百万本   承露



「……あれ、」
 地面から視線を上げると、見知った顔が露伴の方を見つめていた。

「いらっしゃったんなら、声くらい掛けてくださいよ」
「……ああ、すまない」
 承太郎は露伴に言われて、ようやく気付いたという風に彼に近づいた。インターホンを鳴らしても出なかったから物音のする裏の庭に回ったまでだが、承太郎はそれを忘れてしまう程、目の前の光景に圧倒された。
「何です?あんた、夢から醒めたみたいな顔してるぜ」
「……この家の庭は、こんなに薔薇が咲いてたか?」

 色とりどりに咲き誇る花が薔薇だということは、海洋生物以外は専門外の承太郎でも勿論わかった。見た目は勿論、香りがその花の名を語っていた。
 その色の群れは、庭の外観を損ねるということはなく、むしろよくぞここまで邸宅に合った庭造りができるものだと感心するほど美しかった。ガーデンの本場ならともかく、日本の片田舎でこのレベルは素直に賞賛できた。
 露伴が嬉しそうに笑う。自慢げと言うよりは、褒められて喜ぶ子供のような柔和な笑みだった。
「良いでしょ、この庭。承太郎さんがアメリカに帰ってからずっと薔薇を育ててたんですよ」
「……」
 承太郎はグサリ、とやられた気分になった。

 はじめて杜王町を訪れた数年前、知り合った露伴と秘密の恋仲になった。そして、同性であることや不倫であること、様々な要因があるにはあったが、端的に言うと承太郎は露伴を捨てた。
 別れを告げた時、露伴が驚くほど冷静に了承したのを承太郎は今でも覚えている。こちらが動揺してしまうほど淡々としていた。

「……会いに来ちゃあ、悪かったか」
 あの時から承太郎は、露伴への未練に囚われていた。彼を常に気にかけ、手紙や電話で絶えず連絡を取り続けた。そのたび、露伴も付き合っていた頃となんら変わりない気安い調子で返答をくれていた。
 だからこうして再会を果たしてみるまで、本当に最低なことではあるが、自分が露伴を捨てた立場であるということをすっかり忘れていたのだ。

「は?何言ってるんですか」
 呆れたような露伴の声が、承太郎の不安感を一瞬で拭った。
「あんたに見せるために植えた薔薇なんだ、来てもらわないと作り損でしたよ」
「おれに?」
 露伴がにんまり笑って承太郎の手を引く。促されて注視した先の花壇には、ひと際目立つ赤い大輪がたわわと言うほど咲き誇っていた。

「これ、承太郎さんは覚えてないんだろうなぁ」
 露伴は愛しそうに薔薇の花を柔らかく撫でる。先ほどまで庭仕事をしていたにも関わらず、その指は繊細に白い。
「……悪い」
「良いんですよ、あの時あんたの方がぼくよりよっぽど傷ついたって顔してたし」
 露伴は聞く方も気持ちがいいほど、快活に笑う。承太郎が気まずそうに眉を寄せるのもお構いなしだ。
「承太郎さんが帰る最後の日に、ぼくが強請ったんですよ。薔薇の花を贈ってくれって」
 ああ、と、承太郎もようやく思い至る。別れ話のあと、最後の記念に杜王の町を二人で歩いた。露伴の家からホテルまでの限られた道程、一軒の花屋に立ち寄ったのだ。
「あの時、承太郎さんは百万本贈ったって良いって言ってくれましたね。嬉しかったなぁ」
 承太郎は自分の発したはずの言葉に羞恥心すら感じたが、確かにあの時他愛もない話題で少しの談笑が生まれたことは覚えていた。
「けど、おまえは一輪で良いって言ったんだったな」
 別れ話をあっさり了承された上、一世一代のプロポーズに近い言葉も軽くいなされた。あの小さな絶望は今でも忘れられなかった。勝手過ぎるのは自分だと、今なら承太郎も理解できる。

「……この薔薇ね、あの時の薔薇なんですよ」
 最上の秘密を告白するように、露伴がそう耳元で囁いた。承太郎は思わず身体を引いて、彼の顔をまじまじと見つめる。
「あなたが帰ってすぐに挿し木したんです。ホントは花瓶に飾ってしばらく眺めたかったんですけど、根付くのを期待するならなるべく早い方がいいかと思って」
 承太郎は記憶の中で花屋の店先を探ったが、あの薔薇がこの庭で咲いているように鮮やかな赤色ったかいまいち思い出せなかった。花束の形にしっかりとラッピングしてもらったことは覚えていたのに、肝心の花の色を忘れるとは。また少し苦い顔になった。
「調べながら、はじめて挿し木したんですよ。新芽が出た時は嬉しかったな、鉢から花壇に移す時もすごく慎重に時期を選んだんですから」
 承太郎の顔色など気にせず薀蓄を語りはじめる露伴はやはりあの頃の調子のままで、承太郎は毒気を抜かれたように気が緩んだ。
「あの一輪の薔薇が、こんな大きな木に?」
「そりゃ、何年も待たされましたから。薔薇も育つし増えもします」
 気を抜いたところにグサリとやられ、承太郎はまた言葉に詰まる。露伴はどんな調子の承太郎を見るのも楽しいようで、にやにやと笑っていた。

