りつか、という音の連なりに、一拍遅れて耳を疑った。

「えっ」

 振り向いた先の巌窟王と、しっかりばっちり目が合ってしまう。金色は自分を観察していたようで、睨むわけでもない瞳の圧にやや気圧された。
 フルネームで呼ばれたことは何度もある。だから、彼の声でそれを聞くこと自体は初めてではない。ないのに、聞き慣れた前半がないだけでこんなにも落ち着かない。

「厭うている、ワケではないな」

「いや急になに、びっくりするだろ」

「不慣れなだけの驚きでもあるまい」

 表情の色を変えないまま、巌窟王は少しだけ目を細めた。彼の手元にあるカルデア作家組の新作は、裏表紙を上にして閉じられている。レポートが終わったら読もうと思っていたから、自分はまだその中身を知らない。

「立香」

「……何?」

 二回目のそれに、とりあえず返事をしてみる。首から上を中心に、体温がやや上がるのを感じて気恥ずかしい。
 巌窟王は組んでいた脚をほどいて、おもむろに立ち上がった。元凶と思われる本は丸テーブルへ置き去りにして。

「藤丸」

 意図が読めないまま、耳に馴染む呼び名に肩の力が抜けた。コツ、コツ、と革靴が勿体つけたリズムで歩み寄ってくる。

「だから何って」

「……立香」

「た、タイムラグでフルネーム言うのはズルだ!」

 ク、とすぐそばに来た喉が笑う。伸びてきた手に反射で左目を瞑ると、頬の高い場所を指の背で撫でられた。猫かなにかにするみたいに。

「確認に過ぎん。常呼ばれているおまえの生家で継ぐ名、またそこでおまえという個に与えられた名。どちらもが只おまえであり、いずれを音にされずともおまえは損なわれない」

 離れた手を追って顔を上げる。今度こそ、観察ではなくいつものように視線が繋がった。彼の口角がさらに上がる。

「今更ではあるがな。おまえを示す言葉は多く、そのどれもおまえを歪ませることはないのだから」

 まばたきをする。他でもない巌窟王がこう言うのなら、先程までのあの目の意味は。
 彼がまた、今度は息だけで笑った。おもしろがっている様子に警戒する。

「あとはそうだな、軽々に口にするべきでもないとも理解したさ」

「……一応聞くけど、どうして?」

「自覚があるだろうに。その顔を、大勢に晒すことは望むまいよ」

 喉の奥で空気が詰まって、変な音が出た。確かに、仮に食堂で同じことをされたらすぐさま自分を下の名前で呼ぼうキャンペーンが始まってしまいそうだ。とても勘弁してほしい。
 まだ平熱に戻り切らない頬を仰ぐ。

「巌窟王」

「ああ」

「わかっただろうけど、大丈夫だよ。普段のままで」

 元々日本でも、友達のほとんどが自分を名字で呼んでいた。下の名前を呼ぶなんて家族くらいで、だからカルデアに来てからは、フルネーム以外でめったに聞かなくなっていた。だからどうということもない。彼の言う通りどう呼ばれようが自分は自分で、さみしさがあるとすれば、それは家族自体へ抱くものだ。
 巌窟王は応えて笑み、帽子のつばを摘んだ。

「だが、忌避するものでもないのなら。おまえの反応は悪くなかった」

「んっ?」

「誰の目もなければ問題はない。そうだろう、我が共犯者──」

 弧を描く唇と比例せず、声音は揶揄いよりも柔らかい。心臓が頭より先に察して身構える。

「立香」

「──……」

 外套が風もないのにふわりと広がった。絶句したまま、影に消えていく彼を見送る。
 口元がおかしな形に歪んで止まらない。怒りに似て怒りではなく、だって、決して嫌ではないのだ。本当に、彼は自分をよく見ている。
 残された本を八つ当たりのように睨めつけて、書きかけのレポートへ向き直る。きっと今回は、俗っぽい現代ラブロマンスに違いない。

240319


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