自分を呼ぶ声だけは妙に馴染んで聞こえる気がした。


「承太郎さん?」
 急に明瞭な声でもう一度呼ばれて、撥ねるように顔を上げた。聞いてます?という訝しげな声に、なんとかああ、と声を絞り出す。
「ちょっとぼんやりし過ぎじゃないですか?」
 覗き込んでくる露伴の顔は、不思議そうに眉が顰められている。ああそうだ、岸辺露伴はこんな顔だった。
 なんとなしに安心して、頭を振りつつ、肩の力を抜いてアイスコーヒーに手を伸ばす。それでも飲む気になれずに、自分も指の腹でグラスの側面の水滴を拭った。
「……すまない」
 乾いたままの喉で声を出したせいで、妙にそれが掠れて自分の耳にも届く。
「別に良いですけれど」
 呆れた様に、露伴は椅子の背もたれに背を預けた。飲み干されたアイスティーの、グラスのふちを指先で弄っている。外のテラス席の、ひさしの隙間から射した細い光が丁度、その手元を照らしていた。
「人間、脳で物を見て感じて考えてるわけですから。脳が誤作動しない保証なんてないんだ」
 急に真面目な顔で露伴が言うのに驚く。彼らしいくどい言い回しだと、なんとなしに感じた。
「今こうして喋ってるぼくも、あんたの空想の一部に過ぎないって可能性も……無いことはないし」
 冗談の口調で、露伴は笑う。その顔が一瞬、やはり目だけ笑っていない様に見えた。

 また、汗が噴き出した。


「承太郎さん?」
 露伴の顔はいつの間にか不安そうな、心配している風な顔つきに戻っている。聞いているかまた問われた気がしたが、喉が渇いているせいで、上手く相槌が打てない。
「ちょっとぼんやりし過ぎじゃないですか?」
 露伴はからかう様にそう言って、笑った。

 窓の外では相変わらず暑い日差しが地面を焼いている。
「承太郎さん?」
 露伴はそもそも、どんな風に笑う青年だったのか。思い出せないのか、それとも最初から知らないのか。


 手元のアイスコーヒーは、いつの間にか氷が融けきって透明な層を作っていた。



 2013/05/14 


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