なんだかうまく丸め込まれたような気がする。
 頭にかぶせたタオルへ水分を吸い取らせながら、湿気で曇った鏡を見遣る。右手の小指を使って表面をきゅっと拭うようにすると、なんともぼけっとした顔付きと目があった。我ながら間抜けな顔をしている、と立香は思う。
 あれから、自然とベッドに寝かされて、降ってくる唇をすんでのところで押し止め、『そういう』のは嬉しいけど準備ができてないから明日! と艶っぽい空気を慌ててかき消し──かき消したかったのだが応えて笑んだ男の顔はそれはそれは色っぽかった──、なんとか男を部屋から追い出して、身体も汚れていたし変な汗もかいていたのでシャワーを浴び、うわ明日って言っちゃった、せめて一週間後にすればよかった、と思いながら寝て起きて食事とブリーフィングとトレーニングと歓談と戦闘とをこなし、なんやかんやして、今に至る。せめて一週間後にすればよかった。
 夢みたいで、嘘みたいで、けれどあの男のことはまるっと信じてしまっていた。だからきっと、くるのだろうな、と、思う。
 二十余人の生者に対してあまりに広すぎるカルデアで、己の部屋を定めている英霊もいるが、巌窟王はそうではない。必然に、立香の部屋(マイルーム)で事に及ぶことになる。なるのか。そうなのか。及ぶのか、事に。ほんとうに?
 全身を拭い、用意していた服を身につける。この服もなににしようか迷った。いつもの、魔術礼装でもあるカルデア制服はどうかと思った。さりとて支給の寝間着もどうかと思う。思った結果、最も無難で安心なただの白いTシャツと、少しゆるめの、ウエストがゴムと紐で締まるズボンになった。色気はないが、色気を期待されているわけでもないだろうし、制服やパジャマよりは萎えないだろう。わからないけれど。
 抱いてくれるのか、まさか抱かせてくれるつもりなのか、それともそこまで考えてはいないのか。一応、どうなってもいいようにからだの準備はととのえたが、こころのほうの都合でぐるぐると目が回る。洗濯物の籠にタオルを入れて、水道の水を一口飲んだ。
 ドアをくぐり、部屋の中心へ戻る。テーブルの横に巌窟王がいた。

「…………、き」

 きてたのか。か細くなったが、どうにかそれだけを絞り出す。正直、ぎゃあ、と悲鳴を上げそうになった。流石にそれは堪えたので少し褒めてほしい。
 丸椅子で足を組む巌窟王は、応えるように目を細めた。普段なら、どうした、なんかあったか、と立香も対面の椅子に座ってたずねていただろう。今日に限っては、『なんか』はこれから起こるのだ。起こるのだろうか。起こるのかな。
 心臓が気管を塞いでしまったかのように、呼吸がしづらい。頬骨のあたりが火照ったように熱くて、きっと顔色に出てしまっているだろうな、と立香は静かに恥じた。

「え、えーっと…………ようこそ」

 なんだそれは。自分で自分に呆れ、立香は心中でハリセンを振るった。ク、と巌窟王が喉の奥で笑う。立香の、言葉に笑ったというよりも、緊張しているようすに反応したふうだった。

「そう固くなるな、ここの主はおまえだろうに」

 その声が存外いつも通りで、肩の力が少し抜けた。へへ、と照れてこめかみの髪を掻き上げる。
 いつまでも突っ立っているわけにもいかない。数秒考えて、巌窟王の横を通り越し、ベッドの端に腰掛けた。一度椅子へ座ってしまうと、ベッドに向かいづらくなる予感がしたからだ。
 慣れたスプリングの反動と、さらりとした布の肌触りが、立香の心を落ち着かせる。

「……あー、あの。待った? ごめんな、なんかお茶とか、出しとけばよかった」

「憂うな。サーヴァントであるこの身に気遣いは不要だ、さほど待ったわけでもない」

「うん、そっか」

 徐々に自分のペースを取り戻しながらも、脈拍だけは乱れている。開いた膝のあいだで手を組んで、意味もなく自らの爪を撫でていると、おもむろに巌窟王が立ち上がった。
 ベッドに近付くと同時に、彼は無言で帽子を脱いだ。脱いだそれは手のひらの上で音もなく空気にとけていく。続いて、ひらりと風を受けて翻る外套。首元のストールに、ジャケット。
 立香は目を閉じることもできず、着衣を解いていく巌窟王に視線を奪われてしまっていた。ベストのボタンを外しながら、立香の座るすぐ横に、膝が乗せられる。
 ぎ、と重みでベッドが沈む。半ばパニックを起こしながら、立香ははくはくと口を開閉した。

