覆水   承露



 単行本が出ると、彼は決まって手紙と一緒に新刊を送ってくれる。岸辺露伴、という署名を見る度彼自身にぴったりの名前だと思ったし、特徴ある書き文字が海を挟んでも彼の存在を身近に感じさせてくれた。
 そのせいか、電話越しに承太郎さん、と呼ぶ声を聞いても久しぶりという気がしなかった。

「あなたの叔父さんから離婚したらしいって聞いたんですけど」
 叔父さん、という慇懃無礼な言い方だけで、未だ仗助との仲は険悪らしいと悟る。変わりないのが彼らしくて、ククッ、と小さく笑いが漏れてしまった。電話越しに少し機嫌を損ねた気配がした。

「ああ、離婚した」
 顔が見えていないからバレはしないだろうが、言いながらまだ口の端に笑みが残っていた。そのおかげで妙に晴れやかな口調になってしまったのが、妻と娘に悪い気がした。ついでにそこまで考えて、もう『元』が付くんだと改めて気づいて、また少しだけ罪悪感が沸く。
「あっさり言いますねぇ」
「これでも結構へこんでる方なんだがな」
 露伴の方にも自分の声は明るく聞こえたらしく、合わせる様に声を立てて笑ったのが耳に届いてくる。それを聞いて気分は大体持ち直したが、そのまま和やかに話すのはやはりバツが悪い気がする。わざとらしく困った風に返すと、また露伴が電話越しに笑った。
「仗助たちがちゃんと慰めたでしょ、どうせ」
 ギシッ、と、微かに声の背後で音がする。きっと座る体勢を変えたのだろう。仕事場の椅子がそういう音を立てるのを間近で聞いていた、それが随分昔の事だと今更実感した。
「いや、結構叱られた」
 実際仗助や母親とも離婚以来まだ電話でしか話していないが、誰も彼も『もっと家庭を大事にしないと』だの『コミュニケーションを取らなくちゃ』だの、今までも散々言われてきた批難しかしてこなかった。自分が悪い自覚はあるが、それにしたって離婚したての人間なんだからもう少し優しくしてくれてもいいのではないか、と思っていた。その点では今のところ、露伴からの電話は甘い方に感じられた。
「真っ当な側からすれば、まあ、怒りたくもなるんでしょうね」
 慰めるわけでも責めるわけでもなく、露伴はケラケラと笑った。プラスマイナスで言えばゼロだが、マイナスの言葉しかしばらく受けていなかった身には、本当に、その露伴の言葉が酷く甘く思えた。

「露伴」
「はい?」
 電話越しで顔が見えないのが歯がゆい気もする。けれど、自分の顔も相手から見えないのは好都合だ。
「意味のある質問と思わなくても良い。……あんた、今も一人か?」

 アメリカに帰ってきてから届くようになった彼からの手紙の、最後にはいつも『お返事やお電話は結構です。』と添えてあった。多忙の中、自分はそれに甘えて一文程度のメールでいつも済ませてきた。友人なら返すべきだったのかもしれない。けれど別れる時、露伴から友人に戻りましょうと言われて、覆水は盆に返らないだろう、と自分は答えた。何故そんな事を口走ったのかその時の自分には良く分らなかったが、今にして思えばこちらが固執していただけなのかもしれない。
 それでも彼は、友人として手紙を送ってくれていた。
「……意味がある、わけじゃないけど」
 その彼が離婚の事を知ったこのタイミングで電話をかけてくる、それがどういう意味か。深く考えなくても簡単に想像出来てしまう、これは自分に都合良いよう頭が働いているだけかもしれない。もしも自意識過剰だったなら、流石に恥ずかしい。
「……今のところ、一人ですよ。今のところね」
 けれど、答えを聞いて安心したし、胸が躍る心地が僅かにした。自分を甘やかすのは、恐らくこの岸辺露伴が一番上手だろうとすら思えた。

「そうか」
 また、口元の笑みが消えずに浮かれた口調を作ってしまう。やはり元妻と娘に申し訳が立たない気がする。こんなに現金で浮気で駄目な男なんだから離婚されてもしょうがないな、と他人事の様に思ってしまうが、他人事じゃない分また余計に遣る瀬無い気も起きてくる。
「……うん、声聞いたら安心しました」
 電話越しではその遣る瀬無さは伝わらないだろうから、やはり好都合だ。もし情けない声だったら散々いじめてやろうと思ってたんだけど、と付け加えた露伴の、その声の明るさが今の自分には嬉しかった。
「でも多分、会うのは控えた方が良さそうですね?」
 けれどそのまま何の気ない口調で言われて、ほんの一瞬だけ言葉を失った。

 きっと、声を聞いて悟った、という様な話ではない。彼がこちらの性格を良く知っているから予想できる。ただそれだけなのだろう。
「ああ……まだしばらくは、一人で考えようと思う」
 エジプトの事も杜王町の事も、出会いも死別も何もかも、若い内は自然に処理出来ていた。その気でいた。未だに切り替えがいっていないとようやく気付けたのは、離婚の話が具体的になった頃だった。
 今思うと、妻もそれを見抜いていたのかもしれない。未だに浮足立って何かを引きずっている男に、家庭という落ち着ける場所を持たせようと彼女は努力してくれていた。自分は気付くのが遅すぎて、それを全部ふいにしてしまった。

 贖罪と言うと重すぎる気もするが、今度こそ自分は一人で過去に折り合いをつけなくてはならない。今がその時なのだろうと思い、しばらくは他人との交友を断って一人で過ごしていた。そこに今日になって、急に彼からの電話が舞い込んだ。
「気が向いたら、また連絡ください。ぼくもまた、手紙を書きますよ」
 露伴は言及するでもなく、またこちらに甘い事を言ってくれる。一体どこまで予想がついているのか訊ねたい気もした。

「ああでも丸くなったと思われるのは癪なので、来月の新刊は手元に置いときますね」
 けれど突拍子もなく、口調が優しいものから意地の悪い口調にすり替わった。また少し、今度は別の意味で胸が撥ねる。

「……別に何冊溜めても良いけど、続きが気になるなら早く取りに来た方が良いですよ」
 最初に変わっていない、と思ったが、よくよく考えれば自分に変化があった様に、彼にも数年の内変化があっても何も可笑しくない。
 皮肉めいていながら、甘えながら同時に甘やかす様な言葉。昔の彼なら多分、言いたくても言いはしなかっただろう。手紙だけでは中々わからない。電話越しでこれなら、顔を合わせた時どんな変容を知る事が出来るだろうか。

「……すぐ来いって脅しにしか聞こえないな」
 お互い変化してしまった今、昔の関係に戻るのはやもすると難しいかもしれない。覆水は盆に返らないというのは真実だ。
「ははっ、どうでしょうね」

 けれど別の新らたな関係になら、あるいは。



 2013/10/08 


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