目を閉じてしまうと、その顔はいっそう人畜無害の具現でしかなかった。瞳に意志を灯していたところでどのみちちっぽけな人間だけれど。
 ベッドの端に腰掛けた夜色の影が、自身の肩越しに寝顔を見下ろす。レイシフトすることもなくノウム・カルデアの中で貴重な一日を過ごせたマスターへ、子守唄の代わりに悪態を吐いていたのが二時間前。それから動かずここにいるのは、他にすることもないからだ。ブリテンの終末のために奔走していた彼の役目はもうおしまい。今は一介のサーヴァントだから、無駄な時間を無為に過ごしたっていい。
 オベロンはふと視線を宙にやると、座ったまま膝を伸ばして足首だけを交差させた。硬質な踵がリノリウムで気まぐれなリズムを奏でる。

「出てきなよ。気配を隠す気もないんだろ」

 ややあって、ドアのあたりで音もなく闇が濃さを増した。霊体化からの実体化ではなく、隠匿されていたモノが姿を現す。
 オベロンの黒が寒空の夜の暗がりならば、巌窟王の纏う色はまた別種のそれだった。帽子の下から覗く顔と髪の白さが、黒の深さを引き立てる。
 目の前の男を上から下まで眺め、オベロンは口元に弧を描いた。

「はじめまして。名乗りは必要かな? ああ君のほうからはいらないよ、シェイクスピア(クソヤロウ)どもの部屋に、何度か出入りしていたね」

 オベロンは一語ずつ、絵本を読み聞かせるような抑揚で語りかけた。にこやかな声に温度はない。

「作家先生と仲がいいだなんて、ずいぶん寛容な復讐鬼だなあ、感服しちゃうよ。心の広さはマスターに似たのかな? まあ俺も、別に物書き全員に毒を盛ってるわけじゃないけど」

 巌窟王の眉が、僅かに寄った。

「あまり口を開くな。眠りに障る」

 笑顔を引っ込め、オベロンは振り返る。数分前まで穏やかだった立香の表情が、今は苦しげなものに変わっていた。

「起こしてやったほうが親切なんじゃないか、これ」

 その言葉に、巌窟王は一瞬だけ目を伏せた。オベロンが向き直る前の、ほんの僅かな間だった。

「……それの精神は今、深淵から干渉を図られている」

「は? 攻撃されてるってこと? なんの前触れもなく、誰も対応できてないのに?」

「対応は行っている。マスターが……サーヴァントと共に、交戦中だ。今無理に現へ戻せば、侵入を許すことになり得る」

 巌窟王が口にしなかった何かをオベロンの眼は見たが、拾うことをしなかった。代わりに右手で、眠る立香の頬をつまむ。
 ぐにゃりとひねってかたちを変えても、寝息は夢に乱されたままそれ以上深さも荒さも変化しなかった。投げやりな舌打ちが部屋に響く。

「ふうん。せっかく自分のベッドで眠ってるのに、戦ってるんだ、コイツ」

「…………」

「構えるなよ、起こそうってんじゃないさ。このくらいで目が覚めるなら、大事な先輩が夢に囚われるたびあんなにマシュが気を揉まなくて済んでるだろうしね」

 パンをちぎるように、オベロンは頬を引っ張る。柔軟性の限界を迎え、指から逃れた肌の色が血色を濃くしていることを、巌窟王の瞳は見て取った。

「俺は誰かさんみたいなお人好しじゃないんだ。どうせ拒まれるとわかっていて、それでも押し付けるほどの情熱はない」

 人並みの幸せが好きなくせに、目の前の苦しみから逃げようとしない。英雄の器なんか持たないくせに、戦うと決めてしまえば意地を通す。面倒な人間であることは、妖精國での旅でとっくにわかりきっていた。
 終末装置は己の生で己の仕事を終えたのだ。今は一介の(マスターの)サーヴァントとして存在している。それだけのこと。
 オベロンはにっこり笑い、巌窟王へ手を振った。

「ということで、俺の見張りはいらないよ。君は構わず君の仕事をすればいい。傍観者でいるのは、慣れてるんだ」

 三秒オベロンを見つめ、巌窟王は帽子のつばを下げた。外套が広がり、青白いいくつかの光が伴って飛び回る。

「好きにしろ。傷をつける意図がないのなら、俺の関知するところではない」

 輪郭を霞ませ、黒は不定形の闇へ戻った。やはり声以外なんの音も立てずに。

「せいぜい明くる朝、気付いた立香からの文句を受け取れ」

 あ、今笑いやがったな、とオベロンは察する。それを最後に、巌窟王は気配ごと完全に姿を消した。

「──…………」

 嘲笑ではなかったし、厳密にはオベロンへ向けられたものでもなかった。顔をしかめたオベロンは、立香の腹へ背中から倒れ込む。物理的な問題で息が少し吐き出されたが、それだけだった。結果をわかった上でやったのに、実際こうまで反応がないと苛立つ。

「どうでもいいさ。起きたきみは間抜けヅラで、『ああオベロンずっといてくれたんだ、お疲れさま、ありがとう』なんて言うんだろう。今日この夜、俺はなんにもしてないのにね」

 頬の赤みなど朝には消えるだろう。身体を潰すこの重みは、なにかをあとに残すだろうか。立香が起きないことにはわからない。干渉とやらを振り切って、無事に朝を迎えないかぎりは。

「ハァ……おやすみって言ったんだから休めよ、バカじゃないの」

 つまらない天井を見るのも飽きて、オベロンは瞼を下ろす。普段の生活リズムであれば、起床まであと四時間弱。
 布団越しの体温と、聞こえる心音に吐き気がした。結局、彼にはいつものことなのだけど。

2022/01/26

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