狂人の犬   仗露 *若干痛そうな表現有



「手首に杭を打ち込まれている場面なんだ」
 言いながら、露伴は槌と杭を手渡してくる。
 漫画の資料にしたてなのだろう、机の上には聖書や宗教美術の本が無造作に投げ置かれていた。

「露伴先生は神様とか信じてなさそうっスねぇ」
 何となしに捲った本には茨の冠を頭に着けた男が描かれている。
「これみたいに手のひらじゃなくて、手首?」
 ブルーシートを床に広げながら露伴はこちらをチラリと見て、小さく鼻で笑った。
「あれはモチーフ化されている描写だ。実際に手のひらに打つと裂けるらしい」
 バサバサとシートのこすれる音が耳触りだった。しかしふと、露伴が手を止めてこちらに向き直った。
「ああでも、本当に裂けるかも見てみたいな」

 晴れやかな笑顔だと思った。好奇心を隠さず、まるで子供のように目が輝いている。
「手首のスケッチが終わったら一度治して、今度は手のひらにやってくれ」
 岸辺露伴は狂人だ。

「良いっスよ」
 シートの上に厚い木の板が置かれる。またその上に、汚れるのを嫌って上着を脱いだ露伴の左手が据え置かれた。
「代わりに、ご褒美二回分換算っスよ」
 自分も学ランを脱いでシートの上に膝をつく。露伴はがめつい奴め、と言いたげに一瞬眉を顰めた。
「フン、良いさ。その代わり、しっかり打ち込めよ」
 露伴の手首に杭を宛がう。躊躇を感じる暇もないよう、思い切り槌を振り上げた。




 最初は嫌だった。
 その日は急に呼び出されたわけでもなく、学校の帰りにちょっと立ち寄っただけだったはずだ。唐突に、露伴が資料には実体験が一番だと言って、包丁を渡してきた。意味が解らず途方に暮れていると、彼は上着をまくって丁度脇腹の辺りを指差した。
「自分で刺した傷っていうのは見るやつが見たらわかっちまうらしいんだ。だから頼む、刺してくれ」
 他人の手で刺された傷じゃあないと資料にならない、と。言葉の意味を理解した。理解したからこそ、頭がついて行かなかった。
「……あんた、正気か?」
 包丁を握ったまま呆然として、何とかそう一言だけ呟く。露伴は表情を変えずに首を傾げた。
「さあな。でもどっちだって構わないだろ」
 あっけらかんとした返答に、じわりと嫌な汗が滲んだ。包丁を握った右手に触れられ、思わず肩が跳ねる。
「治せるおまえにしか頼めないんだ……一通り描ければ満足なんだ。だから、なあ。頼むよ」
 いつになく軟化した態度で懇願されて、戸惑いを感じてしまう。その隙を逃さないように、一瞬露伴の目が光った気がした。

「……やってくれるだろ?な?」
 いつの間にか身体を密着するように、壁際に追い込まれていた。露伴は声に甘い調子すら含ませていて、おれの顔を見上げてきていた。
「やってくれたら……ご褒美、やるよ」
 だから、仗助。頼む。
 名前を呼ばれただけで、何かが全身を駆け巡った。蠱惑的、と言うのだろうか。

 握りしめた包丁の柄が酷く汗で滑ったことばかり、やけに鮮明に思い出せた。




 目の前で痛みに脂汗をにじませながらも楽しげにスケッチを続ける露伴は、やはり狂人の類なのだろう。
 ならそれをこうしてただ眺めている自分は、同類と言えるのだろうか。同罪ではあると思う。もし罪に問う他人が居るならば、の話ではあるけれど。

 シートの上に飛び散った血の匂いが不愉快だった。不愉快だふゆかいだと思いながらも、自らが興奮を覚えているのがまた不愉快に拍車をかけた。
 これはただの条件反射のはずだ。この後のご褒美に期待して涎を垂らしている。ただそれだけだ。

 左手を打ち付けられた露伴は、痛みに呻きながらも描くのを止めない。その顔には笑みが浮かんでいる。ゾクリとするような狂人の、一点の曇りもない笑顔だ。喉が自然にゴクリと上下して、ハッと自分が見惚れていたことに気付いた。

 壁に背中を押しつけてそのままズルズルと床に座り込む。血の匂いがより一層濃くなった気がした。 


 自分は犬で良い。狂人の待て、の合図を素直に聞いているだけの犬。ただそれだけ。
 目の前の男を傷つけるのが楽しくなってきたなんて、そんなこと。

 あって、良いはずがない。



 2013/03/24  


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