「あまり近付くな、そして(オレ)に、近付けさせるな」

 座りなよ、と椅子をすすめた返事がこれである。一拍の間を置いて、立香は口元だけで笑って応えた。

「わかってる。これでも我慢してるほうだよ」

 僅かに見開かれた赤い目が、続いて痛みを堪えるように瞑られる。

「………………ああ」

 巌窟王はそれ以上を言わず、立香の斜め左に腰を下ろした。真向かいよりは近く、すぐ隣でもない距離。空気が互いの体温までもを気配として伝える、少し手前。
 これは譲歩だと、立香も理解している。仮面で隠されていない方の顔が見やすい位置取りを受け容れてくれたことも含めて。

「ありがとう、巌窟王」

 自分の部屋に来てくれる。手を伸ばせば指先は届くような距離を許してくれる。以前であれば日常であったこれ以上を望めぬことが、さみしくないと言えば嘘でしかない。これまで、ずっと傍に在ったのだから。たとえ姿の見えないときも、夢でも現でもいつも彼はそこにいると知っていた。比べてしまえば、今の彼はやはり遠い。
 けれど立香に、今得られている彼との時間を、ただ悲しんで過ごすつもりはなかった。想定外だろうがなんだろうが、彼はここにいるのだから。ほんの短いあいだだとしても。

「……うん、でも」

 テーブルに片方頬杖を突いて、立香はあえて冗談のように拗ねた顔をした。

「もっといっぱい、キスとかしておけばよかった」

 そしてすぐに、視線を合わせて微笑む。決して責めたいのではなく、悔やんでいるのともまた違うのがちゃんと伝わるように。
 元より、いくら触れていたところで足りるようなものではないのだ。だからこれは後悔ではない。単純に、欲があるだけ。

「……ん」

 巌窟王は少し困ったような、考え込むような表情になった。
 最近の──『決意』のみで在るらしい彼は、以前の彼よりもこうして弱った顔を見せることが増えた。わがままを言った自覚のある立香は、それでも受け止めて素直に困ってくれることを、少し嬉しく思ってしまう。煙に巻かいてはぐらかさず、こうして目の前で惑ってくれる。
 とはいえ惑わせること自体は本意ではない。あんまり気にしないでいいよ、と口を開こうとして、先に巌窟王が顔を上げた。

「立香。手袋を」

 まばたきをして、首を傾げる。

「てぶくろ?」

「片方、寄越せ。そうだな、右手のそれを脱いで、こちらに」

 言われるまま、立香は右の手袋を外した。手袋も礼装の一部だが、彼に預けることへ躊躇いはない。
 そのまま素手になった右の腕を伸ばし、触れ合ってしまわないよう気を付けながら手袋を渡す。巌窟王もやはり立香の肌には接触せず、また、至極丁重にそれを受け取った。
 きょとりとした立香が見守る中、巌窟王は手袋を持ち上げ、座ったままで少しだけ身を屈めて。

「────………………」

 口づけを、した。

「……これで許せ」

 返された手袋を、握り締めて、胸に寄せる。
 溢れそうになるものをどうにか逃がすように、立香は呼吸を繰り返した。巌窟王が、苦笑と呼ぶにはあまりにも甘さのある瞳で立香を見つめる。
 口を開いて、言葉が出ずに一度閉じ、もう一度開く。

「……オレも同じことしたいって言ったら、ダメだって言う?」

「…………おまえの想像通りだ。身に着けるものとて、単なる物品──この世に在って然るべきモノなどではなく、すべて我が霊基の一部なれば。触れていいとは、肯定できぬ」

「……うん」

 散らかった想いを飲み込むように喉を鳴らして、立香はふと、自らのポケットの中を探った。ひたり、と、指先に金属の感触。

「……預かりものだ、前のキミからの」

 取り出したライターを、唇ではなく、額へ当てる。
 それが十字架だったなら、祈りを捧げているようにも見えたかもしれない。信仰ではなくただただ親愛を、立香は彼へ贈った。

「復讐とは違うけど、オレだってキミに、たしかに火を貰ったんだ」

 ライターを返すことはせず、巌窟王をまっすぐに見つめる。巌窟王は、泣く直前のような顔で笑った。

「……ああ」

 ほとんど吐息のような、消えかけの声を漏らす。

「やはり、眩しいな、おまえは」

2024/05/22


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