カツン、と右足が恐らく小石を蹴り飛ばした。狭い洞窟の中で音は反響し、すぐに消える。
一歩後ろを歩く少年の、足音や呼吸に乱れはない。先の連戦で幾らか消耗したはずだが、疲弊をそれらで示さぬほどに、彼は成長したのだろう。
故に、外套の布地が引かれたのは、彼自身の休息のためではあるまいと直感した。
「ちょっと一回、止まろう」
「……──」
足を止め、振り返る。愛想のいい表情をしていない自覚はあったが、今更彼が怯むはずもなかった。
「……巌窟王、ひょっとして」
言うな、と念じたのは単なる見栄に過ぎなかった。己の使い魔の状態を察し、対処せんとすることはマスターとして申し分なく正しい。
短く深く、息を吸う音がした。
「今、目が見えてない?」
声音は確信のそれだった。無言を以て、返答とする。
洞窟の先に目的のモノはなく、進んで行くことは時間稼ぎでしかない。歩み続けていれば背を向けていられると思っていたが、認識が甘かった。
「弱体解除を使わないってことは、魔力が足りてないってことか」
問いではなく、事実確認。見えなくとも、あの青い瞳が意志の光を宿してこちらと向き合っているのが解った。
彼が己の能力を把握しているように、己も彼の切れるカードを知っている。解呪の可能な魔術礼装は限られていた。極地用に作られた礼装にその効果はない。必然、彼のとれる手段は。
「……令呪」
「それには及ばん。ここは暫しの安全地帯だ、少し待てば回復する。……俺のスキルは、おまえも知っているだろう」
「でも」
気遣い、心配。抑えていたのであろうそれらが滲み、声色が変わる。脳裏に浮かぶ彼の顔が、伴って仔犬のようなそれとなった。
「ハ」
笑うことで、続く言葉を遮った。
「俺を誰だと思っている。視界のきかぬ闇など久しいが、歩き方なら誰より心得ているさ」
元より、悟らせるつもりではなかったのだ。詭弁ではなく、目が使えずとも他の感覚で補う術を知っている。
万一己が現界を維持できなくなったとして、ノウム・カルデアからの一時召喚は有効である。切り札は温存させるべきだ。
「…………」
沈黙が肌を刺す。己と彼しか存在しない洞窟で、静寂はたやすく訪れる。
じり、と彼の靴底が地面を躙った。
「かがんでくれ、キス、するから」
肩に手が乗せられ、下へ押される。促されるまま抗えず──抗おうと思えず、その場へともに座り込んだ。やはりこうなるかという諦念に、吐息が塊となって溢れる。
「……敵襲もないこの状況、優先するべきはおまえの安寧だろうに」
「わかってるよ。だからこそだ」
時を待たずとも、魔力ならば補充できる。彼そのものをリソースとして扱うのなら。
己が飢えるか彼が枯渇するか、現状考えるまでもない。人間とサーヴァントに於ける魔力不足の感覚が同一か否かは知り得ないが、己は、動ける。であれば、彼に更なる負担を強いずとも。
「今は安全でも、ここを出たらまた戦闘になるかもしれない。キミのスキルで回復できてもそれじゃジリ貧だし」
顔の向きを合わせるように、頬へ手を添えられる。
「オレたちが無事に帰れるかどうかは、キミにかかってるんだからな」
複数形の一人称。込められた意志を、探るまでもない。
「……ああ」
言葉を探すことを止め、見えぬ目を閉じた。
柔らかな唇が、上から固い動きで押し付けられた。緊張の自覚はあったのだろう、一度、離れて、震える息が吐き出される。
思い切り良く滑り込んだ舌は、けれどそれだけに勢いを使い果たしたように動きを止めた。
だから、導いた。
「……っ」
絡めた舌を辿って、あちらへ侵入する。生きる人間の咥内の熱。反射的に噛むことを堪えた歯を、舌先でなぞって褒めてやる。顎から力が抜け、代わりに頬を包む手が震えていた。体液に含まれる魔力が、こちらの霊基に馴染んでいく。
ぷは、と息を吐き、彼が離れる。呼吸を整える間のあと、こつりと額が重ねられた。
「……ちゃんと受け取ろうとしてくれ、オレがこういうの下手なの、知ってるだろ」
拗ねた声は、己を絆すことにかけては極めて有効だった。魔術師としての技量を持たぬに等しい彼は、負い目と感じる態度を普段は密やかに隠している。それが表出され、ちらつかされるのは、信頼から来る甘えでもあり甘えの振りをした配慮でもあろう。彼のために、という理由でこちらの虚勢を崩す策。
「ハ、やはり誤魔化されてはくれないか」
「くれないです」
「……承知した、マスター。おまえの灯火を今一度喰らおう」
音と気配からあたりをつけ、こちらから顔を寄せる。一瞬息を呑んだ彼は、それでもやはり退かなかった。
唇を重ね、差し出される魔力を、今度こそ意図して吸い上げる。生かすために、彼の生命を削り取る。
せめてとばかり、彼の好むやり方で上顎を擽った。小さく跳ねるような震えが、奪われた故の寒気のせいか別のものかは判断がつかない。やわらかな熱を取り込み、黒き炎の糧としていく。
「う、っ」
力の抜けた身体が崩れかけ、引き寄せてやると素直に凭れた。肩へ預けられたぐたりとした重みが、彼の消耗を物語る。
目が合って、彼は強気に微笑んだ。
「任せたよ巌窟王、帰ろう、一緒に」
「……ああ。我が共犯者、藤丸立香」
彼の身体を支えたまま、立ち上がる。これより暫し、己は彼の足も担う。
「さながら一心同体、か」
発した笑いが、図らずも二つ重なって響いた。やや声の掠れたまま、彼は尚も口を開く。
「いまさらだ、それ」
2021/08/27
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