心臓が凍えるような心地でいた。指先にまとわりつく痺れたようなおぼつかなさが、性感の余韻か、それとも怯えでこうなっているのかわからない。沈黙を湛えた空気が針のように皮膚を痛ませる。

「……ごめん」

「なぜ謝る?」

「いや、だって」

 気持ち悪いだろ、というせりふしか咄嗟に浮かんで来ず、けれどそれはあまりに卑屈っぽくないかと思われて、立香は逡巡のうちに二度ほど唇を強く結んだあと、いい気分はしないだろ、と元とあまり変わらない言葉をようやく口にした。
 端的に表すと、自慰の際に巌窟王を想起した。彼が己に近付いたときの仄かな熱、黒炎と煙草の匂い、戦闘外でのふとしたときに細められた目元、低く響く声や煙を吐くときの息の音、ごくまれに降ってくるくちづけ、それらをひとつひとつ、幼子が宝箱の中身を愛でるような拙さと切実さで思い出しながら、決して幼子はしないやり方で自身を昂ぶらせ、同時に宥めていた。声は出していないと断言できる。施錠もしていたのを確認している。むしろ多少の、言葉にならない母音程度こぼしていれば、目の前の男も暗闇の中ひょっこり現れたりしなかったかもしれない。
 なにがいけなかったのだろう。考えようとするも思考がとっちらかっていて、もうなにもかもがだめだった、それにしか行き着かない。気が付いたら、思い描いていただけのはずだった男がそこにいた。失念していたわけではないが、呼べば、来てしまうのだ。いや、そういうことなのだろうか。立香にこの度彼を呼んだ自覚はないし、彼とてまだ、施錠された主の部屋に入り込んだ理由を述べていない。見られただけ? けれどどうして。

「……あの」

 下肢を覆うようにたぐり寄せていたシーツを、握り締める。明かりを消したままでいればよかった、と今更ながら後悔した。男が現れたのを認識したと同時、悲鳴を上げてなぜだかスイッチを入れてしまったのだ。淫靡な気配を吹き飛ばしたかったのかもしれない。なんだ淫靡って。そんな概念が自分の引き出しにあったことを、立香は今の今まで知らなかった。

「な、なんか用? が、あっ、たから、いるんだよね」

 萎もう萎もうとする語尾を、意識して張り上げた。とはいえそうしてやっといつも通りの声量に追い着くかどうかだ。視界の端には男の外套とブーツを履いた足。座りなよ、という勧めは彼の耳に届いただろうか。
 カリカリと布地を引っ掻くときに、指先に当たるやわらかな感触へ逃避する。冷えていたはずのシーツは、もう手のひらの熱に染まってしまっていた。

「おまえは──」

 投げかけられた第一声に、身を固くする。緊張のためか、男がわざと抑えているのか、声から感情を読み取ることができなかった。嫌われたくない。嫌わないでほしい。それだけを祈りながら、目を閉じる。

「俺を好いていると、言ったな。人とは呼べぬ復讐鬼であるこの俺を。愛を得ることのない、エドモンならぬこの身へ、無謀にも人へ向けるべき慕情を寄せていると」

 身構えていた方向から、いささか外れたことを言われた。男の音吐は、非難の色を持つものではなかった。
 混乱する頭では噛み砕ききれない言葉をどうにか呑み込んで、頷く。それは、ゆるしてくれたことがらのはずだった。殺そうとして失敗し、無惨にも暴かれ、そして男が見逃してくれたはずの情だった。

「ならば、どうして俺を呼ばない? 否──否。求めているのだろう、この俺を。ならば、声を上げろ。手を伸ばせ。傲慢に欲を押し付けてみせろ」

 欲を。反芻して、彼の言わんとしていることを頭に染み込ませる。
 瞬間、怒り、に似たものがわき上がり、それをすぐさま諦観の波が押し流していった。あとに残ったものを拾い集めて、どうにか棘のない口調をつくる。

「応える気がないくせに、そういうこと言うの、どうかと思う」

 できるかぎり穏やかに言ったつもりだったが、そもそもの言葉が言葉である。棘はむしろ、立香のほうに突き刺さった。子供みたいに拗ねたかったわけではない。愛などしらぬと言いながら言動のはしばしから真心をこぼす、やさしい男を責めたかったわけでもない。
 違う、と首を振る。

