天国北上   承露 *





 露伴、と承太郎さんに呼ばれて目を開けた。お湯の温度が丁度心地良いと思っている内、ほとんど意識を飛ばしていたらしい。
 向かい合って浴槽につかる承太郎さんが、ぼくの左腕を握るのを少しだけ強め、すぐまた力を抜いた。

 どこか遠くへ行きたい、と彼が言い出した時も、そう言いながらホテルの浴室に服のまま引っ張り込まれた時もどうしたものかと思ったが、今こうして見てみるとお互いの身体に張り付いた服はどことなく色っぽい物にも思えてきた。非日常的で、一種の現実逃避には少なくともなっている。
「ドラマとかの逃避行って、何で北へ北へ逃げるんでしょうね」
 どこか遠くに連れて行ってくれるんだろうか、と、最初に思い浮かんだのは寒い北国だった。このS市も十分北の方だが、もっと雪が降る暗い場所がイメージにはぴったりだ。もっとも北半球に、あるいは日本に住んでいるからこそのイメージで、きっと南半球の人間からすると北国と言うと暑い国になってしまうのかもしれない。そう言えば赤道の向こうの国は行った事がなかったなと、今更気付いた。
「……人目につかねぇ場所が良いんじゃないか」
 なるべく二人きりになりたいんだろう、と呟きながら、承太郎さんが一度左手で髪を後ろに撫でた。その動作はゆっくりとしていて、また手が湯の中に引っ込んでいく様も妙に緩い。ぽたりぽたりと彼の顔を伝ってお湯がまた水面に落ちる、その自然の重力に任せた運動でさえ緩慢に見えた。
「だったら尚更でしょ。顔見知りしか居ない様な場所に出向いたら、すぐ他人が来たってばれちまう」
 そう見えるのはきっと自分の頭の動きが鈍っているせいだろうと結論付けて、なるべく自分なりに頭を働かせてみようと努力する。ぐるぐる想像して、北の国の農夫がぼくたちの事を電話で密告する場面まで妄想してみた。昼ドラ以上に陳腐で少し情けなくなってくる。
「じゃあ、人が多い場所か」
 水音と自分の声と、承太郎さんの声しか聞こえない場所、と思うとこの逃避先はだいぶ良い。しかも今みたいに、彼の小さい声が低く響いて聞こえるから余計良い。ぼくは信心がないからきっとあの世も何もあったもんじゃあないだろうけれど、きっと天国と言うのはこういうものを言うんだろう。彼となら別に地獄だって良い気がしてきた。
「そうだなぁ、中国とか、インドとか……」
 人口が多い国の中でもあの雑多で混沌としたイメージの国々なら、何となくその中に紛れて逃げ切れそうな気がする。アメリカはどこに逃げても何故か捕まりそうだ。そもそも承太郎さんの家族が居る国にはなるべく、近づきたくない。
「インドは、良い国だ」
 言いながら、承太郎さんが微笑を湛えた。これは思い出に寄せた笑顔で別にぼくに向けたものでは本来ないけれど、二人きりの空間で笑ってくれたんだから悪い気はしない。可愛い顔をするよなぁ、と、ぼくの方も何となく少し、笑ってしまう。
「ああ、承太郎さん、行った事あるんですよね」
 自分も彼がした様に、水面から腕を覗かせて自分の髪を撫でる。濡れてしまうがもう構う事もない。服が右腕にぺったりと張り付いて酷く重く感じられた。
「ぼくはもうちょっと清潔そうな国が良いなぁ……」
 インドが絶対駄目だとは言わないけれど、どちらかと言うとヨーロッパの国々の方が好きだ。もしも長く過ごしたりそこに永住するなら、正直後者の方がぼくとしては嬉しい。
「二人で高飛びしようとしたら……どの国に行くかで揉める所だったな」
 また承太郎さんが笑った。これは確実にぼくに向けたものなので、やはり嬉しい。
「いっそ別々の場所に、とか?斬新な駆け落ちになりますね」
 ぼくの冗談が面白いわけではなくて、つまらないからこそ笑うんだろうと思うと、その点は少し悲しい気もした。

「でもこの調子なら、二人で同じ場所に行けそうだ」
 笑ったまま水面に目を向ける。最初の内は滲む様に見えていたけれど、もう浴槽一杯に血の赤は広がっていた。


「すまない」
 言いながら、承太郎さんがまたぼくの左腕を強く握って、そしてすぐに力尽きる様に緩める。握られる度に、彼が切りつけたぼくの腕の傷からも彼自身の右腕の傷からも、じわっと溢れる様に血の出が良くなるのを見ていた。お湯全体が真っ赤に染まった中でもその部分は一瞬濃い赤色になるのでわかりやすい。
「承太郎さんは先に死んじゃ駄目ですよ。ぼくまだ、この期に及んで生きたいと思ってますから」
 彼が疲れ切った声で呟くのが可哀想で、ぼくは空元気を取り繕ってそう言ってみせる。これは無理心中にあたるんだろうけれど、さほど抵抗しなかったのはぼくの方だから、彼が責任を感じる必要はないと思う。けれどもう、手を水上に上げて茶化す様に振る元気はなかった。
「あんたが死んだと見たら、すぐに湯船から逃げて、仗助でも救急車でも呼ぶつもりです」
 精一杯笑顔を作って見せると、彼もそれに答える様にふっと、また小さく笑顔を見せてくれた。
「……本当に、この期に及んでって感じだな」
 そう言って目を瞑ってしまった承太郎さんの、握っていた手の力も、更に弱くなった。

「だってぼくまだ、インドにだって行った事ないのに……」
 あんたが好きな国なら行ってみたい、と。
 それも言葉にならない内、いつの間にかもう、自分の唇も動かなくなっていった。



 2013/09/24


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