「が、巌窟王。巌窟王」

「何だ?」

「えっと、あの…………」

 待って、ではない。既に待たせたあとなのだし、心の準備がこれ以上整うとも思えない。やっぱりやめよう、でもない。彼がしたいと思ってくれているのならやめたくない、ぜひしたい。
 適切な言葉を探すため、脳内の引き出しを片っ端から開いては漁る。とっ散らかったそこから、最もそれっぽいものを見つけて掴み上げた。

「お、お手柔らかに頼みます」



 気分が悪くなったらすぐに言え、と巌窟王は言った。彼の肉体は復讐鬼としての宝具でもある、毒や呪いをもたらす黒炎そのもの、らしい。マスター相手とはいえ、それは完全に制御可能だと言えるものでもないのだろう。彼の力はサーヴァントとしての彼自身でもある。たぶん、そういうことなのだ。カルデアに来てからこちら、毒のたぐいに対する耐性がなぜかついている立香であるが、全く影響を受けないわけでもない。
 頷いた立香は、キミも絶対無理はしないで、と念を押した。応えて、男も素直に首肯した。
 相手に覆いかぶさらせておいて、自分はボンヤリ寝っ転がるなんて一人だけ楽をしているようでなんだか悪い気もしたが、そういうものだと笑われた。視界にあるのは、天井と巌窟王だけ。逆光で顔が少し影になっていて、それがとても、胸に響く。

「あ」

 いつのまに操作したのか、部屋の明かりがふっと落とされた。瞬間、暗さに置いていかれた目がすべてを見失う。
 シャツの裾から、手が入ってくる。ほしかった手、望んでしまっていた指だ。手袋をしていないから、少し冷えている温度がいつもよりずっと近い。
 豆電球の光を拾えるようになったころ、立香はセピアにも似た視覚より、もう肌の感覚でいっぱいいっぱいになっていた。

「そ、そういえばさ」

 艶事の雰囲気に耐えきれず、口を開く。ン、と返る声は、空気を読まない発言に不快と感じたふうもなく先を促す。正直、なにを言おうとしていたわけでもないが、ついでにどさくさ紛れで訊いてしまおうと思いついた。

「オレが巌窟王を呼んだ呼ばないって、どのあたりで判定がいくの」

 なんてことない、たまたま思い浮かんだ話題であるかのような顔をして、問う。巌窟王の手は、ちょうど心臓の上あたりに置かれていた。シャツに覆われて直接見ることはできないのが、逆に興奮を誘う。つ、と布の下で指は動いた。筋肉の境目をなぞるように。彼のワイシャツの袖が擦れて、少しだけくすぐったい。

「おまえが俺を呼ぶのであれば」

「いや……、その、たとえば思い浮かべただけで用事がないときとか、思い浮かべてないけど無意識に呼んだときとか、敵がいるいないとかレイシフト先とか、あるだろ。場合が」

 脇腹を手のひらで撫でられ、くすぐったさの中に熱を感じる。どこにどう触れられても、彼を慕う心は喜んだ。身体がとても気持ちいいわけではないのに、意識がどんどんとろけて、彼のつくる色めいた雰囲気に染まっていく。
 額の真ん中に、くちづけが降りてきた。思わず目を閉じて、子をあやすようなそれを受け止める。離れていく唇を追うように瞼を上げると、巌窟王は真顔だった。

「俺におまえの恥辱を暴く趣味はない。おまえはそれさえ覚えていればいい」

「……? よくわかんないけど、ありがとう」

 胸の先、質感の異なる箇所に、指が引っかかる。他人どころか自分でもそうそう触れない部分への刺激に、身構えるように身体はびくついた。宥めるように目尻へキスをして、それきり、彼は口を閉じてしまった。
 あからさまに反応したからか、男の指先はそこの周りをくるりと辿り、固く集まってきた部分を戯れのように弾いた。ひゅっ、と息を呑む。普段意識することのない場所をそうやって扱われると、いかにもそういうことをしています、という気分になってくる。
 なにもかもをできるだけ覚えていたいのに、目を開けることができなかった。うわ、うわ、とそれしか考えられなくて、下肢に熱が溜まっていく。
 緊張にか興奮にか、攣りそうなほど引きつった背中を、彼の片手が撫で上げた。魔法のように力が抜けて、次いで背骨の上をさすられると腰が反った。
 なんだかバランスがすごい、とバカみたいな感想が浮かんでくる。こんな触れかたをされるのは生まれてはじめてだし、勝手もなにもわからないが、完全にリードされているし、比較対象はないがたぶんものすごく巧みだ。手つきによどみがない。迷いがない。きっとかの幸福を得た元船乗りは小説に書かれていないところでたくさん経験を積んだのだろうな、というような、彼にバレたら怒られそうなことすら考えてしまうほど、混乱するほどに翻弄されていた。
 肋骨のふくらみを辿るようにして、その指が下に伸びていく。立香のものは、意識すれば疼きを覚えるほどに反応していた。羞恥に、枕へ顔を沈めるように横を向く。そこで気がついた。

