レバーを押し上げ、ウインカーを点滅させる。赤信号に合わせ減速。窓の外で流れていた景色が、早送りをやめていく。
音質の悪い童謡が長閑な響きで歩行者を促す。両の手をそれぞれ左右の大人と繋いだ幼子が、必要以上に足を高く上げて横断歩道を渡った。
「そういえばさ」
助手席の少女が声を上げる。ブレーキから足を離す寸前の刹那、横顔をちらりと見遣った。
「左ハンドルじゃないんだね、車」
興味深げに内装を見回す瞳は、仔猫じみた好奇心で煌めいている。この数日で、もう幾度もそこに座っているだろうに。
ああ、と相槌を打ち、左折。南中した日を浴びる街の中で、それでも信号機の光は存在感を失わない。
「左ハンドルが好みだったか」
「いや別に、カッコいいなとは思うけど。きっと似合うし」
格好良い、似合う、と。復讐者へ向ける賛辞としてはあまりにも素朴なそれに、笑いがこみ上げる。
足を用意するとき、輸入車も視野に入り、除外した。少女を乗せて日本の道を走るのであれば、彼女が慣れた様式のものがよかろうと。
「この車もカッコいいと思うよ。様になってる。だから気付かなかった、キミそういえば左文化の人じゃんって」
「生憎と、自動車に乗ったのはこの特異点が初体験だが」
「そっか、馬車とかの時代の人かあ」
少女はもっともらしい顔で頷いた。視界の左で癖毛が揺れる。
ステアリングを操る感覚に、想起されるのは船の操舵だ。似ているか、といえば、似ていない。潮風の中で波を読みながら舵を取ることと、空調が快適に保つ車内で他の車の動きを読みながらペダルを踏み、ハンドルを回すこと。海から遠く離れてこその、己だ。
はっ、と隣で息を呑む音がした。
「えっ、免許は?」
「サーヴァントが運転免許を取得できると?」
「はわわ、無免許……」
折よく、次の信号待ちは交番の目の前だった。気付いた少女はぎくりと固まり、落ち着かない様子で胸の前のシートベルトを握り締める。技能への不安より、道徳的懸念が先行するらしい。
ならば。
「グローブボックスを開けてみろ」
「グロ、なんて?」
「おまえの座る目の前だ」
きょとりと目を丸くした彼女は、ボックスの取っ手を三秒見つめてから手前に引いた。カチリと音がして、偽造免許証や車検証の入った扉が開く。
「命令を仰せつかった以上手抜かりはない。暗示の術式も仕込んである」
「すごーい、スパイ映画みたい!」
途端に弾んだ声は、背徳感を置き去りにしていた。手のひらに収まるようなカード一つで、こんなにも表情が変わる。
免許証の表裏を何度も眺め、少女は脚を機嫌よくぶらつかせた。かと思えばつま先が壁を蹴りそうにでもなったのか、慌てたふうに姿勢を正す。
「こないだやたらキャスター陣がテンション高かったのこれかー!」
「…………」
仕事を頼んだ相手は魔術にも現代の文化にも詳しい者で、その彼は受け渡しの際、若干の消耗と高揚を見せていた。作家連中や義妹に絡まれたのだろう、と当たりをつけてはいたが、知らぬところで愉快な騒ぎがあったらしい。
満足したのか免許証をボックスに戻し、扉を閉めたあと、彼女は再び車内を見回した。
「随分と愉しげだな」
「うん。詳しくないけど、車は好きだよ。メカみたいでカッコいい、みたいっていうかメカだけど」
ボタンとかいっぱいあるし、とナビゲーションの下を人差し指がなぞった。ボタンの多寡。斬新な感性だ。
運転してみるか、と問おうか思考し、やめた。今なお飲酒を固辞するように、世界を取り戻すまで、彼女はそれを己に許すまい。
「……変形機能は不要と断ったが、次回は搭載させたほうがいいか?」
「誰に吹き込まれたかによって安全面の信頼度がだいぶ変わるなあ!」
2021/05/09
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