彼が懐に手を入れた瞬間、ピンと来た。自分もウエストポーチを開き、手探りでそれを取り出す。
「どうぞ!」
振り向いた巌窟王の金の瞳に、青白い炎が映り込んで揺らめいた。
ぱちぱち、獣避けの焚火が弾ける音。森の夜は少し冷える。腰掛けた丸太は、体温が移っていけばもっと心地よくなるだろう。あとでホットミルクでも作るかな、と考えながら、差し出したままの手を保つ。
「………………」
「……あれ、違った?」
「いや」
貰おう、と巌窟王は葉巻を持った右手を上げた。手慣れた様子で吸い口を切ってから唇に挟み、こちらへ顔を寄せてくる。
じり、とライターの火が葉巻の先を炙っていく。風はないけれど、なんとなく片手を守るように添えた。
こうやって、端の面を全体的に焦がすみたいに。それと火力が強いから、うっかり髪を燃やしてしまわないように。サーヴァントが神秘を帯びないモノで傷つくことはないだろうけれど、これは彼から預かったライターだし。
煙が上りはじめて、巌窟王の目を見る。視線が合い、目は笑うみたいに細められた。彼が離れ、こちらもライターの蓋をパチンと閉じる。
星を見るように、巌窟王は息を吐く。白い煙がふわっと広がり、すぐに空気へとけていった。
「礼を言う」
「いーえ!」
ポーチにライターをしまい直す。はじめの頃より、だいぶ上手くなったんじゃないかと我ながら思う。一連の動作が手慣れてきた。
鼻をくすぐるこの匂いにも、慣れ親しんだと言っていいだろう。
「煙っぽいけど、ちょっと甘い匂いもするよね。普通のタバコじゃないからかな」
「シガレット、紙巻き煙草か」
「たぶんそう。もっと白くて細い、ロビンとかが吸ってるやつ、あれが日本でよく見てたタバコ」
今度は、魔術的にコンパクト収納されていた水筒とマグカップを引っ張り出す。あいにくテーブルはないから、座ったままで膝の間にマグを挟み、水筒の蓋をひねった。
トクトクトク、牛乳をそそぐ音が、夜にはやけにのどかに響く。
「詳しくないけど、この香りはキミのだなって感じ」
水筒をしまって、マグを焚火の上の網にのせた。あとは湯気が上るのを待つだけだ。
フ、と、耳慣れた笑いが鼓膜を揺らす。
「……香り、か」
見ると、巌窟王は静かに、葉巻へ視線を落としていた。
細く煙を上げながら、先が少しずつ白い灰になっていく。その灰が長くなって、自重に耐えきれず崩れた瞬間、青黒い炎が地面に届く前のそれを燃やし尽くした。燃えカスのひと欠片すら落ちることはなかった。
「なにか、考えてる?」
問いかけると、巌窟王は一度目を伏せ、葉巻を口にした。
「かつて。――自らを陥れた者共へ復讐する際、幾つもの名を、顔を、立場を用いた。姿を変え、立ち振る舞いを変え、言葉遣いを変えた」
息を潜め、彼の話の続きを待つ。
「身に染みついた香りは、姿を変えようとも隠し切れぬ。逆手に取れば、嗅覚を含めて誤認を仕掛けることもできた。だが、嗚呼」
クハ、と例の声をひとつ上げ、巌窟王はその身から青白い火花を散らした。
「この俺は巌窟王、飽くまで復讐の偶像として人理に刻まれた。俺が巌窟王で在るだけで、謂わば象徴たり得る。ならば他の名を騙ることも、姿を装うこともあるまいと、そう思ったまでのことだ」
瞬きをして、考える。アヴェンジャーとして現界した彼は、彼以外を演じる必要がない。別人にならなくてもいいということ、それは。
「つまり、気にせずタバコが吸えるってこと?」
「正解だ、マスター」
ニ、と彼が口角を上げたので、似たような表情を返す。むやみに嬉しくなって身を乗り出した。
「おいしいんだそれ、味って言っていいのかわかんないけど、どんなかんじなんだろう」
「興味を持ったか? 生者であるおまえには毒だぞ。ともすれば酒精よりもな」
「……いろんな人に怒られそうだね」
怒られるだけならともかく、泣かれることすらあるかもしれない。想像が簡単にできて、吸ってもいないのに罪悪感がわいてきた。彼はそんな自分を見て、さも愉快げに肩を揺らす。
「手を伸ばすのであれば、よォく覚悟することだ」
そうして、巌窟王はまた煙を口にする。ちょうどマグカップからも、白い湯気が漂いはじめた。
2022/08/20
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