「……あっ」

「今度はなんだ」

 おもしろがるように、巌窟王は片眉を上げる。違う、今度は重要なことだ。

「が、巌窟王、……たつの?」

 ぴたり。時間が止まったかのような、静寂。
 己の科白を反芻し、語弊があったかもしれない、と立香はシャツの皺をすこしだけ整えた。暗さに慣れた目で、巌窟王を見上げる。これでもかというほど眉が寄せられていた。怒気は、見受けられないが。

「…………サーヴァントであるこの身なれど、人間の持つ機能はおおかた有している」

「そうじゃなくて、オレで……いや、訊かないほうがいい気もしてきたけど」

「何故口にする前に思い至らない。さてはおまえ、この状況に動転しているな?」

「っ、するだろ、そりゃ……」

 鼻の頭をついばんだ唇が、立香の口元に滑り落ちた。あ、口、と静かに鼓動を速めていると、男の舌先が僅かにこちらの唇をなぞり、離れていく。濡れた感触を、閉じ込めるように立香は一度唇を強く結んだ。

「あの、アレなら、こう、オレもこう、さわったりとか……」

「要らん。案ずるな。ここに至って、それはおまえの勘案すべきことではない」

 一蹴して、巌窟王は頭痛を堪えるように目を瞑る。長い睫毛が、羽を思わせる緻密さできれいに揃っていた。

「忘れるな、これはおまえのための行為ではない。一方的な施しなどではない、双方向の欲によって成り立つものだ」

 じつはそのあたり、男の言葉の響きに安堵しただけで、立香はきちんと筋道立った理解をしていない。なんだかややこしいことになったな、と思いつつ、それでも男の言いたいことがぼんやりとわかったようなわからないような、きっと要は、無理して抱こうとしているわけではないということなのだろう。
 一番いやなのは、彼に強いてしまうことだ。面倒見のよさにつけ込んで心もないのにその手を伸ばさせてしまうくらいなら、嫌われたほうがまだマシだ。
 ココに刻んでおけ、と男が心臓の上に唇を落としたので、うん、と立香は頷いた。無理されていないのなら、それでいい。男が、したいと思ってくれているならそれでいい。その理由が欲情とは違っていても、自分を望んでくれているのなら。
 盲目にはなりたくないが、どうにも信じているのだ、この復讐鬼を。男が意図をもって触れたところから、ほろほろにほどけていきそうなくらいには。
 すぐそこにある体温が嬉しくて、顔が緩む。その立香の顔を見て、巌窟王が目を細める。喜ばせたい、と言った男の声を思い出した。
 立香が喜ぶと、男が嬉しい、らしい。よくわからない理屈だが、気持ちとしてはわからないでもない。だって男が嬉しそうだと、立香は嬉しい。無限ループだ。どうにも脳が混乱しそうだが、たぶんそういうことなのだ。
 頭で考えようとするとゲシュタルト崩壊を起こす。元より、立香はさほど複雑な思考が得意ではない。ほとんど走り抜けるように生きている、いやそこまで刹那的なわけでもないが、考えるより感じる派というか。

「ん、う」

 キスされて、嬉しい。彼が無理をしている様子はなく、さりとて格別キスそのものが楽しいわけでもないのだろうが、少なくとも立香の反応を覗き込んでは機嫌よさそうにする。
 オレは、そんなにわかりやすく、嬉しがっているのだろうか。
 こめかみが弾けそうな羞恥を覚え、立香は震えながら目を瞑った。