「いや、違う。違うんだ。オレはキミに応えてほしくない、キミが望まないのに、オレがしてほしいからって、そんなのほしくない。違う、もっと違う、だって、だって──」

 あまりに我が儘な考えばかりが頭を占めていて、これ以上は、と口を閉じた。困らせたくない。悲しませたくもない。告げてしまえば、男は律儀に真正面から受け止めて、返すことのできないそれを持て余すのだろうと想像がついた。好きでいてもいいというだけで満足するべきなのに。

「顔を上げろ」

 命令口調のわりに、どこまでも響きがやさしい。一度ぎゅうと目を瞑ってからゆるゆると視線を上げると、黄金の瞳がこちらを真っ直ぐ見下ろしていた。言え、と瞳孔は逃げを許さない。そのかわり、急かすことなく待ってくれている。
 いつか男はなぜ自分に付き合うのかと問うたが、彼こそ不可思議なほど立香に寄り添おうとしてくれていると思う。マスターとサーヴァントの契約関係の外にあるだろう、ただのちっぽけな、ひとりの人間としての藤丸立香を見て、心を添わせてくれている。
 存在をゆるされているような、安心感にも似た心地に、するりと願望が口からこぼれようとしていた。

「──だって、オレはキミに、欲しがられたいんだ」

 言ってしまった。言ってやった。恐れと達成感が同時にどっと襲ってくる。水っぽくもない鼻を啜ると、喉が無様に引きつった。
 熱を孕む目尻を、温度の低い唇がついばんだ。彼を構成するらしき毒の炎と呼ばれるものの、ぴりぴりとした刺激。

「泣いてない」

「ああ、識っているさ」

 熱を感じるほどに近寄られると、どうしたって心身は歓喜してしまう。もっとそばに。いや、高望みはすべきじゃない。深緑の外套の端を右手と左手でそれぞれ掴んで、鼻の頭を掠める唇に目を細めた。これが、彼がしたくてしているのならどんなによかったか。まだ成人もしていない未熟者の癇癪を慰めるためなどではなくて。
 ふう、と深く息を吐く。純然と自分のために欲求をぶちまける、という慣れないことをしたからか、少し落ち着いてくるとゆるい眠気すら感じられた。好き勝手に生きているつもりではあるけれど、とくに人理修復のために走り出してからこちら、たいてい目の前にいる誰かの笑顔や幸せがほしくて怒ったり縋ったりしているものだから、こうも自分の内をさらけ出したのはいつぶりだろう。さらけ出すといえば、下ろしたズボンと下着をまだそのままにしてしまっている。つくづく自分は格好がつかない、と立香はまた乾いた鼻を啜った。

「俺は」

 こめかみへのキスのあと、ずいぶん近くで巌窟王は囁いた。羽が触れたようなくすぐったさに、右目を瞑る。

「おまえが望むのなら、叶えたい。だがそれはおまえの思うような消極ではなく」

「……巌窟王?」

「ああ。俺は怨嗟、怨念、怒りが人のかたちをしたモノだ。おまえはわかっているのだろう、わかっていて、それでも尚俺を望む」

 なんの話をされているのだか、いまひとつ掴めなかった。半分自分へ言い聞かせているかのような調子で言葉を紡ぐ彼を、ぼんやりと見上げることしかできない。
 ああ、と男は頷いた。立香にはなにもわかっていないというのに。

「俺がおまえに触れる理由など、それで十分だ。そもそもこの俺が献身などしようはずもない。おまえが危惧するような斟酌の結果ではない。──不満か」

「……ごめん、もうちょっとだけ、かんたんに言ってくれ」

 なにもわからないのに、なぜだか心が期待に震えるのを感じた。革手袋の張りのある感触が頬を包む。条件反射のように、身体の力が抜けていく。
 しばらく言葉を探すように黙り込んでいた男は、ふ、と目元をやわらげると、ため息をもらすように口を開いた。

「おまえを喜ばせたい。これは確かに、俺の欲だ」

2018/06/21


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