「……本当に、ここまで育つまで気が抜けなかったんですよ。なんとか一発で根付いたけど、あとから買ってきて植えた他の薔薇は、何度か枯らしたりしました」
 しかし突然露伴が真面目な顔になって、承太郎は何度目かの金縛りに合う。手紙や電話には現れなかった露伴の表情が、今は目の前で展開していた。
「……なら、一輪なんて言わず何万本も受け取ってくれりゃ良かったじゃねえか」
 露伴の肩に腕を回すと、何年も会っていなかったのが嘘の様にぴったりとした収まりを感じた。露伴も承太郎の腕に手を添え、自然と身体の緊張を緩めた。
「そうですね、百万本って……すごく魅力的でしたよ。でも、それじゃあちょっと駄目だったんです」
 承太郎は無言だったが、露伴にはそれが続きを促す返答だと伝わった。

「一種の賭け…いや、願掛けかな」
 噎せ返るような薔薇の香りの中でも、ピタリと身体を寄せていればお互いの香りを吸い込むことができた。

「ぼくはぼくなりに、あんたと別れた時必死だったんです。別れる理由も理解できたし、重たいやつだって思われたくなかったし……それにあんたがぼくを愛してくれてるって確信はあったから、いつかまたこうして会えるって期待もできたし」
 少しつまりながら露伴がこぼす言葉、それらはすべて承太郎ははじめて聞く彼の心情だった。
「だから耐えられるか、見極めたかったんです。薔薇のひとつも育てられないんじゃあ、承太郎さんに捨てられても仕方ないだろって。もしこれが枯れたら、手紙も捨てるし電話も取らない。金輪際会わないって決めてたんです」
 承太郎は、あの淡々とした表情だった露伴がそんなことを考えていたとは思ってもいなかった。驚きはあったが、しかし同時に安心もした。彼も自分を確かに愛していたし、自分の愛も伝わっていたのだとようやく実感することができたから。

「本当は不安もあったし、憎いと思ったりもしました。わざとそんな意味の花言葉の薔薇を買ってきて、植えてみたりしてさ」
 事実、薔薇の花言葉は種類に見合い驚くほど多種多様で、露伴は調べながら、部位や状態、大きさにまで言葉を宛がわれた薔薇が気の毒にさえ思えた。しかしその過程自体が、露伴の不安や憎しみを紛らわせたのも事実だった。
「この薔薇が根付いて安定したって確信した時、ぼく、嬉しくって。実際あなたはこうして会いに来てくれたけれど……本当に叶うかわかったもんじゃなかったのに、もう叶ったような気になってしまって」

 実際に会い来たと言っても、それからまた数年待たせたのだろうから、露伴はその間も不安を抱いたかもしれない。けれどそれを悟らせないようにか、ただ微笑を浮かべる彼を承太郎はたまらなく愛おしく感じた。
「はじめて花が咲いた時も、嬉しくって嬉しくって……きれいな月の夜だったから、ぼく、思わずこの花壇で寝てしまいました」
 流石にぎょっとした承太郎が再び身を引いて露伴の顔を覗き込むと、露伴は風邪一つ引きませんでしたよ、と悪びれなく言った。承太郎もつい可笑しくなって笑みをこぼす。
「……楽しそうで何よりだ」
「ええ、楽しかったです。……ああそうだ、まだ何万本って程咲いてるわけじゃないけどさ」
 露伴が一輪の薔薇を強請った時のように、何か思いついたって顔をした。承太郎は少し嫌な予感がしたが、まさか黙れとも言えない。

「あの薔薇のお礼に、この庭の薔薇は全部あなたに差し上げます。……だから今夜は、一緒にこの花壇で寝ましょう」
 嫌な予感が的中した。だが、承太郎は眉をひそめることなく、覗き込んだ露伴の顔へ更に自分の顔を近づけた。
「……今夜もきれいな月だといいな」
 恋人同士の距離で、露伴はまた柔らかく微笑む。承太郎の頬に薔薇の香りが絡んだ指を、そっと添えた。

「決まってますよ、きっと」
 


 2013/01/25 


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