「これは」
「うん?」
端末から顔を上げて見遣った先、巌窟王の手の中できらりと光を反射した黒い小瓶は、マイルームの戸棚の中でもはやインテリアと化していたものだった。毎日視界に入っていたはずなのに、発掘された、という気分になる。
あー、と半目になりながら、ひとつ仕事を終えたタブレットの画面をオフにした。
「それホームズのだ。前に預かってくれって言われて、ずっと置きっぱなしになってたやつ」
微妙な表情で視線を合わせてきた彼に、すこし笑いたくなる。あれを渡されたときの自分も、たぶん似たような顔をしていた。
「ろくでもない気配がするな」
「ひょっとしてヤクかなと思ってはいたんだけど、やっぱり? 怖くて開けたことないんだ、別に蓋が外れても危ないものじゃないらしいけど、あっ」
きゅぽ、と止める間もなく栓が抜かれ、巌窟王は中身を軽く覗き込んだ。ここからは見えないし、何の匂いもしないけれど、妙に緊張してしまう。
「……純度が高い」
「えっすごい、よくわかるな」
反射的な感想に巌窟王の目が泳いだ気がして、おや、と思った。そんなふうに狼狽をちらつかせるのは、ほんとうに珍しい。
栓をはめ込み直して、彼はそれを手の中で転がした。あの中身が粉状なのか、液状なのか、ジェル状なのかも自分にはわからない。名探偵が持っていたということは英霊に効くものなのだろうけれど、それっていっそ呪物ですらあるのではないだろうか。
「興味があるのか」
まばたきを知らないような金色に、ひた、と見据えられる。
彼に、ではなく、これは薬についてだろう。話を逸らされた気がしなくもないが、別に食い下がりたいわけでもない。
「えっと、……使いたいとは思わないけど」
「だろうな」
答えを正しく予測していた様子に、首を傾げる。音もなく、小瓶は棚へ戻された。もしかしたら持ち主にも忘れられているのかもしれない、折を見て返さなければ。
「おまえが薬に溺れるとは思わんが――……」
歩み寄ってきた巌窟王にちょいちょい、と人差し指で呼ばれ、身を乗り出す。長身が屈められ、理解する間もなく視界が彼で占拠されていく。
やわらかく合わせられた唇が心臓まで揺らし、反射的に目を閉じた。
「溺れるならば、せめてこちらにしておけ」
解かれたキスを辿るように瞼を上げると、まだ鼻先が触れそうなほどの距離に彼がいた。近すぎて焦点がうまく合わない。表情筋が、変に固まって頬が痛む。
「そ、ういう、冗談、言うんだな……」
体温が急に上がった気がして、制服の襟元をパタパタ動かす。きれいな、そしてすこし怖い笑みだけで応えた彼の顔がまた近付いてきて、このあとなにが起きるのかを察した。
口の中に、相手の舌が埋まり込んでくる。耐えられなくて目を伏せた。鼓動が、うるさい。
くん、と仔犬の甘えるような、追い詰められて泣くような声が上がる。
「ん、んう」
「そう、声にしろ。悦楽の逃げ道を作っておけ──でないと、ひどいことになる」
「うあ、ひ、ひや」
ひどいくらいのことをする気か、と、おもっても唇が追いつかない。脇腹は弱いのだ、首と肩の境目もだめだし、触れるか触れないかの指先がたどる臍の下も。
ぞくぞくとくすぐったくて、逸らした腰を手が追い掛けてくる。
「そ、れだめだ、だめだってば」
「なぜ?」
「くすぐったい、んんっ、ちょっと」
触られるのは喜ばしいけれど、触りかたが、いや、最初のころとなにか変わったわけではないのだけども。とにかくこそばゆくて、身体の内側からぞわぞわと、変な気分になってくる。
変な気分、もなにも、そういうことをしているのだけれど。
「『だめ』なのは節度を保とうとしているからだろう。ただ浸れ、その感覚に集中しろ」
「……ん、うあ、っは」
無茶を言う。けれど逆らいたいわけではなくて、三秒迷ったあとに目の前の首へ腕を回した。早いうちにシャツを脱いでしまったのは気恥ずかしかったけれど、一度脱いだということはもう脱がなくて大丈夫だということで、だから後は好きにくっついていられる。これはいいかもしれない。すぐそこにある肌に、落ち着いて、どきどきもする。
抱え込んで、すこしだけ擦り寄って甘えてみる。ひどく癖のある白髪に鼻先を埋めて、臍から上へ辿るように滑る指先を受け入れた。そんなところさっき自分で洗ったときだって、メディカルチェックで触られたってなんともないのに。
