暗転に前触れはなかった。
平坦な黒一色が視界のすべてとなり、自分の呼吸音も床を踏む感触も、意識さえ束の間に途切れる。
「あ」
声がこぼれた気がしたけれど、それさえ定かではない。ただ、ぼんやりとした危機感が、心臓を縮ませたのは確かだった。
藤丸立香の意識は、時折『ここ』ではないどこかに繋がる。なにかを垣間見るだけのときもあれば、身体を置き去りに旅をすることもあった。今回もそうなるのか、と身構え、頭とか打たないといいな、とも考え。
まず、重力を思い出した。
「……あれ」
唇は、動く。か細いながら声も発せられた。目の前が暗いまま、なのは、目を閉じているからだ。
重たい瞼をどうにか上げる。知っている香りがする。自分の足で支え損ねた体重を、受け止めてくれた誰かがいた。
「昏睡には至らなかったか」
耳に親しい声がして、そのまま立香は担がれた。ふわ、と意思と無関係に持ち上げられる感覚が心許なくて、慌てて肩にしがみつく。そうして見えた風景は、なんてことないカルデアの廊下だった。
「ありがと、巌窟王」
「……礼どころか、叱責さえ相応しいのだがな」
「?」
コツ、コツ、と足音が響く。運ばれながら、立香は状況を把握しようと努めた。
身体に力が入らない。精一杯繋ぎ止めている意識も、ともすれば手放してしまいそうになる。けれど起きていられるということは、つまり『繋がってしまう』ような案件ではないのだろう。あれは問答無用で、どうにも抗いようがないものだから。
さっきまで元気だったのに、と困惑しながらも、立香は流れていく景色が予想と違うことに気付いた。
「医務室、じゃないの?」
「──彼らに診せたとて異常は見つかるまいよ。領分が異なるのだ、医神の技量を以てしても『治療』の手が届くものではない。少なくとも、今は未だ」
すぐそばに聞こえる彼の声音は、少しだけ沈んでいるように感じられた。巌窟王の肩の上で、立香は声もなくまばたきをする。
辿り着いた立香の部屋のドアを開け、彼の足は迷いなくベッドに向かった。
「今のおまえに有効なのは、一にも二にも休息だ。対症療法、ですらないがな」
背中に回った手へ、立香は重心を寄せる。抱えられるときに驚いてしまったからか、巌窟王は随分慎重に立香をベッドへ横たわらせた。
「暫し休め。安心しろ、コレは目覚めぬ眠りではない」
「……ちょっと待って」
彼が離れていこうとする前に、立香は巌窟王を呼び止めた。金の目が、意外そうに少し開かれる。
「そこの引き出し、三段目に入ってる瓶、取ってくれないかな」
取ってくれない、のあたりで巌窟王はもうその手に茶色い小瓶を握っていた。立香には寄越さないままでラベルを見つめる。
「……何が入っている?」
「栄養ドリンク。ダ・ヴィンチちゃん特製、パッケージも味も日本風」
「休めと言ったはずだが」
「風邪の人も飲めるやつだから大丈夫だよ。カフェインレス、タウリン3000ミリグラム、効能・疲労回復、病中病後、栄養補給にこれ一本」
ぐったりとしたまま流れるように言葉を連ねた立香に、巌窟王は眉を寄せた。ラベルに同様のことが書いてあるのを再三確かめ、やっとそれを渡してくれる。
腹筋と、肘の力で上体を起こす。それだけで、一仕事終えたように呼吸が荒くなった。軽く立てた膝へ、寄りかかるように腕を乗せる。
「まだ行かないでね」
アルミの蓋を、立香は開けようとして一度失敗した。濡れているようには感じない手をシーツで拭いてから、再度蓋と瓶を握ってひねる。開いた。
冷たさと、独特の甘さと酸味が舌に広がる。元気の出る味だ。最後の一滴まで飲み干して、立香は息をついた。
「わたしの魔力って、生命力らしいから」
ベッド横のゴミ箱に蓋と空き瓶を入れて、ついでにベッドの壁側に寄る。言った通りにずっと待っていてくれた彼へ、そこで向き直った。
「巌窟王、一緒に寝よう」
二秒の静寂。
「淑女たれと強いる気はないが、女の口からやすやすと出ていいセリフではないぞ」
「そういう話じゃないって。わかってるでしょ」
立香は常よりずっと重い腕を伸ばし、外套の端を握り込んだ。見えていただろうに、巌窟王は動かなかった。
「治療じゃどうにもならないってことは、あそこに──奥底にいる、『キミ』の管轄ってことだ」
ヒントは与えられていた。彼にその意図がなくとも。
「前に言ってたよね、キミたちは繋がってるって。それならキミも、あっちのキミも、一緒に魔力の供給ができるんじゃないかな」
「……必要ない。それは、過保護に値する。過ぎれば侮りと捉えるが?」
「だって、わたしのために戦ってるんでしょ」
口にするや否や、立香は目の色を変えた。
「待って。今のナシ」
反論の間を潰され、巌窟王は閉口する。
「違うんだ、違わないけどそれは理由じゃない。なんのためだっていいんだ、キミが戦ってるなら、一人になんてしたくない」
くん、と外套の布地を引く。まっすぐに視線を合わせる瞳を、まるで眩しがるように、巌窟王は瞼を伏せた。
外套が消える。
「うわ」
立香の腕は反動でシーツに沈んだ。見上げ直した彼の目は、その色を赤く変えている。さらにジャケットを脱ぎ、首のストールも外すと、巌窟王は鼻を鳴らした。
「寝る、のだろう? サーヴァントに睡眠は不要とはいえ、着込んだままで寝台に上がるのもおまえの気が散ろう」
脱いだものを椅子の背にかけ、彼はベッドに腰を下ろした。
「……魔力の譲渡ならば、手でも触れさせておけばよいのではないか」
「それ絵面、お見舞いの深刻なやつみたいになるよ。目覚めない人にやるやつだよ」
いよいよ観念して、帽子がベッドヘッドへ預けられる。立香が先に寝転んで促すと、ややあって巌窟王もその身を横たえた。
枕に頭を預けているから、すぐ目の前に互いの顔がある。身長差のため、立っているときにはなかなか見られない角度だ。
彼が身体の力を抜いたさまに気が付き、立香はずっとうっすら思っていたことを確信した。
「巌窟王も、具合悪かった?」
「……さてな」
元より明言を求めた問いではなかった。布団を胸の上まで被せられ、立香は意識を保つのが困難になる。
「今度は、起きるまで、いてね」
返事を待てぬまま、立香は目を閉じた。前回だってコーヒーを残していってくれたけれど、本人がいればそれが一番いい。
布団の中で、彼の手に触れてみる。炎を纏うひとだけれど、体温はひんやりとしていた。瞼の裏の柔い黒が、眠りの闇に飲み込まれていく。
2022/12/16
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