開けていられなかったらしい瞼が瞳を隠し、こちらの背に回った指は、縋りどころを求めるように皮膚の上を探った。

「は、……あう、うう……」

 辿々しい喘ぎに苦鳴の色がないことを確かめ、口づけを落とす。感じる鼓動が一度跳ね、以後のリズムが速度を増す。
 鼓膜へ吹き込むように名を呼ぶと、ぱっ、と彼は弾かれたように瞠目した。

「ごめん」

「ン?」

「ごめ、背中」

 背中、とは。
 指先が脊椎を、労るように撫ぜる。その仕草と表情、また状況から、彼の言わんとするところを悟った。
 気にする必要はない、と言えば、食い下がってくるだろうことを理解していた。ゆえに。

「大丈夫だ」

 この言葉を選んで差し出す。見上げてくる青はしばし迷うように揺れたが、やがて小さく頷いた。



 そして。
 気怠さからある程度回復した彼は、後ろを向けと請うてきた。逆らう道理も、拒む動機も持ち合わせていなかったので、肌を晒したまま、好きに見分させている。

「……なんもないね」

「何も?」

「いや、ごめん。元々すごい傷だらけだけど、オレがつけちゃった痕はない」

 ぺたぺたと、手のひらが吸い付き、離れる。確認し、安堵し、それでも触れることをやめないのは、彼も楽しんでいるからなのだろう。

「大丈夫だと、言ったろう?」

 けれどその触れ方は、恋しい者に伸ばした手、というよりも、甘える子供のやり口が近い。色事を知って尚、他意なくそうしてスキンシップを好む。見縊るつもりはないがやはり未だ『少年』である、からか、あるいはこれこそ彼の性質か。

「この身はサーヴァント、エーテルにて編まれた仮染の肉。神秘を帯びた刃でなければ綻びひとつ付くこともない」

「……そういえば」

「ク、悦楽で前後を失いそれすらも忘れていたか? 悪くない。好きなだけ忘我し爪を立てろ、どのみち抉れることはないのだ」

 ぺち、という覇気のない音が、咎めるようにひとつ鳴った。顔が見えないことを惜しく思う。頬はさぞかし熱を持ち、口元は声にできない羞恥で曖昧に開閉しているだろう。
 ややあって、肩甲骨のあいだを、やわらかな癖毛がくすぐった。

「──そういう問題じゃないだろ。いやだよ、傷にならないからって」

「…………」

 声音は拗ねたそれだった。冗談を口にしたつもりはなかったが、この反応を予想していなかったかと言えば、嘘になる。
 体重のほんの一部を預けられ、押し返すように重心をずらした。緩やかな呼吸の気配。汗を流した身体を、冷やしてしまわぬ空調の温度。
 後に何も残らないとしても、与えることに躊躇しない人間だ。痕が何も残らずとも、望んで牙を突き立てようとはすまい。

「でもまあ、痛くなかったなら、よかった」

 半分くぐもった声に、心臓がざわめく。視界に入った己の腕はどこもかしこも傷痕が巻き付いている。彼は、これを厭わない。己を救いやしないのと同じに。

「……満足したか」

「あ、うん。ありがとう、もういいよ」

「そうか。ならば」

 振り向きながら、少年の身体をベッドへ倒す。ぽふ、と間の抜けた音を立ててマットレスへ沈んだ彼の丸い目を見つめながら、額へキスを贈る。

「な、なに」

「礼だ」

「……なんの?」

「さてな」

 小鳥の羽ばたきのように素早く瞬いて、それでも彼の瞳から、浮かんだ疑問符は消えなかった。

「そら、そのまま休息を全うするか、夜のうちに再度シャワーを浴びるか、それとも肌を重ねて夜を更かすか。欲するままに選ぶがいい」

「畳み掛けてくるなあ! ちょっと待ってくれよ、今忙しいんだから」

「ほう。何にかかずらっていると?」

 彼は答えず、今しがたの感触を辿るように、そっと自らの額に触れた。きゅ、と唇が強く引き結ばれる。
 不届き者の従僕に転がされた身体を起こし、少年は靴へ両足を突っ込んだ。

「……シャワー浴びてくるから、その後もう一回してほしい。口、に」

 吹けば飛びそうな声で告げ、彼は足早にバスルームへと逃げた。パタン、と扉が閉まり、込み上げた笑いを堪えることを放棄する。
 魔力を編み直し、シャツとベストを身に纏う。葉巻を取り出そうとして、思い至り、止めた。
 彼という人間を、己に刻もうと思う。己という英霊に、存在に。たとえ誰もが彼を知らずとも、たとえ世界が彼を忘れても。己であれば、きっとそれが叶う。
 無機質なはずの白い部屋。生活感ともまた異なる、彼の気配。僅かにきこえるシャワーの音。壁に埋め込まれたデジタル時計が、一秒ごとに進んだ時を報せている。

2020/06/07





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