「あう、……っふ」
くすぐったい。くすぐったい、だけではなくて、吐き出す息にまた音が乗る。鎖骨のあたりを甘噛みされて、不意打ちの感覚を頭で理解する前に、大きな手のひらが下着の中に入り込み、直接的な場所をゆるく刺激した。
「うぁ、ふ、っあ、ん」
こういうことを彼とするようになる前は、声なんて簡単に殺せたのに。
猫は人間と暮らすとよく鳴くようになる、という知識を、思い出したくもないタイミングで思い出した。聞かせたいなんて全然思っていない。こんな、覚束ないこどもみたいな。
からかわないでくれるのが唯一の救いだ。ぽろぽろ声がこぼれていく。軽く立てた両膝が引きつる。彼の手は、気持ちいいところを熟知していた。たぶん、確実に自分より。
「ひえ」
抱き込んでいた頭に肌を舐められて、あわてて腕をほどいた。顔を上げた巌窟王は、雫を払う獣のように軽く首を振った。乱してしまっていた髪が、それでざっくりと元のさまに戻る。
長い睫毛の生え揃った瞼を見ていると、伏せられていたそれが、スローモーションのように開いていった。
何分かぶりに目が合って、どきりとする。
「……」
ふ、と、視線を合わせたまま巌窟王は息を抜くように笑った。釘付けになって、こちらに伸びてきた手すら目で追えないでいると、喉仏のあたりを指先でつつかれて自分が呼吸を止めていたことに気が付く。素直に吐いて、吸うと、褒めるようにキスを贈られた。
「……ん、脱ぐ、よ」
唇を重ねている合間にやってしまったほうが、見られている感じがしなくて楽だと思い付いた。応えるようにちゅ、と音が鳴る。意図を察してくれているのか、短いキスとキスの間も、彼の顔は吐息を感じる距離より離れてはいかなかった。
シャワーから出てこうなるまでの、少しのあいだだけそこを隠すために穿いていたズボンと下着に、親指を引っ掛ける。ずらしていって、腰骨を越えて、すぐそこにある身体にぶつからないよう慎重に片膝ずつ、まず右の脚から曲げて、左も。唇が離れるときに泡が潰れるような音がして、気を取られて何度も手が止まる。
脱いだものは足元へ投げて、やっと自由になった手で彼の背中へ触れる。鼻先へのキスはきっとご褒美だった。
「ん、……」
またこちらのものを刺激してきた手は、いつのまにかぐちゃぐちゃになっていた。気持ちよさと緊張とで、身体がゆるんだり強張ったり忙しい。
やがてその指は下へ降り、奥まったところに粘度のある液体を塗り付けた。身体を内側から殴るように、鼓動がうるさい。
「ふ、っあう、あ」
入り込んできた指が、一番だめなところに近付く。心臓が爆発してしまうんじゃないかと思った。
「ま、まって」
「ン?」
あやすように、こめかみへくちづけられる。それでもちゃんと待ってくれることに安堵して、肩の力が半分ほど抜けた。
「そこは、いい、触らなくて、いいから」
「……なぜ?」
理由を問われてしまった。答える準備ができていなかったから、追い詰められた心地になる。
半端に埋まったままの指に、意識が勝手に集中しそうになる。第二関節、くらい。呼吸と、身じろぎの度に微かな刺激を生んでしまって下唇を噛んだ。
「最近、なんかすごい、いいんだ、変で、こわいくらい、でも」
「でも?」
「そんなに、気持ちよくなくていいから。ほどほどで……ほどほどで、お願いしたい」
あんな快楽は予想外だった。
言い訳をしたい気持ちがずっとある。これがほしかったわけではない。あんな、あれほどまで、気持ちよくなりたいと思っていたわけでは、べつに。
「ああ、おまえの本題は──そうだな」
触れたくて、触れてほしくて、それだけでよかった。そりゃあどうせなら気持ちいいのがいいとは思うけれど、めちゃくちゃになってしまいそうなほどよくなくていい。そこまで好奇心旺盛ではないし、自分にはまだ早い、という気もする。
あの強い感覚を、厭うほど潔癖ではないけれど、望むほど貪欲と思われるのは心外だ、というか。
頷く彼には伝わったのだろうか。半分ぼうっとした頭では、うまく表情を読み切れないけれど。
じっとしていた指が、一度ぐるりと縁を伸ばす。それだけでも息が上がって、目を開けていられなくなった。視覚を放棄したせいで意識が否応なく触覚に向いてしまう。