「呼吸を止めるな」

 直接的な箇所への刺激をひたすら受け止めていると、気遣うような声がきこえた。一瞬聞き流しかけて、いや、と思い直し目を合わせる。

「大丈夫。これ、息、してるから」

 息を止めて我慢するまでもなく、元から気持ちよさで声は出ない。
 五感の鋭いサーヴァントに囲まれ、集団生活を送ってきたこの二年近く。快感を喉元にまで来させないようにするやりかたは、もう立香の身体に染みついていた。それが祟ることもたまにはあるが、と、昨日の心臓が凍るような感覚を遠くに思い出す。
 なにも自慰のときに限らず、怪我を負っているときや恐怖を感じたときなど、声帯を震わせずにいられたほうがなにかと都合がよかったのだ。
 前後不覚になったときはまた別だが、と脳裏にちらついた激痛の記憶を押しやって、そこではたと思い至った。

「…………声、とか、なんていうか、無音だとつまんない?」

 声を出さず、積極的に動くこともせず、ただただ与えられる手を享受している。もしかしなくともこれは、所謂マグロというやつなのではなかろうか。
 元より立香が喜ぶから触れたい、と思ってくれているだけで、行為これ自体に愉しみがあるわけでもないのだろうに。卑屈に思うでもなく、立香は単純に心配する。自分の、たとえば喘ぐ声だとか、そういうものがおもしろいとも全く思えないけれど、だからといって無言で無音なのは。
 ぐるぐると考えていると、ふ、と笑うようなため息が落ちてきた。

「いいや。苦しくないのならそれでいい。感じているかどうかは、おまえのさま
(・・)
で判ぜられる」

「……あ、さいですか、っ……」

 一番弱い場所、体液の滑りがないと痛みすら感じるほどに繊細な部分を、指は的確に撫でさすった。
 ズボンも下着も穿いたままであるせいか、その中で動く手のやりかたにもどかしさを感じる。思ったそばから、ウエストの紐に指がかけられた。どうやら自分は相当わかりやすいらしい、と立香は悟って、少し泣きたくなる。
 ボトムスを脱がせるなんて、ともすれば幼子の世話にすら繋がるだろう動作を、男は艶めいた空気を崩さないまま成し遂げてみせた。

「…………」 

 流石に羞恥を振り切れず、強く目を瞑る。すっかりと濡れそぼったものが空気に晒され、感じた冷たさに、寒さ以外の理由で腰が震える。
 くるり、と先端を撫でられ、また体液の溢れる感覚がした。焦らすように、触れるか触れないかギリギリの強さで裏をなぞられる。腰が浮いて、両膝は勝手に男を挟む。
 彼は、こんなふうにこれを触るのだ。想像できなかった、しようとも思えなかった。
 くびれたところが気持ちいい。そこへ集まろうとする血液の流れに、逆らうようにして根本へ扱かれるのも気持ちいい。気分がふわふわと心許なくて、片手で彼の二の腕を掴んだ。少し強く握っても指を跳ね返す、手の中の確かな存在感に安堵する。
 さっきから、断続的に腰が震えている。なるべく引き延ばそうと堪えているが、もうそろそろだめかもしれない。もっと味わっていたいのに。
 ケーキの上の苺にフォークを刺せないような、名残惜しさ。名残もなにも、まだ終わってはいないのに。

「っ、…………ふ、う」

 我慢で無理矢理放出を抑え込むことが不可能になる、寸前。高められきったそれから、手が離れていった。
 途切れた刺激、与えられなかった極みに、全身を震わせる期待を受け流そうと努めた。髪を掻き上げるように額を押さえ、そこに頭を押しつける。なにを拒むでもなく、首を振る。
 知らないうちに随分速くなった呼吸を、集中して繰り返す。吐いて、吸って、吐いて、吸って。立香のこめかみを汗が流れた。吐息が熱い、空気が暑い。熱は既に、空間を支配している。
 濡れた手が、今まで触れていた場所のさらに下へ伸びるのを感じて、立香は己を宥めるように、すべて男へ明け渡すように再び瞼を下ろした。
 なにをされても嬉しいから、やろうと思ったことをやって、このくらいと思ったところで好きに止めてほしい。どうせなら最後までしてほしいが、もうなんでもいい。
 潤滑剤は、ベッドヘッドの空間へこれ見よがしに置いてある。使ってもいいし使われなくてもいいと思っていたが、ぱちん、と蓋が開けられる軽い音がきこえた。

「っ、……」

 指が、そこを塞ぐように当てられる。恐怖ではないもので歯の根が噛み合わなくなる。カチカチ、とかすかにかすかに鳴る音に、彼が気付かなければいい。
 粘性の液体を纏った指は、それを塗りつけるようにくるりと円を描き、ふつり、内側へと滑り込んできた。
 末端とはいえ内臓に、他者が入り込む。

