海の水   承露



「海を本に出来たら良いのに」
 聞こえるか聞こえないかの距離で、露伴は承太郎の背中に話しかけた。
 海辺を歩き回る承太郎の革靴は少し重たそうに水を含んでいる。裾まで浸るのも気に掛けず波打ち際に入っていくのを、露伴はいつも趣味が良い靴なのに勿体ないと、そう思っていた。

「どうして?」
 承太郎は振り返らずに訊ねた。視線は足元を眺めていることもあれば、海の先をじっと見つめていることもある。露伴はやはり、その背中だけを見つめていた。
「海は生き物、とか、良く聞くから」
 だから、本に出来れば面白いと思って。露伴は冗談を言う口調でそう付け足した。小さく掠れた笑い声は、波の音で掻き消える。 
「海の記憶を読むのは楽しそうでしょ。歴史だか思い出だか、知らないけどさ」
 承太郎はふと足を止めて振り返った。露伴の方も一瞬戸惑ったように立ち止まったが、すぐにまた、承太郎よりは狭い歩幅で近寄っていく。
「確かに、楽しそうだ」
 承太郎が表情を変えもせず言うのに、露伴は口角を上げて意地悪く微笑んで見せた。
「でもね、本に出来たら、どうしても書き込んでやりたいことがあるんだ」
 隣に並んで露伴は海に視線を向けた。承太郎もつられて、水平線の方を見やる。
「……あの海水、全部蒸発させてやりたいんです」

 露伴の言葉に、承太郎は少しの間を置いてまた、首を曲げた。見つめられても、露伴は承太郎の方を見ようとはしなかった。
「だって承太郎さん、海で死にそうなんだもの」
 消え入るような声が、波の音を縫うように承太郎の耳には確かに届いた。
「だから海、嫌いです」
 俯いた露伴はもう、海を見ていなかった。

「……すまない」
 露伴が黙っている間に、承太郎は少しバツが悪そうにしながらも胸元から煙草を取り出した。それを見て露伴は一瞬だけ、笑った。
「海も、煙草も。承太郎さんが好きな物、ぼくは嫌いだなぁ」
 火を点ける直前で承太郎は静止した。しばらく指先で弄んで、その一本をピン、と弾いた。
「露伴」
 波打ち際で煙草が攫われるのを見届けた後、承太郎は身体を反転させて露伴に向き直る。露伴は何かを予感したように、少し顔を顰めた。
「……おれは、あんたが」
「承太郎さん」
 意を決したように口を開いた承太郎の言葉を、露伴は簡単に遮った。
「ぼくはそんなこと言わせたかったんじゃないんだ」
 その声はか細く、震えている。
「ごめんなさい」

 ああしょっぱいや、と呟いて、露伴はまた俯いた。
「海の水と同じ味」
 一度泣き出すと止まらなくて、と、両目を擦って誤魔化そうとする露伴に承太郎はただ、黙ってハンカチを渡した。
「……やっぱり承太郎さんは、恰好良いなぁ」
 受け取ったハンカチを握りしめたまま、露伴は泣きながら茶化すような声音になる。
「でも承太郎さん、泣くような奴は嫌いなんでしょ」
 上手くいかないもんですね、と呟く露伴を見つめて。承太郎は辛そうに、眉根を寄せていた。

「露伴」
「承太郎さん」
 言わなくて良いよと、露伴は使わないままのハンカチを承太郎の胸に押し付ける。
「本当にね、こんなこと言う自分が、すごく、嫌いなんだ」
 前はもっと、自分に自信があったはずなのに。
 露伴のその弱々しい声は、波の音に呑まれ承太郎の耳以外には決して届かなかった。
 
「……恨むよ、承太郎さん」



 2013/05/09 


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