人懐っこいほうであるという自覚はあった。博愛主義なわけでもないし、親しくもない人間みんなを愛せるような聖人君子でもないが、一度人となりを知って好意を抱けば勝手にどんどん好きになってしまう。パーソナルスペースが時折狭くなると言われたこともあるし、スキンシップが多いと指摘されたこともある。周りの人間は、というか人間じゃない存在も今はたくさん周りにいるけれど、親しいひとはみんなたいてい好きだ。人間も、英霊も神様も、怪物と呼ばれるひとびとも。
だから、それに気が付いたときにはもう手遅れ寸前だった。ただ、普通に、信頼していてたぶんある程度信頼されてもいて、だからひととして好きなだけだと、思い直そうとしてもうまくいかなかった。
触れたいと思って、なるべく近くにいたいと思って、できるなら触れられたいとも思って、それが他の人に抱くものとは違う熱を、理性の外にあるような衝動をはらんでいると、気付いた瞬間に愕然とした。こんなこと、望みたくなかったと願っても遅かった。
自分には愛も情もないと、自分が自分であるためにそれは不要で無縁だと言った、そういうひとに恋をしてしまった。
彼を、救いたいわけじゃない。葛藤させて苦しめたいわけでもないし、なにかを変えたいとも思わない。けれど、自分がそういう意味で好かれていると知ってしまったら、彼は『愛を与えられている』と、もしかしたら『求められている』とも思ってしまうだろう。存在ごと否定されたように感じるかもしれないし、裏切られたとすら認識するかもしれない。
絶対に本人には言えないけれど、やさしいところのある彼だから、応えられないことで悲しんでしまうかもしれない。
墓まで持っていこう、と思った。姿を見かけると嬉しくて、すこし触れただけで身体があたたかくなって、声を聞くと鼓動がはやくなる、これを、誰にも見つからないようにしよう、と。
始めから失恋しているも同然なのに、気持ちはなかなか消えてくれなかった。それでもいつか、過去のことになってしまえばいい。誰にも知られないまま死んだ恋を、こんなこともあったなと笑えたら。
「マスター、いるか」
完全に油断をしていたから、ひくりと肩が跳ね上がった。
戦闘で動員しない限り神出鬼没なところのある彼が、マイルームを正面から訪ねてくるのは珍しい。頬に指の背を当てて、そこが熱を持っていないか確かめた。
「うん、どうした?」
入っていいよ、と声を投げると、自動扉はささやかな音を立てて開いた。そうして扉から入ってくる本来普通の光景は、彼がやっていると妙に新鮮でおかしい。
端末で見ていたウインドウを閉じて、彼を迎える。他の人にもそうするように、いつもの態度で、ずっと前の自分みたいに。
「なんか飲む? お茶か水しかないけど」
彼が座りやすいよう椅子の角度を傾け、自分も一息つこうかな、と身体の力を抜く。浮かれないように。ぎこちなくなってしまわないように。
今日の自分は半ばオフだ。特異点の兆候もないらしいし、目立ったハプニングも起きていない。朝の食堂では、資金面で不安を抱えるようになったカルデアの電力をどうまかなうかで直流の獅子と交流の紳士が文字通り火花を散らしていたが、それもあくまで平和の範囲内だった。
とはいえ雑務がないわけでもない。どちらかというと肉体労働者である自分も、かんたんなレポートを書いて提出したり、概念礼装の把握と整理をしたりと、デスクワークじみたことをたまにはする。特にきっちり業務時間として決められているわけではないが、そういう意味で、『半ば』オフである。
微動だにせず黙っている巌窟王が気になりながら、あまりそちらを意識しすぎないように、棚のティーバッグを物色する。ろくに違いなどわからないが、いろんな人の好みがあるから、この部屋にはいつのまにか沢山の種類の紅茶が揃っていた。
もちろんここにあるものだけではなく、その都度お茶好きの人が茶葉を持ってくることもあるから、人理が修復されてからのここ半年ほどで、一生分のお茶を味わった気もする。世界一かわいい後輩も、最近すこし贅沢な茶葉をよく仕入れてくるようになった。
人理が焼却されているあいだは物資も限られていて、サーヴァントがものを飲み食いすることも少なかった。掘り出し物の誰かのへそくりをみんなで分け合うのもあれはあれで楽しかったけれど、やっぱり世界はちゃんと存続しているほうがいい。
残りが一番少なくなってきているもの、つまり一番たくさん飲んできているものを選ぼうとしたとき、背後がやけに無音だということに気が付いた。
「……巌窟王?」
振り向くと、いまだに立ち尽くしたままの彼が、静かな表情でこちらを見つめていた。覚えた不安が寒さと似た感覚で心臓へ染みていく。
何もないときは意外と口数の少ない男だが、言いたいことがあるときは惜しまず言葉を連ねるひとでもあるはずだ。人形のように整った、けれど肌が白すぎるせいでただ綺麗と言うには不穏な雰囲気のある顔から、どうにも目を逸らせない。なにかを握りたがった手が、服の布地をきゅうと掴む。
その唇が開いていくのが、スローモーションのようにはっきりと見えた。
「……やはり、か」
「っ、え、なに」
「おまえ、一体何を隠している」
心臓に、ひびが入ったような感覚がした。
