パタパタと動いていた指の動きが緩慢になり、キーの上を彷徨ったあと、諦めたようにそこから離れる。レポート作成を中断して、立香はくるりと振り返った。

「ちょっと休憩」

 そうして、何をするでもなく座っていた巌窟王の右目と目が合う。口元を笑みのかたちにすることで挨拶とし、立香は椅子ごと巌窟王のいるテーブルへ近付いた。彼のために淹れてみたお茶は、申し訳程度に減っている。
 かれこれ一時間ほどテーブルに放って置かれていた編み籠から、蓋代わりのオレンジ色の布を。現れたのは、山盛りになった何枚ものクッキー、それから山脈のようにずらりと並んだ小柄なおにぎりたち。

「頭使ったからお腹すいたな。巌窟王、どれでも食べていいからね」

「……おまえの目の前に居るのは、サーヴァントだ」

 立香は早速、山の上から市松模様のクッキーを取り、口へ放り込む。

「ひっへう」

 サク、と小気味よい音がした。噛み砕いて以降はしかと唇を閉じ合わせ、声を出さずに咀嚼する。巌窟王はそれを、先程までレポートを書く背中を見つめていたのと同じ目つきで、ただじっと見守った。
 ごくんと飲み込み、立香はまた籠へ手を伸ばす。

「おにぎり、一番外側の列がおかかで、二列目が見たらわかるかもだけど鮭わかめ。三列目は梅干しだから、初めて食べるなら気をつけたほうがいいかも。四列目がお肉入ってる」

 順に指し示すと、巌窟王がやや眉を寄せた。構わず、立香は三列目と呼んだそれを掴み上げる。
 ラップの包みを剥がしていると、赤い瞳が睨むように視線を強くした。

「先の言葉を理解していないワケではあるまい。サーヴァントに食事は不要だ。これらはすべておまえが平らげるか、可愛い後輩とでも分け合うがいい」

 あとはかぶりつくだけのおにぎりを手に、立香は音をたてず息を吐いた。目の動きだけで巌窟王を見上げて、そのまま三秒。

「キミさあ、ちょっと……痩せた?」

 欠けた仮面から覗く表情は変わらない。

「むりやり霊基を分けたり、改造したり、一人で無茶苦茶やったせいなのかな。前のキミより、全体的に……細くなった気がする。あとわざわざ仮面残してる左側、それって今も、ああなってるの?」

 咎める声音では、なかった。心配や悲しみでもなく、世間話の軽さでもなく、あくまで静かに立香は述べる。

「一応、霊基情報で確認できるウエイトは減ってなかったから気のせいかもしれないけど。まあ、食べなよ」

 ぱくり、と三角形の頂点をかじり取る。巌窟王がわざとらしく溜め息をついた。

「まこと嘆かわしい。マスター、おまえは決して愚昧ではないはずだろう」

 立香の舌は、米の甘みと梅の酸味、蜂蜜のまろやかさを感じ取った。

「第一に、我が霊基は十全に稼働している。おまえの炎としての力に何ら陰るところなく。第二に、それらは生者のためのモノだ。生命の循環としておまえの糧になり、おまえという命の血肉になるモノだ。娯楽としての食事を否定はせぬが、自ら使い魔に分け与えるなど廃棄も同じ。特殊事例を除いて、サーヴァントの飲食は意味を為さぬ」

 淀みなく説き、巌窟王は脚を組み替えた。皮肉というより、ただ事実を並べ立てるようなやり口だった。
 梅の香りが鼻へ抜ける。

「言ったはずだ。この身は、間もなく影となるべき存在。仮に多少の欠損があったとて、おまえが心を砕く意義などない」

 ほんの僅か、彼の目の色が暗くなる。『彼』がカルデアに現界してから、もう何度か見ている色だ。
 嚥下し、唇を舐め、立香はまっすぐに巌窟王と目を合わせた。

「でもキミは今、ここにいる」

 途端、巌窟王は困り果てた顔になる。その顔もやはり、最近よく見るものだった。
 テーブルの中央に置かれた籠を、巌窟王のほうに押し出す。

「なになら食べるかなと思ってさ、一緒に食堂行くとか、ミッション中に魔力補助の一貫としてとか考えたんだけどね。ガッツリごはんより、軽食がハードル低いかなって思って──」

 言葉にする直前、立香は一瞬躊躇した。これを伝えるのは、少し卑怯な気がしたから。
 けれど、彼の言い分がそれならば。

「……いっぱい焼いて、いっぱい握った」

 クッキーとおにぎりに視線を落として、立香は告げる。頭のいい彼ならこれだけで察するだろうと思いつつ、言ってしまったのだからと開き直った。

「巌窟王に食べてほしくて、わたしが作った。カルデアってキミの言うとおり特殊環境だから、サーヴァントも太ったりするかもって聞いてる。もちろんこの量を全部食べろとは言わないからさ、バリエーションのためだし、ついでにわたしも食べるし」

 おにぎりくらいなら元々問題なく握れる。お菓子づくりは、毎年のバレンタインですっかり慣れた。とにかく軽くつまめるもの、けれどある程度カロリーのあるもの、冷めてもおいしくいろんな味を用意できるものを考えた結果だ。もちろん食材はキッチンから頂戴したが、そこから先は他の誰でもなく彼のために。
 ゆっくりと、顔を上げる。巌窟王の表情が目に入り、立香は息を止めた。

「おまえは」

 声は、直接心臓にしみこんで、立香の目元を歪ませた。巌窟王は視界を閉じ込めるように瞼を下ろす。

「……背が、伸びたな」

 咄嗟に呼吸がリズムを失うと、静かな部屋にはよく響いた。
 巌窟王とはじめに出逢ったころの自分を、立香は思い出そうとする。先導して歩く彼を追いかけるとき、視線の角度は今慣れたそれよりも急だっただろうか。

「ほんとにお父さんみたいなこと言うじゃん」

「……やめろ、アレはおまえの精神を舞台とした都合上の」

「わかった、わかってるから」

 笑いながら編み籠をまた二センチ、巌窟王の側に寄せる。観念したように肩の力を抜いて、巌窟王はおにぎりの一つを手に取った。


2024/07/14


×
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
- ナノ -