「…………」

 奥歯を噛み締める。痛みはない。
 不快、とも言い切れない、言いたくないような、妙な感じがした。違和感、が一番近い。否が応でも、意識のすべてがそこに集中してしまう。
 自分の指より、ひとつひとつの関節のあいだが長い。少し差し込んでは引き抜き、差し込んでは引き抜いて、すべてを呑み込んだころには串刺しになった気分だった。
 なにかを確かめるように、第一関節が少し曲げられる。腹の中で、別の生きものの指が動く。
 想起したのは、寄生型のエイリアンが出てくるアメリカあたりのパニック映画だった。これは、そんなに怖いものでも未知のものでも、自分を傷付けようとするものでもないけれど。

「……俺は随分と、甲斐性のない男だと思われているらしい」

 ずる、と指が抜けていく。入るより出ていくほうが慣れた感覚のはずなのに、一緒に生気も抜けてしまったかのようにぐったりと身体は弛緩した。

「……ん?」

 なにか、言われたことに気がつくまで数秒かかった。しかも少し機嫌が悪い。気分が害された、というよりもっとどこか幼い、まるで拗ねているかのような。
 拗ねる巌窟王、と考えて、あまりの似つかわしくなさに目が覚めたような心地になった。

「え、なに、どした」

 まだ後ろになにか挟まっているような気がする。ぬるつくそこに気を取られながら、ベッドに突いた肘で上体を起こそうと試みた。制止のように、肩が掴まれる。
 妙なことを言い出すのは自分からばかりだったので、新鮮な気持ちで立香はまばたきをした。巌窟王は、あまり見たことのない表情をしている。

「再三だが。おまえは、俺に『抱いてもらう』のではないぞ」

 言われている言葉はわかるが、なにを言おうとしているのかがまったくわからない。これはむしろ、いつもの巌窟王かもしれない。熱い息を吐き出しながら、意味を咀嚼しようとする。
 折り曲げた指の丸い関節が、先ほど潜った部分をつついた。刺激を与える、というより、そこを示されたような動き。
 わかった。ような気がした。

「あっ、そ、あー、いやでも、え? 手間だろだって」

 たぶん、立香が自分で少し準備をしておいたことを言っているのではないだろうか。
 合っているのかわからないが、違うと否定されないあたり合っているのだと思う。けれどそうだとして、なにが問題だったのかがわからない。さっき男は何と言っていただろうか、甲斐性?

「…………」

 虎の目が、射貫くように立香を見つめている。なにが悪かったのかは不明だが、責められていることだけは察した。視線の圧が強い。白旗のかわりに両手を挙げたくなるほどに。
 罪悪感、のようなものでちりちりと心臓が痛んだ。深く呼吸をして、痛みを受け流す。少しでも息が浅くなるとだめだった。眉尻が下がるのを感じながら、なにも言わない男を見つめる。
 ふ、と。緊張の糸を切るように彼は笑った。

「いや。これは単におまえの稚さか?」

「ん、ん?」

「服を脱がせるのと同じだ、と言えばわかるか。手間だと判じてしまうなら、そもそも始めから必要性のある行為ではない。これはただの睦みごとだ、惜しむべき手間などあるものか」

 彼の機嫌は、いつのまにか回復していた。まるで立香に教え、導くように、ゆっくりと言い聞かせられる。
 ぼんやりとした頭で反芻して、ああ、なるほど、と素直に思った。一人で用意して差し出すのではなく、ふたりで行うことなのだ、これは。甲斐性、なるほど、なるほど。

「……ごめん、な?」

「いや。教え込めるというのも……存外、悪くない」

 ぞく、と腰をくすぐるものがあった。上がった口角が、低めの囁くような声音が、心臓にひたすら悪い。ちょっとその言い方は誤解を招く、と、立香は思ったが口には出さないでおいた。
 さらり、乾いたままの彼の片手が、宥めるように髪を梳く。

「……っ」

 くち、と粘っこい音がきこえた気がして、立香は己の肩に顔を埋めた。指が、また、入ってくる。
 中を探るように、あるいは縁を広げるように指は動いた。苦しさはないが、やはり異物感は強くある。ある程度ほぐしておいたとはいえ、たった一晩の付け焼き刃だ。いや武器にしてどうする。どちらかというと素人仕事とか、一夜漬けとか、そういう。

