象牙の頬が紅く色づくのを、近頃目にする頻度が増えた。触れるとき、不意に視線が合うとき、彼は静かに高揚を顔に出す。
普段は健全そのものの雰囲気を放つ彼がそうして慕情に心染められるさまは、なかなかに見応えがある。
終わりの遠い旅の中で、今なお失われていない柔さの証明だ。この先も手放さずに在るべきもの。心を向ける対象が変わる、いつかの時が来ても。
分断された、と理解し、即座に実体化を解いた。
魔力のパス、また己とは異なる己の存在も手繰り、マスターたる彼を探す。特異点である街は一見平穏で、襲いかかってくる怪物のたぐいも気配がないことは幸いだった。
芝生の鮮やかな公園に辿り着き、感覚を確かめる。日のよく当たるベンチに近付きながら、ろくでもない予感が膨れ上がるのを自覚した。
ベンチの座面には、黒い塊が乗っていた。四人ほど座れるだろうそこの向かって左端に、艷やかな毛並みが伸びている。犬だった。
サーヴァントたる身で起こり得ない種類の頭痛を錯覚する。まさか、と思いながらエーテルで以て身体を構築させると、日光を遮られ影に入った獣の耳がひくり、と動いた。
「……マスター」
開いた瞼からつぶらな目が現れ、横たわっていた犬が起き上がる。顔の下半分が白い。
アウ、と犬は鳴いた。感情は読み取れないが、喜びの音でも威嚇の音でもないことは判ぜられた。
「おまえ、藤丸立香だな」
「アン!」
呼び掛けに、犬は──彼は間髪入れず応えた。直後、言語が使えぬのを思い出してか頭を上下にがくがくと振る。元気そうではあるが、だからと言って何が解決したわけでもなかった。
深く、重い溜め息を吐き出す。ハンガリーの貴族令嬢が常日頃、独特の呼称を彼に用いていたのは何の因果か。
「知性は保っているか。……念話はできるか。戦闘の際に使っているだろう、この距離であれば、常なら可能であるはずだ」
「クゥン……」
哀れっぽく彼は鳴く。姿勢よく座り直し、集中のためにか彼は目を閉じた。黒の中に二点だけ円く明るい眉の部分がひくりと動いている。
《巌窟王、オレです、きこえますか……》
脳に直接届いたのは、紛れもなく彼の声。酷く悄然としているが道理だろう。
今すぐに葉巻を咥えたくなった。犬という動物に、副流煙は悪影響を及ぼしただろうか。
「ああ、聴こえている」
《よかった……レイシフトして、到着したと思ったらオレ一人で、こうなってて……》
俯いた彼の後ろで、はたりと短い尾が揺れた。直接敵と遭遇した結果ではないとすると、この特異点が引き起こした変質の線が強いか。
もぞもぞと動き、彼はベンチの右側に寄った。下敷きにしていた黒い衣服が顕になる。
《礼装、着れなかったけど、一応持ってきたんだ。でも靴は置いてきちゃった。最初林の中で、とりあえずみんなのこと探そうと思ったから》
「……そうか」
動揺の中で彼が選んだ行動は、最善手と評してよいだろう。所々に毛の付着した衣服を広げると、通信用の機器が零れ出た。満点をやってもいい。
《こっちからの通信は試せてないけど、管制室側からの通信は来てない》
不慣れな犬の四肢ではそうだろう。機器を取り上げ、念の為にボタンを押す。ピ、と操作音はしたがそれだけだった。こちらは十二分に想定内の事象だ。
礼装を、中に重なった下着ごと畳む。彼は申し訳なさそうに鼻を鳴らした。
「……マスター、触れる許可を。寸法を知りたい」
《寸法?》
顔を上げて、きょとりと首を傾げるさまは人間であるときと何ら変わりなかった。いいよ、と深く問わぬまま許す信頼を、裏切らぬよう慎重に手を伸ばす。首の後ろ。背中をなぞり、身体の厚み、それから脚の間隔、太さ。黒い毛に残る日だまりの温度を、手袋越しの指先で薄らと感じる。彼はやや神妙な面持ちで採寸を受け入れていた。
概ね、把握した。己の保有スキルを応用し、魔力で以て目的のものを編む。黒い靄がかたちを取っていくのを、彼がじっと見上げてくる。
作り上げたリュックサック状のそれに、畳んだ礼装をしまい込んだ。
「非着用状態でどれだけの効果があるかは管轄外だが、おまえが携えているほうがよかろう」
《……すごい!》
きらりと輝いた瞳が、深いブルーブラックであることを知った。先程の比ではなく、黒い尾が左右にパタパタ動く。
