真っ暗な中で、影が見えた。見える、ということに気が付くまでに、随分と掛かったように思える。ここはどこで、あれはなにで、自分はなにをしたらいいのか。
自分。自分とは、いったいどんなものだっただろうか。
「……またもや、落ちてきたか。立香」
声がした。男の声、覚えのある、親しい声が。名前を呼ばれて、立香は立香であったことを思い出した。
ふ、と、溜め息の音がする。感情の読み取れない、ただ単に要らない空気を吐き出したような音。
「存外、消耗しているな。常であればそう間もなく感知できるのだが──おまえをすぐさま見つけられなかった。許せ」
ぽつぽつ、発せられては静かに闇へ吸い込まれる言葉の意味を、すべて理解できたわけではない。けれどひとつだけわかったことがある。
影は、ひどく疲弊している。
「……怪我、してるのか?」
自分の声が聞こえて、喋るということを思い出した。頭の天辺から爪先まで、感覚が鮮明になる。身体があったことを自覚したが早いか、立香は影の傍まで駆け寄った。
色も形もわからない、曖昧にしか見ることのできないそれに、手を伸ばす。
「触れるな」
届くより先に、男の声が立香の手をぴしゃりと制した。
「いいか。元よりこの身は怨念の炎。此処に在って、オレはその性質をさらに増している。対しておまえは無防備な自我、無防備な魂だ。ともすれば、オレはおまえを容易く燃やし尽くす」
言い聞かせるような口調だった。傷付けたいのでも、拒みたいのでもなく、己は危険だから離れるべきなのだと、納得させようとしている声。
けれど。
喉をのぼってくるなにかの感情を押し込めて、唇を噛む。けれど、男は明らかに弱っていて、立香は彼を、放っておきたくなんかなかった。
「……自我を、はっきりさせればいいんだろ。それなら尚更だ。オレが今オレを思い出せたのは、キミが呼んでくれたからなんだから」
自分一人より、他者とともにいたほうが自分の輪郭は掴みやすい。頭のいい彼には穴だらけの詭弁かもしれないけれど、立香にとって、これはでまかせにしては説得力のある理屈だった。
再び闇を探った手を、男はもう止めなかった。指先が、布地に触れた感覚。ここに確かに存在があるのだと、安堵する。
「手、貸してほしい。繋いでると、意識がはっきりしやすいから」
近くにいることが一番だが、手を握っているだけでも、もっと魔力は渡しやすくなるはずだ。
手探りで男の腕を辿ろうとしていると、苦笑、のような音がした。
「……案ずるな。此度は本当に、おまえの出る幕ではないのだ。残骸はすべて焼き払ったあとだ、オレもこれから暫しの手持ち無沙汰になる。おまえはただ、目覚めるだけでいい」
だから、そんな顔をするな、と男は笑った。そんな顔って、どんな顔だ。
「でも、ほっとけないよ」
「復讐者には自己回復がある。今は……一仕事終えたばかりで枯渇しているが、しばらく経てば回復するさ」
「……うん。それでも、さ。くっついてたいんだ、いいだろ?」
ずるずると、立香が彼の身に腕を回したまま、どちらからともなくふたりで座り込んだ。魔力がよく行きますようにと、念じる。男はいささか居心地悪そうに身じろぎをした。
「オレは、おまえのよく知るモノではない。おまえに召喚された、おまえのサーヴァントたる俺ではないぞ」
呆れたような、それだけではないような、複雑そうな語尾の掠れ。しかし空気は親しみを感じさせる、見知った男のそれである。
どういう、と考えて、固まる。
「……キミ、もしかして」
「このオレは既に死したる残滓。おまえの気に掛けるべきモノではないのだが」
「ずっと、ここにいたの?」
残滓と言ったか、彼は今、彼自身を。
外套の生地を、皺ができてしまいそうなほどに握り締める。そうしなければ、震えてしまいそうだったから。男は無言で、どんなに耳を澄ませてもなにもきこえなくて、きっとそれが答えだった。
この手で殺した、あのときの感触を思い出す。悪夢の中で導いてくれたひとの霊核を、立香は最後に砕いたのだ。生きるために。希望のために。
「……オレが、望んだからか?」
ぴくり。腕の中の男が、反応した。
はじめから闇しか見えないのに、ぐらぐらと目が回るような心地がする。息が苦しい。心臓が、突き刺されたように痛む。オレが、と続けようとした声は上擦っていて、バカみたいだった。自分はなににも傷付けられていないのに。
「オレが、また会いたいって思ったのが、キミをひとりきりにさせたのか。こんな暗いところで、ひとりきりに」