「う、んっ」

「……立香。目を」

「ん、……うん?」

「目を開けろ。俺を見て、息をしろ」

 言われるがまま、無意識にかたく閉じていた目を開く。少しぼやけた視界の中に金色の瞳を見つけると、どく、と鼓動がおおきく響いた。
 背筋に震えが走る。自分の中にあるこれは、目の前の男の指で、男は今、自分の中に触れているのだ。

「…………ふ、う、う」

 からだのなかを押される感覚に、膨らみきった風船から空気が逃げようとするような、声ともつかない息が出ていく。
 性感があるわけではない。そこが熱くて、入っていて、動いている、それくらいしかわからない。時折、勝手に身体がひくん、と跳ねた。なぜかはわからない。怯えているわけではない、というのは、わかる。
 伝えなければ、と思って口を開いた。はあ、と震える息が出た。

「こ、こわくないから」

「……ン?」

「いや、なんかビクビクっ、して、るけど。べつに、っ、べつに。怖いとかじゃ、ないから」

 男の手つきは、どこまでもやさしい。サーヴァント、それも荒ぶる復讐の偶像として現界している巌窟王にとって、生身の少年の内臓など、飴細工より脆く思えるのかもしれない。怖いわけがない。ちっとも恐ろしくない、むしろ、だいぶ嬉しいというのに。思いに反して身体は跳ね、立香は困惑と焦燥を覚えた。
 緊張しているのかもしれない。
 降ってきた唇を、顎を上げて迎えに行く。やわらかなもの同士が合わさるのと同時に、うしろの指は抜けてしまった。あ、と名残惜しく思っていると、また縁に触れるものがある。
 指が、増やされた。ぐちゅ、と水音が鳴り、大袈裟なまでに身体が跳ねる。

「ん」

 いつのまにか絡めとられていた舌の先を軽く噛まれ、気が逸れた。反射的に引っ込んだ舌を追いかけるように、男のそれが滑り込んでくる。というか、深い口づけをするのは今がはじめてだ。もっと味わえるときに、と思わなくもないが、それは贅沢というものだろうか、むしろ今のこの状態が贅沢なのか。

「は、っうん」

 口と口のあいだに少し隙間が空いた隙に、肺へ酸素を取り込む。吸ったはいいが吐くタイミングを失った。頬の内側を、生まれてはじめてひとに舐められる。支えるように手を回された首の後ろがぞくぞくする。もう片方の手では、内臓をぐいぐいと探られている。
 じわりと、一度はすれすれまで高められて放っておかれたものから体液が滴る感覚があった。水音が、頭の中で反響する。口の中と、下と。どちらの音がきこえているのかわからない。上顎の気持ちいいところを舌でなぞられる。ぐるん、と指が中を掻き回す。どちらでなにを感じているのか、把握しきれなくなる。
 思考が飽和しかけたとき、口の中から舌が去っていった。ぴりぴりと、粘膜が痺れている。顎の閉じ方を思い出すまでにしばらくかかった。喋ろうとすると、すっかり敏感になった咥内への些細な刺激が生まれて、怖じ気づく。いつのまにか、後孔からも指が抜き去られていた。
 悲しくもないのに、すん、と鼻が鳴る。

「……悔いはしないか」

 上を向かされて瞼を上げると、こつん、と額に額が重なった。はっとして、息を呑む。指ではない、もっと熱いものが、脚の付け根に触れている。
 ふたりぶんの呼吸音と、耳のすぐ近くで響く心音、鼓膜に届くのはそれだけだ。悔い。唾液を飲み下しながら、考える。後悔、しないかどうか。
 巌窟王の目を、覗き込む。そこにある機微をひとつも取りこぼすまいと、よくよく確かめる。
 ただただ、立香を案じている。
 できればここでやめたい、だとか、やめられないのなら覚悟を決めよう、だとか、そういうたぐいの願いや構えは見受けられない。ただ、このままからだを繋げてしまって、立香が後悔することはないか、それだけを問うている。
 ふわりと、頬がゆるむのを自覚した。

「……キミがしないなら、オレもしないよ」

 触れられたいと思ったのが、このひとでよかった、と思う。このひとがこういうひとでよかった、とも。事故みたいな恋で、望まれなかったはずの思慕を、彼は受け取ってあまつさえ贈り返してくれている。同じものではないし、巌窟王という存在から愛や恋が出力されることはないのだろうけれど。それでも、彼の抱ける想いで唯一のものを向けてくれている。
 そもそも普通の恋人たちだって、それぞれまるきり同じ気持ちを持つことは不可能に近いだろう。違う存在なのだから、抱く感情が異なるのは当然のことだ。
 触れ合って、そうすることでふたりで喜び合えるなら、呼べる名前が恋じゃなくたって構わない。憐憫でなく、義務感でも使命感でもなく、欲望として自分に手を伸ばしてくれるのなら。
 