上から被せるように背負わせて、留め具を胴の下で嵌めた。二箇所。
「違和感があれば言え。所詮即席の間に合わせだ」
《ありがとう、これ走りやすそう!》
動きやすさを表現したいのか、クルリと狭いベンチの上で彼は回る。硬質な爪の先が音を立てて木を掻いた。
ベンチから飛び降り、彼は全身で伸びをした。それからふと、視線を合わせてくる。
《……ひょっとして、キミ首輪も作れたりする? つけたほうがいいかな、街の皆さんの安心とかのために》
ワウアウ、と無意識でか口が動く。真っ直ぐな目で、けれど二つの声には躊躇いがあった。
「必要あるまい。ここに至るまで何頭か犬を見たが、リードのつけられた犬の比率はそう多くなかった。ともすれば、特異点の性質と関連があるやもしれん」
《よかった。流石にちょっと、ハードル高いよね》
安堵に顔を綻ばせたのだろう、頭頂の耳もリラックスするように後ろへ倒れた。
《探索しよう。ここがどんな特異点なのか知りたいし、あと他のみんなとも合流したい。変なもの見てたりしたら教えてくれ》
声音はもう、常の調子を取り戻していた。ああ、と応え、帽子を被り直す。ここへ着くまで市街地は通ってきたが、それだけだ。彼の捜索を最優先したため、取りこぼした情報がいくらでもあろう。
先ずは街へ戻る。彼の言った林の場所は見当がついていた。慣れぬ身で、礼装を運びながらよく一人でここまで来たものだ。
ベンチに背を向け、彼の歩調を見ながら公園の出口へと進む。と、ブロンドの髪をふわりと広げて幼児が駆けてきた。
「わー、わんちゃんだー」
敵性体、ではない。あどけない造形をした薔薇色の靴が歩みを止めると、目線の高さが彼と同程度であるのが見て取れた。後ろから、父親らしき男が慌てた様子でこちらへ来ようとしている。
大きな目を輝かせ、幼児はこちらを見上げた。
「なでていい?」
「……彼に訊け」
《えっ》
彼がこちらを振り仰ぐ。目を合わせると、逡巡しながら彼女へ向き直った。追いついてきた男が、恐縮するように片手を上げた。バックスタイルに整えられた髪は、幼児のそれと同じ色をしていた。
彼と幼児が、じっと見つめ合う。
「わんちゃん、なでてもいいですか?」
ぱちり、瞬きののち、彼は頭を差し出した。幼い手を受け入れるように耳の間が広がる。
「アウ」
鳴き声は、どうぞ、と聞こえた。カルデアで子供の英霊を相手にするときのような、やわらかい音で。
小さな手は、黒い額を毛並みにそって撫ぜた。首の後ろを梳かすように何度も下り、胸元の白い部分にも指を埋める。彼女は真顔だった。彼は何も言わず、その場で居住まいを正すように足踏みをした。
「ありがとー」
最後に改めて頭を撫で、満足したのか幼児はまたいずこへか走っていった。横をすり抜けられた父親らしき男は、目を見開いてこちらと彼女とを交互に見る。
「オリビア、オリビア! パパを置いていかないでくれ!」
幼児を追い、男も離れていった。当人の苦労はともあれ、長閑な光景ではある。復讐の具現たるこの身に、微笑ましさを感じる情緒の持ち合わせはないが。
《元気だなあ、お父さん大変そうだね》
彼の念話にも笑いのニュアンスが混ざっていた。そうだな、とだけ返す。公園のずっと奥まで遠ざかり、親子はやがて小さな丘の向こう側へ去っていった。
《……あの》
背を見送り、遠くを見遣ったまま、彼はこちらの脚へ寄り添った。感じる体温が、常より高い。
「何だ」
《……キミも、撫でても、いいよ》
立っていた耳がぎこちなく動き、額が広くなる。こちらを見ないまま、まるで手を呼ぶように。
そよ風が吹き、芝の葉が擦れ合ってサラサラと鳴った。
「生憎、おまえを愛玩対象として扱う気はないが」
《ん、そっか、そうだよね》
ワウワウ、と照れたように曖昧な音が牙の間から漏れた。四本の脚で立ち上がり、彼は歩き始める。
その、前を向いた耳の間へ手を置き、左右に動かした。ぴたりと彼は静止する。
「……撫でられたかったのはおまえだろ」
数秒ののち、キュウン、と彼は言葉もなく鳴く。毛に覆われた肌の色が見えぬことを、少し惜しいと思った。
2021/05/19
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