抜けてしまうぎりぎりまで出ていった指が、別の指も連れて帰ってくる。器用に別の動きをする、その片方に、そっと、そこを、撫でられた。
「あぇ、ア、……まっ、……ふ、ッ……!」
なんで。
見開いた目に映る彼の顔は穏やかで、意地悪やいたずらをしてやろうという表情ではない。ないのに。
腕を掴んでも止まらなかった。そこが一気に温度を上げて、切羽詰まった感じが背筋を通って額にまで届く。
「存分に好くなれ、俺にはそれも本題だ」
ひくん、ひくん、と身体が跳ねる。指はあくまでやさしく、同じところをゆるゆると撫ぜて、震わせる。おかしな声が喉から出た。聞かせたくない。
「あ、んっ、ぐ、……ふ、んん……っ」
「無理に抑えるな、……こら、立香」
「む、ぁ、えあぁ」
親指がやさしい無遠慮さで唇を押し開いて、息がしやすくなる。こら、って。こんなときに限って、そんな口調を使うのは、ずるい。ずるいと、思う思考も端から輪郭をあいまいにしていく。
きもちいい、と思うのが怖い。癖になりたくない。
「やだあ、あ、とけて、……とびそう、だめだ、ぁ」
「ベッドの上だ、それでいい」
「へんだ、っん、へん、あぁ、あたま、なに」
ふわふわして、なのに感覚は強くて、混乱する。瞼へ降った宥めるキスに、やめてくれるつもりはないんだな、と悟らされてしまった。張っていた糸がふつりと切られたように、力が抜ける。
もう、いいや、と、諦めに似た気持ちになった。触れてくれるのが彼の手なら、どうなったっていい。したいことをしたいようにしてくれているのなら、もうなんでも。
「おまえの身体が、これらを覚えてきたのだろうよ。恐らく以前のアレは精神が感じた快と、緊張による過敏とが結びついていたに過ぎん」
「いまっ、ややこしいこと、いうな、ぁ、っ」
「ああ、目が回るか? 身を任せろ、悪いようにはしない」
ああでも信じられない。信じられない。前までの、嬉しさからじんわり広がるような気持ちよさじゃなくて、ほんとうに触れられたところが気持ちいい。もはや気持ちいいだなんて呑気なことを言ってられないくらい、いっそ苦しくて、逃げたくて、逃げられない。
心の、壁みたいなものが崩れて砕けて、ちゃんとしていられなくなる、繕っていられなくなる。巌窟王がそこにいて、触ってくれて、頭がぐちゃぐちゃになるくらいに、そう、これは目が回るのと似ている。
とけそうで、だめだ。まだ繋がっていないのに。ぐずぐずの熟れきった果物とか、とろとろのアイスとか、そういうものとおんなじになってしまっている。
「あー……、っん、う、うう、っ……」
息じゃなく、胸が苦しくて、しゃくり上げる。嫌ではないし、悲しくもないのに、わけのわからない感覚で涙が滲んできた。こどもみたいに泣きわめきたい。やめてほしくはないけれど、つらい。
指が一番弱いところから離れていって、けれどもう内側はどこに触れられてもぜんぶぞくぞくした。ゆっくりと抜かれて、その感覚にも嗚咽が漏れる。
あ、来るんだ、と理解して、どんな顔をすればいいかわからなくなった。
すぐそこにあった顎へキスをする。大丈夫だ、と、合図を示したつもりだった。
片手で腰を掴まれて、もう片方の手で頬を撫でられる。目を閉じてその手に懐くと、遊ぶように耳朶をつままれ、揉まれ、引っ張られて、振り払うために首を振った。これ以上変なことを覚え込ませないでほしい。
瞼を上げると、睫毛に引っ掛かっていたらしい涙の粒がきらきらと光る。光って、視界の中心にいる彼が一層、なんというか、綺麗に見えてしまう。顔で好きになったわけではないけれど、職人が丹念に作り上げた人形のような顔をしているのだ、この男は。
「……巌窟王」
「ああ」
ごくり、と唾液を飲み込んだ喉が鳴った。背中に回していた腕を一度ほどいて、首元に抱き着いて、震える。自分が怯えているのか、期待しているのか、覚悟しているのか、わからないのがすこし怖い。
熱いそれが触れて、心臓が呼吸を邪魔するほどに跳ねた。
「……んあ、っ、あ、あ……」
入ってくる。縁を広げて、粘膜を擦って、腹の中が、いっぱいになっていく。
「少し、苦しいか」
「うぁ……」
首を振る。わからない。感覚が強すぎて、どれがどういう名前のそれであったか区別がつかない。労るようにこめかみへ口づけられて、またどうしようもなく泣きたくなる。
「立香」
「──ん、うん」