「たくさん喜ぶから、たくさんさわってくれ。巌窟王が喜んでくれるなら、オレはそれが一番嬉しい」

 目の前の首に、腕を回す。ずっと触れてみたかった髪は、予想通り炙られたように乾いていたが、想像よりもやわらかかった。
 何度目かのキスが降りてくる。顔が近付ききってしまう前、一瞬だけ見えた目尻は、笑むように細められていた。仄かに、嬉しげな色を含んで。



 途方もない圧迫感は、充足感とニアイコールで結ばれた。
 吸った空気を吐ききれず、は、ふ、と浅く、溺れるような呼吸を繰り返す。深く吐こうとすると、腹のどこか、なにかの内臓がどうにかなって、埋められた熱いものをより強く意識してしまう。
 中の粘膜が、きっとぴんと伸びきっていた。突っ張るような感覚。薄くなっているような、動かれると破けてしまいそうな。

「痛みは」

 耳に直接流し込むように訊かれ、かぶりを振る。痛くない。

「……その他問題は」

 こちらにも、少し迷って首を振る。問題は、たぶんない。
 正直身体はどう考えても苦しいのに、その苦しさが、まるで強く抱き締められたときのような安心感と幸福をもたらしていた。
 首元にかじりついたままであるので、腕の中に彼の首があるのも安心する。ふ、と息を吐くたび、だんだん呼吸が深くなり、突っ張っていた中も馴染んでいくような気がした。
 白い癖毛の、束をひとつ掴んで、軽く引く。

「……大丈夫、に、なってきた」

 ふふ、と笑い声が耳朶をくすぐった。指より深く沈み込んだそれが、ゆっくりと出ていこうと内壁を擦る。

「う、……んん」

 ズレてしまうのがやりにくいのか、片手が立香の腰骨を掴んだ。立香のほうも、抜けていこうとするものに着いていってしまわないよう、引きずられないように気をつけた。
 シャツの裾から潜り込んできたもう片方の手が、腹を撫で、肋のへこみをなぞり、胸へ上る。

「は、ふ、……っ、ふ」

 自分よりも筋肉質な肩へ、甘えるように額を寄せる。引き抜くときに、ぞわぞわと背筋が震えてしまう。不快ではない、悪寒ではない、恐怖でもない。
 もしかすると、きもちいいのかもしれない。

「っ、え」

 思い至った途端、背中の震えが心臓にまで響いた。びく、びく、と断続的に腰が跳ねる。身体と精神がようやく繋がったかのような、焦りにも似た感覚に目を瞠る。
 性感はなかったはずなのに。再び入ってきたものを、逃すまいとして身体が動く。入るときなら、まだ圧迫感を覚えるだけでいられた。出ていくときはだめだ。あんなのはしらない。ほんとうに快感なのかもわからない。ただ、そうかも、と思ったときから、じわじわと腹の底に熱が灯ったような気がする。しらない、引かないでくれ、まだ心の準備が。

「……、…………っ」

 声も上げずに、息を詰まらせる。黙り込んだことが、むしろ感じている証拠になってしまうのではないかとも思って、目尻が熱くなった。

「……は」

 彼が、少し苦しそうに息をついた。男の身体を挟み込む両脚の願いを汲んだように、動かなくなる。
 抽送が止められたのはどれほどの時間だったろうか。そこで、立香は自分が彼のものをきつく喰い締めていることに気が付いた。声を出そうが出すまいが、顔を見られようが見られまいが、それだけで快感を覚えているのがバレそうなほどに。

「……っあ、あ、これは、っその」

 弁明しなくては、と思って、必死で頭を働かせる。ぐ、とまたそれが入ってきて思考が追い遣られた。嬉しいのと、きもちいいのの区別がだんだんつかなくなってきている。
 だって、どう触れられても嬉しい。
 巌窟王が上体を持ち上げると、縋りついていた立香はぽとりとシーツに落ちた。身体に力が入らなくなっている。
 見下ろす金が、視線を呼んでいた。呼ばれるままに、ぼうっと目と目を向き合せる。

