原風景   仗露



 自転車の荷台に括りつけた鞄が、やけに重たかった。
「仗助。一応言っておくが」
 露伴が額の汗を拭いながら振り返る。
「こけたりするんじゃあないぞ。中のインク瓶が割れる」
「わかってますよォ」
 緩い坂道の一番上は未だ見えない。周囲の木々から蝉がつんざく様な鳴き声を響かせているのが、暑さの感覚に拍車を掛けている気がした。

 露伴のスケッチに荷物持ちでついて行くようになった。大抵は近場の街中や公園で、こうして少し遠出をするのは今日が初めてだった。遠出と言っても、足で日帰りできる山の方だから、遠足と言った方が良いくらいかもしれない。
 夏の日差しは予想していたよりも強く、露伴もおれも目的の展望台に着く頃には汗だくになった。車を出せばクーラーも効いて快適だろう。けれどお互いそれは言わずにいた。露伴は自分の足で歩いて観察するのを重視していたし、おれは荷物持ちの意味がなくなってしまうから。

 三十分毎に声を掛けろと言って、露伴は日の照りつける地面に腰を下ろした。丁度切り立った崖の手前で、そこからは杜王町の一部が望めた。
「センセー、せめて日の当たんないとこで描きなよ」
 露伴はスケッチを始めた手を止めない。
「日陰で描くとコントラストが滅茶苦茶になる」
 ただ、集中すると時間を忘れてしまう。熱中症を防ぐために、三十分毎に休憩を挟むらしい。自分は木陰から少し猫背になった背中を眺めて、汗が引くのを待った。
 やけに重かったカバンの中身は露伴の言った通り、色とりどりのインクの入った瓶だった。普段は外で色まで塗る事自体が少ない。今日は遠出のついでに、写生するつもりのようだ。飲み水かと思っていた水のペットボトルもインクや筆を使う為の物らしい。

 背後からでもスケッチブックの上に見事に風景が描かれていくのが見て取れる。その筆運びには迷いがない。自分は漫画どころか普通の絵画にだってほとんど詳しくはない。けれど露伴が絵を描いている、その命を削っている瞬間をあえて呼ぶならば、何よりも芸術という言葉が似合う。そう、いつも思っている。
 やがて色も次第に塗られていく。真っ青な雲一つない、しかしただ青一色といわけではない眼前の空。まだ青いが、秋には黄金の稲穂が頭を垂れるであろうのどかな田園。その合間にぽつりぽつりと民家が建っている。丘の上から見る景色は解放的な光景ではある。ではあるけれど、露伴の描いている絵は、そのただの広々とした光景をどこか凌駕した、言い表せない感動を含んでいた。
「郷愁、とかかな」
「ん?」
 どうしても言葉に出来ず、頭の中で一番近く思えるそれをつい口に出した。露伴が怪訝そうに顔を上げたが、ちょうど三十分経ったくらいだったことに気付く。

 茹だったように露伴は汗をぽたぽたと垂らしていた。けれどその目はいつものように力強く、輝いている。本当に絵を描くのが好きなんだろう。
 スケッチブックやインクも全て日陰に運んできたが、よもや一枚で満足したはずがない。訊ねると、やはりまだまだ描くつもりのようだ。

「あんまり日に当てたくないんだ」
 汗を拭って、露伴が指先でインクの瓶を突いた。コバルトブルーと書いてあるラベルの奥で、液体がゆるりと震える。
「なんか、日に当ててっと悪くなりそうっスね」
 色を塗る道具なのだからてっきり絵の具のようなネトネトした物を想像していたが、インクはまさに液体その物らしい。
「カラーインクは特にな」
 けれど瓶の中は青を凝縮したような濃い色だった。露伴も先ほどは水と混ぜて色を作っているように見えた。

「日光ですぐに劣化しちまうんだよな、こいつは」
 露伴は少しつまらなさそうに、描いたスケッチを眺めている。日光に晒して乾かすことはできないからと、時間が勿体無いようだった。
「今まで描いた、色のついた絵ってどーなってんの?」
 原稿の最中は邪魔するな、と仕事場に中々入らせてもらえないし、自分は雑誌や単行本で露伴の絵を見ることもない。ほとんど初めて見た露伴の色の乗せられた絵に、自分は釘付けになっていた。
「編集部で保管されてるさ」
 もっともデビュー前のはいつの間にか失くされてたけどね、と露伴が意地悪く言う。東京では失くした編集者が悪寒でも感じているかもしれない。
「ふぅん。でもそれ、ちょっと勿体無い気もするっスね」
 身を乗り出して覗いていたので、露伴がスケッチブックごと寄越してくれた。やはり鮮やかな風景が、酷く美しい。
「折角露伴の描いた生の絵、見る人が限られてるなんて」
 勿体ねぇよ、と言いながら露伴の顔を見ると、少し驚いた様に、目を見開いていた。
「……それが週刊漫画家の仕事だ。雑誌になって読者の手元に届けば、ぼくは構わない」
 けれどすぐ目を逸らしてしまう。まあ確かにその通りかな、とも思う。
「そう?」
 覗き込んでも露伴は顔を更に背ける。
「そうだ」
 こちらを見もせずに、スケッチブックを奪われた。
 露伴の手元の絵と、風景とを何度か見比べてみる。
「露伴」
 生まれ育った町と露伴と、露伴が描いたその町。成る程、単純だ。愛しくないはずがない。

「なんだ」
 露伴がチラリと、こちらに視線を向ける。木々がざわめいて、風が吹いた。
「アンタ、絵描いてる時が一番カッコいいっスよ」
 その風が、汗をかいた後の頬には冷たくて心地良い。

「……露伴がマジで照れるの、珍しいっスね」
 熱い頬のまま、ついには睨まれた。
「落とすぞ」

 気持ちの良い、夏の日だった。



 2013/05/05


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