「……そうではない」
ぐしゃりと、立香の頭をおおきな手が撫でた。鼻を啜る音がする。泣いていない。だって自分は、なにもつらいことをされていない。
再会を望んでしまった。殺したくせに、自分が生きたくて打ち砕いたくせに、また会いたいと願ってしまった。特異点や夢で縁を繋いだサーヴァントと、カルデアで召喚される英霊は厳密には別人だ。死んだ者は戻らない、この彼には二度と会えないと、そういうものだとわかっていたはずなのに。
しんから冷えていく感覚に耐えていると、髪を梳きながら離れた手は、立香の背中を軽く叩いた。
「ハハ、おまえの言霊程度で、このオレが縛られるものかよ。……それに此処も、そう悪いところではない。あくまでオレにとっては、だが」
おかしそうな笑い声、いたずらっぽさを感じさせる抑揚のついた口調に、顔を上げる。相変わらずここには光がなかったけれど、それでも男の口元が、ゆるく弧を描いているさまを目に浮かべられた。
「ここは屠られたモノの残り滓、消えること叶わなかった恨みつらみの淀む場所。一種の冥界、地獄とも言えるだろう。そして地獄であれば──オレの本領だ。大人しく消えてなどやるものか、オレは好きで此処にて力を振るっている」
男の声は、始めよりずっと朗々と響くものになっていた。少しは、消耗の穴埋めができたのだろうか。
ここがそもそもなんなのか、立香に理解することはできない。だから彼の言っていることも、恐らく半分わかっているかどうかだ。けれどそこにある気持ちのようなものは、知識の深くない立香とてある程度受け取れる。要は、気にするなと言っているのだ、彼は。
「ああ、立香。この夢は、おまえの記憶に残らない。朝になってしまえば、オレのことなど忘却されるだろう。それでいい、そうあるべきだ」
「……やだよ、そんなの」
いよいよ喉が、さみしさで塞がってくる感覚がした。忘れていいなどと言ってほしくない。忘れるべきなどと言ってほしくない。男は、確かにここにいるのに。
「なに、おまえが忘れたところでオレは揺るぎはしないさ。気負うな、立香。おまえにはおまえのいるべき場所が、おまえの戦いがあるだろう。此処は、違う。おまえの居場所ではない、覚えておく必要などありはしない。此処に落ちる癖をつけられても困る」
「……キミが、さみしいのは嫌だ」
祈るように、だだをこねるように、額を押しつける。男はしばし、言葉を失ったようだった。
ややあって、ハ、と声の乗った息が吐き出された。怒らせてしまったかもしれないと、立香は強く奥歯を噛み締める。けれど、でも、どうしても、耐えがたいものは耐えがたかった。ここはきっと他の誰でもない、自分の夢の奥底だ。そんな場所に、男以外の歓迎すべき何者かが訪れるとは思えない。こんな寒いところに、ひとりきりなんて。
「さみしい、などと!」
せめて、覚えていたかった。ここまで来ても、いっそ消えてくれとは願えない。彼をここから引きずり出すことも、きっと不可能なのだろう。第一彼にその気がない。それでも、ここにいるしかないとしても、消えないでほしいと思ってしまう。男とともに行けないとしても、戦う場所が違うとしても、せめて、彼がここにいることを忘れたくなかった。
特異点で起こったことが、人理修復の旅が、なかったこと、自分の力は必要なかったという扱いにされたことを思う。それでもいいと笑えたのは、ともに覚えていてくれる人がいるからだ。
自分が彼を忘れてしまったら、一体だれが、彼を覚えていられるのだろう。
「復讐鬼に向かっておまえは! ……ああ、おまえは、そういう人間で、そういうマスターだったな」
「……『アヴェンジャー』」
「オレはやはり、忘れるべきだとしか言えないが。それでもおまえは、欠片を持っていってしまうのだろうな。それでこそおまえなのだろう。オレの、光よ」
大切な、大切なものを遠くから愛でるような声音だった。拗ねるような、嬉しいような心持ちで、立香はごつんと額を肩へぶつける。
「それならば──ああ、ポケットを探ってみろ」
「……? うん」
言われるままに手を突っ込むと、硬い、四角いものが指に触れた。ライターだ、と直感する。男もごそごそと懐に手をやり、きっと葉巻を取り出した。
「あるいは、残り香を連れていけるやもしれん」
冗談めかして、彼は言う。ぼ、と火を灯した一瞬だけ、三日月に笑う唇が見えた。
2018/09/26
|