「いいのか」

 問いの意味を理解して、ただでさえ熱い顔がなお沸騰した。

「い、いいです……」

「そうか」

 頬骨のあたりに、浮かれたような口づけ。喜ばれている、と思うと、恥じることすらおぼつかなくなる。
 ずる、と抜けていくときに、立香のものの先を戯れのように弾かれた。もう忘れられているとばかり思っていたのに。

「………………!」

 身体が勝手に捩れて、暴れ回ろうとする。腰を固定する手はびくともせず、押さえつけられる感覚がまた、少し苦しくて満たされる。
 輪郭は保ったままにとろけきった理性が、崩れてしまうまいとして必死にシーツを握り締める。折り曲げられた腹が、潰れるようで息苦しい。快感がまたどこからかあふれ出た。濡れて、浸りきったそこで、溺れる。

「は、……あ、あう、う」

 もうだめだと、伝えようとして喉を震わせても、意味のある言葉を紡げなかった。声を、出そうとしてしまうとこうなるのだと悟る。なにか言いたげなのを察してくれたのか、返事のようなキスが額へ降った。
 堪えられない、堪えるやりかたがもうわからない。どこがきもちいいのかすらわからなくなって、はっきりしているのはただ、目の前の彼の存在だけ。
 それで十分だった。



 満たされた余韻が、全身に残っている。少しでも動けば表面張力がきかなくなってこぼれそうなほどに。
 ぼんやりとベッドに沈んで、呼吸をする。身体が重いのは当然だ、 中身が満杯になっているのだから。
 誓って物理的な意味ではなく。

「痛むところは」

「……ないよ、大丈夫」

 立香が呆けているあいだに、タオルを濡らしてきてくれたらしい。どうにか腕を持ち上げると、背を支えられ上体を起こされた。さながら看病のごとく。部屋の白い明かりが目に眩しく、余計に病人の気分になる。

「あ、ありがとう」

 受け取ったタオルはほんのりと温かかった。汗ですっかりシャツが湿っている、これは、あとで着替えたほうがいいかもしれない。

「気分は」

「き、…………何、どういうニュアンスで」

 ピロートークにしては坦々とした、単なる事実確認のような口調に、それでも頬骨のあたりがむずむずとする。巌窟王は立香が自分で体重を支えられるようになったのを確かめると、ベッドの端に、背を向けるかたちで腰掛けた。ぎ、と重みでマットの表面が少し傾く。

「言ったろう。この身は復讐者、怨念の黒炎。あれだけ長時間触れていて、及ぼすものが皆無とも思えん」

 見られていないうちに、下肢のぬめりも手早く拭き取った。明日の朝、またしっかりシャワーを浴びようと思う。
 その背はもう、いつものベストを纏っていた。スカーフはあるが、ジャケットと外套はない。十数分ほど前よりは着込んでいるが、それでも常よりずっと軽装である。気を抜いているのだろうか、と思うと、嬉しい。
 体育座りをして、足と臀部でベッドの上を数センチ移動する。一瞬躊躇ったが、こて、と背中に頭を寄りかからせた。

「それも大丈夫。ありがとう、気にしてくれて」

 巌窟王は拒まなかった。預けた体重を、受け止めてくれている。ふう、と深く息を吐いて、目を閉じた。
 実は少し、身体のいろいろなところがぴりぴりと痺れている。立香に毒は効かないようだが、全くなにも感じないというわけではないから、それなのだろう。これ以上強くなったとしたら素直に相談するしかないが、これのみで収まるのなら、言わないでおく。

「好きだよ、巌窟王」

 薄氷の前に立たされたような恋だった。万が一にも踏み割りたくなかったから、その下の水面へ息を潜めた。薄い氷を壁にして、欲を、望みを、願いを、相手にぶつけてしまわないように。
 男はその、欲をほしがってくれた。在ることをゆるすだけではなくて、欲しいと思ってくれたのだ。
 欲しがられたい、と言った自分を思い出して、笑う。ああ、なんだ、願いは叶ってしまった。

「氷、溶けちゃったのかもな。キミは炎だから」

「……脈絡が飛んだな? わかるように話せ」

「あ、オレみたいなこと言ってる」

 いつもの逆だ、と思ったらおかしくて、肩を震わせているうちに眠気の波がやってきた。もう少しくっついていたくて、もう少し話していたいけれど。
 また今度、こうして触れたいと言ってみてもいいかもしれない。頼んだら、喜んでくれるかもしれない。
 それはとても夢のようだと思いながら、本物の眠りに落ちていった。

2018/09/19





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