「なぜ」
途方に暮れたような声に、ぐっ、と気道を塞がれる。罪悪感で、指先までが痺れるように痛んだ。
「……なんでだろうな」
崩してしまった笑顔をもう一度作ろうとして、失敗する。こんなんじゃダメだ、もっと軽く、自分の中では済んだことみたいに、茶化して言えたらよかったのに。
目を逸らしたいわけじゃないのに、視線が落ちていくのを、止めることができなかった。右の親指にささくれが出来かけている、と、弱い自分が関係ないことを考えて冷静さを保とうとする。
「好きになろうと思ってたわけじゃなかった。好きになっていいって、思ってたわけでもなかった。でも、気付いたら、どうしようもなくなってて」
「──違う」
唇を噛んで、胸の痛みに耐える。手の甲に食い込んだ指先がずれて、令呪の横にへこんだ爪跡が残った。
自分で幾度も触れたはずの傷でも、他者に指摘されてしまうとダメだった。それが他ならない、彼からであれば殊更に。
──いやだ。叶えることなんか望まないけれど、誤解されるのは、嫌だ。
コツ、と踏み出された革靴の音を、振り払いたくて顔を振る。
「自分でも違うって思った。ただの親愛だって、あんまり信頼してるから、その好きと取り違えてるだけだって。でも、ダメだった。……ダメだったんだよ」
だんだんと、駄々をこねるような声音になってしまい、口を閉じたところで遅かった。こんなもの、彼にぶつけていいものじゃないのに。
ほんとうに。
どうして普通の好き、だけでいられなかったのだろう。浅くなろうとする呼吸を繋げて、無理矢理ゆっくりと吐き、吸う。強く握りすぎた手は強張って、解き方を思い出せなかった。眼球が熱い。泣くものか、と、自分の靴の爪先を睨みつける。勝手に好きになっておいて。
「勘違いするな、……少し、黙れ」
ひゅう、と呑み込んだ空気が、喉を鋭く冷やした。
強く結んだ唇は乾ききっていた。身体が、鼓動のせいで震えるのが鬱陶しい。腿に乗せた肘を支えにして、組み合わせたままの両手に眉間を押し付けた。細く、長く息を吸って、冷たい空気を身体に入れる。
目を閉じて、瞼の裏の暗がりで自分を落ち着ける。彼が、嫌な思いをしていませんようにと、それだけを願った。
「なぜ」
なぜ、そんな顔で謝罪を口にする。
問おうとすると、真新しい傷に爪を立てられたように彼の顔が歪んだ。否──己が、歪めたのか。
思慕を告げられた。そうか、と、こぼれた水が地面に染み込むような自然さで理解した。この三月に幾度も見た、僅かな身体の強張りやぎこちない呼吸、それらすべてが意味を伴って脳裡を過り、着地した。
だが、彼の目はまだ晴れてくれない。
敵が在るのなら焼き尽くそう。遮る壁が在るのなら打ち砕こう。けれどこの安息の部屋には、己と彼以外存在しない。
「……なんでだろうな」
再び笑みを浮べようとして崩れた、その表情に言葉を失う。彼が顔を伏せても尚、それは仮初の網膜に残り続けた。
「好きになろうと思ってたわけじゃなかった。好きになっていいって、思ってたわけでもなかった。でも、気付いたら、どうしようもなくなってて」
どこか寂しげに発される科白に、己の言葉が、意図していないかたちで受け取られたことを悟った。
「──違う」
一歩、歩み寄る。次の足を踏み出そうとするが早いか、彼は拒むようにかぶりを振った。
「自分でも違うって思った。ただの親愛だって、あんまり信頼してるから、その好きと取り違えてるだけだって。でも、ダメだった」
抑えられていた音吐は、次第に感情を滲ませていった。まただ。また、掛け違えた釦に気付かぬまま一人苦しんでいる。
否、漸く表出してきたのが、これか。
「……ダメだったんだよ」
ひしゃげた声が、心臓を深く刺した。
「──……」
繰り返される拙い深呼吸。祈るように組まれた指の先は、圧迫によりそこだけ白い。
駄目だ。
俯いていてくれるな。一人、暗がりに身を浸してくれるな。
「勘違いするな、……少し、黙れ」
喘鳴にも似た音が一つだけ響き、彼は口を閉じた。裁きを待つ罪人のような従順さで。
葉巻が欲しい、とどこにも伸ばせぬ拳を握る。常より小さく見える少年の背がどうにも遠い。舌打ちをしたくなるが、今は確実に誤解をされる。
焦燥に似たものが項でざわめいていた。間違えてはいけない、と予感がする。ここで誤れば、きっと取り返しのつかない喪失を迎える。だのに頭をいくら回しても、適切な言葉を作れる気がしない。
立香、と名を呼ぶと、強張った肩が僅かに揺れた。
「おまえが、懺悔する道理がどこにある」
二拍の間の後、彼はきょとりと顔を上げた。視線が交わったことに、どうしようもなく安堵する。安堵、などと。まこと、復讐者らしからぬ。
象牙の頬は、今はやや色を失っていた。両の目尻が僅かに湿り、部屋の明かりがそこへも引っ掛かっている。
「慕情は生者であれば抱いて当然のモノだ。それを罪と呼ぶのなら、生者すべてを咎人と呼ぶも同義──否。罪だとして、おまえにはその権利がある」
薄い唇がぴくりと動き、しかしそこからすぐに音は紡がれなかった。漢数字の八を描く眉、困ったような、緩慢な瞬き。
「……オレが好きなの、キミなんだけど、わかってる?」
「ああ、ああ、物好きも此処に極まったものだな。ヒトのカタチをとった怨嗟に等しい炎へ、光たるおまえが心を寄せるなど。……だが。おまえが俺に何をした。俺はおまえから傷を被った覚えも、おまえに掠奪された覚えもないぞ」
