桟橋のふちに座り、靴を脱ぐ。空気に触れた足の裏が気持ちよかった。月の光をゆらゆらと反射する水面に、爪先をゆっくり浸す。
 今年の夏の特異点は港町から始まった。もっと探索を広げれば、やわらかな砂浜もあるのだろうか。今のところはコンクリートや岩、テトラポットと、海と陸の境目では硬いものばかりを目にしている。

「……また、一人か」

「巌窟王」
 
 振り返って、闇に浮かび上がる白さに、あれ、と思った。この特異点に来た時点で、彼はいつもの黒衣に身を包んでいたはずだ。けれど目の前の巌窟王は、いつかの夏と同じ涼しげな装いをしている。
 不思議に首を傾げたところで、『また』の意味に思い至った。懐かしさに頬がゆるむ。

「あったね、こんな夜。ルルハワで」

 人理を修復したあと、地球が漂白されてしまうより前の束の間を思い出す。束の間、と呼ぶにはかなりの回数ループを繰り返したけれど。
 脚を動かすと、冷たい水が微かに揺れかたを変えた。自分の親指が羨ましくなる。せっかくの海なのだ、機会があれば泳いで遊びたい。

「その霊衣に着替えたんだ。ナイチンゲールに見つかっちゃった?」

「彼女がこちらへ来ると決まったからだ。姿ひとつで『看護』を回避できるならば、先手を打つまでのこと」

「ふふ、そっか」

 レンズの向こうで、金色の目が頑なさを帯びるのが面白かった。ナイチンゲールが最優先するのは生者である自分やマシュなどの健康だから、他人ごとではないのだけど。
 腰を下ろした左側に並べた靴を、意味もなく揃え直す。夜更しはよくないから、もう少ししたら拠点に戻らなくては。

「……オレはね、わりと好きだよ」

 曖昧な応えだけもらっていた、あの夜の続きを口にする。ちゃぷん、と水を蹴ると雫が月にきらめいて、そして海の一部に還った。

「普通に家族とか友達と遊んだこともあるし、……旅の中で、何度か海を渡った。怖いこともあったし、痛いことも哀しいこともあったけど」

 数年越しの脈絡に、彼は戸惑うことなく耳を傾けてくれる。きっと覚えているだろうと、わかっていた。
 両手の指を組んで伸びをする。やわい夜風が、身体の余計な力をどこかへ持っていく。

「こうしてると、ただ綺麗だなって思うだけだけどね。でも波の音をボーッと聞いてると、普通に休むより倍速で休まる気がする、かな」

「休息の時を急ぐか? 任務の為か、ソレは」

「うーん、逆かも。倍速だから、そのぶんゆっくりできるんだよ。オレはそんなに真面目じゃないし」

 ざざん、と遠くで波が崩れる。彼はゆっくりと目を閉じ、開いた。月と同じ色をした瞳。

「なら、いい」

 短い音吐が、心臓までも揺らした。やさしいひとだ。きっと本人は否定するだろうから、口には出さず思うだけに留める。

「……一緒に座る?」

 ぽんぽん、と隣を叩く。微動だにしない彼を見上げると、視線が繋がる。来ると思ったわけでも、来ないだろうと思ったわけでもなかった。彼の気が向くほうを選んでほしくて。

「……この身に海は遠い」

 言葉だけなら拒絶に感じた。彼は水平線に目を向けて、何かを考えている。

「だが、そうか。おまえは旅のさなかに海へ訪れた」

 一歩。足が、こちらへ踏み出される。もう一歩、二歩と近付いて、彼が隣に立つ。
 続きを待っていると、見下ろす口元が笑みを描いた。長身が屈められ、誘ったところまで降りてくる。

「ならばこの俺は、おまえとともに在るだけだ」

「……うん」

 サンダルを履いたままの白い足が、海に触れる。好きとも嫌いとも言わないけれど、それは彼の答えだった。

「ありがとう」

 答えてくれて、か、居てくれて、か、自分でもわからない感謝を、そのまま伝える。たぶん両方で、それだけじゃない。

「礼など」

 要らぬ、とまで彼は言い切らなかった。こちらを見る月が細められ、それに笑い返す。
 戻らなくてはいけないから、あと数分だけこうしていよう。それからよく寝て、明日は、砂浜を見つけられるかもしれない。

2021/06/11

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