頷いて、息を整えようとする。吸う胸が引きつり、吐くときには変な声が出た。呼吸のせいで内臓が動いて、中が震えてしまう。どうしようもない。
「……馴染んだな」
「な、じんでない……」
「感覚に慣れていないだけだ。褒めてやれ、おまえの身体はよくよく俺を呑んでいる。待ってもいいが、この夜のおまえが今以上に落ち着くことはないだろうさ」
「うええん……」
確かに、突っ張った感じはしないし、やぶけてしまいそうでもないけれど。すん、と鼻を鳴らすと、耳元で笑う声がした。
観念して、白い髪を一束引く。はじめは抜けていくだろうと身構えたのに、ぐ、とむしろ奥まで押し込まれた。
「んあ、あ、くぅ」
足の指がシーツを掻く。彼が上体を持ち上げて、顔が見えるようになる。視線を合わせて、どちらからともなくキスをした。頭がまた、ふわふわになってくる。
首の後ろ、髪の生え際あたりを指先で混ぜられる。背中が勝手に反って、キスがほどけてしまった。内側から腹を押され、また喘ぐ。
「あぁ、あ、そこ、また」
「好くなれと、言っただろ」
「ぁう……」
視界がちかちかして、目を閉じると右の瞼に唇が降りた。とけてしまう。ぞわぞわする。そこで揺らさないで。きもちいい。またキスをされた。やわらかい。落ち着く。脇腹から胸を手が撫でる。胸の先を弾かれて、そんなのすらきもちよくなる。抜けていこうとして、背筋が跳ねて腹筋が引きつって、だめなところをぶつけるようにまた入ってくる。
「好いか」
「え、は、っいい、?」
目を開いて、見上げる。吐き出す息が湿りきっている。見下ろしてくる男の目は、こんなときでも曇りのない黄金だ。
「……うあ、……ん、いいよ、すきにして、いい」
なにをされても大丈夫だ、他でもない彼になら。
巌窟王の手は、どこに触れるにもやさしかった。苦しいくらいの性感を与えてくるときでさえ。それを愛と呼ぶほど無神経ではないれど、今この時間、すべてを預けてもいいと信じられる。
唇が、慎重に降ってくる。重なる直前でまた目を閉じた。ふに、とやわらかく、少しだけ冷たい。
「あ、きす、うれしい」
「……そうか」
「すきだ、すき、ぇぁ、んう、がん、くつお」
感情が溶け出るみたいに涙が出るのに、こぼしてもこぼしても一向に嵩の減る様子がない。ぜんぜん、頭の余白がつくれなくて、なにも、わからなくなってくる。
「嗚呼、やはりおまえは、これにとて耽溺はしまいよ」
「ん、なに、いった、あう、ぅ……」
「戯言だ、聞き流せ」
「っ、ずるい」
もう一度、唇が重なり、今度はすこし斜めに食まれ、開いた隙間から口づけが深くなる。自分の舌では絶対に触れられないところを舐められて、もう抜ける力もなかった。指がまともに動かなかったから、絡まろうとする舌を吸うことでぎゅっと抱き寄せる代わりにする。
すごくだめな感じがする。下腹部の、変なところに刺激が響いて、疼いて、もどかしくって身体をよじる。上顎をなぞられてしゃくり上げた。そのまま舌が出て行って、口でも息ができるようになる。
解放してほしくて、けれど頭も口も回らなくて、鎖骨のあたりに額を擦り付ける。わかってくれた手が腹を撫で、それから根本を辿り、逆手にぜんぶを包んで擦り上げた。望んだことなのに刺激がひどくて、前も後ろもそれぞれだめで、腰が勝手に逃げようとする。
「っ、─────……」
飽和して、弾けて、真っ白になる。ジェットコースターで落下するのに似ていて、けれど一瞬のはずの浮遊感が、終わらない。
どうなっているのかわからなくて、けれど中にはまだ彼がいて、動いていないけれど震えて、腹が熱くて、神経に直接触れられているように、ひどい。
身体のあちこちが跳ねていた。電気でも流されているみたいな不随意が、すこし怖くて、怖い、と思った冷静な思考が、だんだん薄く広がって、背を撫でる彼の手に気が付く。
「あ、あ」
「ン」
「……あ、ぁめ、あえ、あ、こぇ」
だめだこれ、落ちる。
言おうとした声は出そうとした音にならなくて、なんとか伝えようとしているうちにさらに意識が遠くなる。
置いていくみたいになってしまうし、心配させたら悪いな、と思いながらも、こちらを見遣る金色も瞼の裏の黒に消えた。
2020/07/19
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