届け、と念じるも、少年はむしろ泣くのを堪えるような表情になった。苦しげな呼吸が胸を衝く。ごめん、と口元だけがまた罪を記した。
「……いやじゃないのか、好きになられるの?」
言葉自体が凶器であるかのように、彼はゆっくりとそれを差し出した。
好きに、なられる。
視界が僅か、狭まったことで、己の表情の変化を悟る。主語を変えて言葉にされると、霊核の冷え込む感覚がした。無論錯覚だ。己の存在は業火そのもの、世界に焼き付いた怨念なれば。
即座に答えを返せなかったこちらをどう受け止めたのか、青空の瞳が、その明度を深くした。
「オレはキミが、巌窟王が好きなんだ。愛、とか、そんなちゃんとした気持ちじゃなくても、キミにそういうことを想ってる。キミのこと否定したくなんかないのに!」
上擦って歪んだ声は、それでも棘のない、こちらを案じる柔さで鼓膜に響いた。くらりと、目の前が歪み、二秒視界を閉ざすことで凌ぐ。
否定したくない、と叫ぶそれが、愛ではないなら何なのだ。
これこそが理由か。彼が秘そうとしていたものと、それに蓋をした理由。
睨むような蒼眼が、湛える光を眩しく思う。だがこれは、闇を掻き消すそれではない。共に在らんとする、光だ。
「……おまえは、俺を救わない」
己たる炎が、今この時も燃えている。癒えることのない怨念は、彼の障害を砕くための矛となる。
これに心を注ぐことの、酔狂、徒爾、愚昧を今更説かずとも、彼の憂惧は斯様な段をとうに通り越している。
一度、瞼を閉ざし、開く。
「ならば何の問題がある。おまえの恋は、情は、俺を俺たらしめるのに何の障りにもなりはしない」
円い瞳が、迷うように揺れていた。仔犬を思わせる。やや浅い呼吸、血の気の戻った頬、彼本来の、生気の色。
開かれた唇から、ほろりと吐息がこぼれた。
「好きでいても、いいのか」
それはこちらへの問いではなく、手の中に落ちてきた肯定を知り、飲み込もうとして言葉にするさまであった。
全身が崩れそうな、それでいて空へでも駆け上れそうな心地になる。パチリ、火花の音が弾けた。
やっと、届いた。
三月の間息を潜めていた、彼の恋心を思う。少年自身の手で水底へ沈められ、それでも死ぬことのなかったモノを。
「俺がおまえに望むのは、己が口を結ぶ殊勝さではない」
視線を合わせる。今度こそ、傍らまで近付く。
「俺を。俺を慮って、おまえがおまえの心を殺すなぞ冗談じゃない。否、それでもおまえが沈黙を望み、選ぶのならばそれでいい。だがそれが俺を──この俺を損ねまいと恐れてのことならば、ハ、まったくの杞憂と言わざるを得ない!」
右手を伸ばす。くるりと目を瞠り、彼は差し出した手とこちらの顔とを交互に見遣った。それからその視線は、彼自身のかたく絡んだ手へ落ちる。
再び見上げた青が、いいのか、と問うていた。笑みを以ていらえとした。
力の抜き方と、絡んだ指の解き方を、思い出すのに苦戦しているらしい。随分こわごわと、彼は十の指を開いていく。
「ハハ……そうだ、俺の前で、よもや神に祈りはしないだろうさ」
自由になった手が、こちらへ伸びてくる。触れる寸前、体温を感じる距離で、躊躇うように静止した。炎毒を恐れてではあるまい。確かに忠告を聞き、覚悟の要を示されて、それでも幾度も触れてきた手だ。
長い長い一秒の後、重なった掌に口角を上げた。
「っわあ、」
ぐい、と引き上げて椅子から立たせると、少年は間抜けた声を上げてたたらを踏んだ。そうだ、彼は、こうでなければ。
「さあ、これで秘めごとは全てか? 己を己で絞め殺すなどという、らしくないコトをこの先も続ける理由はまだあるか?」
「……そうだね、たしかにオレらしくなかったかもしれない」
掴む力を緩めると、やわらかく握り返された。そうして、手を離したのは彼からだった。
「いいの、今度から二人きりのとき、すごい好きみたいな態度になっちゃうかもよ」
「咎め立てする義理もないだろう。好きにしろ、選択権はおまえの手の中にあるのだから」
「いじわるだな、キミが嫌かどうかを訊いてるのに」
はにかむような、笑顔だった。先のように一人抱えるためのそれではなく、これこそ共に往く者へ向けるべき。
「おまえの思うままにすればいいだろうよ。おまえには」
「『すべてが許されているのだから』?」
「わかっているじゃあないか」
「オレは好きな人に無理を押し付けたくないタイプなの」
なんでもないことのように口にして、彼は癖っ毛を整えるようにその指を髪へ通した。それから耳の後ろを掻き、視線を左右に彷徨わせる。
意地の悪い衝動が湧き、それを堪えないことにした。
「己で口にして羞恥を覚えるか」
「……悪いか、そりゃちょっとは照れるよ。今まで我慢してきたんだから」
拗ねて唇を尖らせたのは少しの間だけで、すぐに懐っこく見上げてくる。彼本来のこの天真を、久しく目にしていなかった。
──好きな人、と。
その声から染み出していた情に、今更慄きはしない。己はまだ、彼の力になれる。彼の足は、これからも前へと進みたがるだろう。であれば何も変わらない、何一つ喪われることはない。
よし、と少年は手を叩き、響いた音が空間を一段明々とさせた。
「手始めに、お茶でも飲んでいかない? おいしいやつがあるんだ、実は」
2020/05/16
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