動揺で目が僅かに揺れて、ぐにゃりとブレた視界に耐えきれず瞼を下ろす。半秒瞑って、ゆっくりと開いた。失敗した、と即座に思う。彼は見逃さなかっただろう。これじゃあ、後ろ暗いことがありますと白状してしまったようなものだ。
いや、やはり、ということは、既に悟られていたのか。
「……なんで。オレ、そんなに」
「ああ、分かり易かったのではないさ。こうして確かめて、やっと確信を得られたほどだ。ポーカーフェイスが上手くなったか? あるいは――」
その先を言葉にしないまま、彼は口を閉じた。しん、と静まった空気が肌に染みる。
明言されなかったのはきっと幸いだった。それほどまでに必死だったのか、などと、彼の口から言われてしまえば、悪くすれば泣く。
まあ座れ、と彼は言った。うまく思考を回せないまま、言われるままに席へ戻る。
背筋がふるりと震え、自分の身体を抱くようにして腕を握り込む。室温が五度ほど下がったような気がした。錯覚なのは、わかりきっている。
カツ、カツ、と足音が響く。時計の秒針と同じ速度で。うるさい脈拍が、余計にどくどくと暴れる。
「呼吸の仕方が変わった。否、普段は以前と同じく自然に息をしている。だが今のおまえのそれは、つとめて深く呼吸をしようとするときのやり方だ。……この頃、そうやって息をすることが増えた」
「……」
思わず自分の口へ手をやる。嘘だろ、と思った。息の仕方でバレるだなんて、想像だにしなかった。指先に震える唇を感じながらも、場違いにすごいな観察眼、と感心してしまう。たぶんこれは、現実逃避だ。
すぐ目の前まで近付いてきた彼は、喉の奥で笑う。いつもみたいに。
「何を思い煩う。己一人で為さんと意地を張るのではない、借りれる手は借り尽くし欲深くも最善を目指す、それがおまえの足掻き方だろう」
黄金の目は、理性と聡明さを宿しながらも、チリチリと燃えているみたいだった。恩讐の炎たる彼の本領を、存在の本質をちらつかせるように。
冷静さが、一欠片戻ってくる。バレていない。隠し事をしているのがバレただけで、気持ちに気付かれてしまったわけではない。
彼はきっと、勘違いをしてくれている。これは足掻かなきゃいけないことじゃないし、叶えたいことでもない。心配してくれているような、されていいようなものとは違う。
強張っていた肩の力を、すこし抜く。大丈夫、と口に出して、微笑むことができた。
「大丈夫だ、これは、そういうのじゃないから」
「では、どういうのだ?」
「……知られたくないから、隠してたんだ。このまま、隠したままでいさせてほしい」
ありがとう、とごめん、が、続けて口からこぼれ出た。黄金の目が、すう、と細められる。
「三ヶ月」
静かな声音に、言葉の意味もわからないまま喉が塞がった心地になる。咎められていることだけは、わかる。
「俺が始めに違和感を覚えてから、少なくともそれだけ経過している。進展も、改善もなく、またおまえの周りの者が察知した様子もない。……いつまでそうして、まともな呼吸を忘れているつもりだ」
話せ、と言う彼の目は、抗いがたい誘惑だった。封じ込めて蓋をして、中身の弾けそうになった箱を開けてしまいたい。ひゅう、と喉から音がする。乾いた風の音に似ていた。
他の人が、気付くはずなんてない。自分が好きなのは彼で、おかしくなるのは彼の前でだけなのだから。些細な些細な違和感を、何度も味わう機会があったのは、彼だけなのだから。
ろくに酸素が回っていないのか、頭が発熱したようにぼうっとする。彼が聴こうとしているのだから。そんなふうに責任転嫁して、甘えてしまいたくなる。
彼が請うのなら、告げてしまうべきではないだろうか。他でもない彼が聴かせろと言っているのだから。
首が絞められたように息苦しい。どこにもいけない好き、の気持ちが、ぐるぐると渦を巻いて指先まで痺れさせる。
だめだ。
「だめだ、……聞かないほうがいい」
長い前髪の奥で、片眉が上げられた。往生際が悪かろうが、そんな流されたようなかたちで言っていいことじゃない。
「無知を強いるか、この俺に」
「違うんだ。カルデアがどうとか、人理がどうとか、誰の処遇がどうとかの大事な問題じゃない。そういう、ちゃんとしたことじゃないんだ」
そのうち薄れていくはずだ。わざわざ気にしてもらうまでもない、問い詰めてもらうまでもない。自分の恋は、自分で看取ればいい。
両の指を組んで、握る。苦しさを逃がすように強く握るほど、それは祈りのかたちに似た。
どう言えばいいのか、まとまらない言葉が、ごちゃごちゃと浮かんでは積み上がっていく。元々頭で考えるのは得意なほうじゃないのに。
ク、と笑う声がした。耳に慣れたその音に、少しだけ気持ちが落ち着く。
「まさかとは思うが、俺にとってのおまえが『カルデアのマスター』でしかないとでも?」
彼の科白は、こんなときでも難しかった。熱をもつ目でぼう、と見上げ、言葉の続きを待つ。巌窟王は芝居がかった仕草で肩をすくめた。
「この復讐の化身を、あくまで生者の使い魔たるサーヴァントを、おまえはそれだけのモノとして扱わないだろう。同じことだ、藤丸立香。カルデアがどうの、人理がどうの、マスターとサーヴァントだの、俺とおまえを繋ぐのはもはやそんな肩書きではない。立場ではない。無為を言い訳に自分だけ逃げられると思うな、必要のないモノにまで手を伸ばすおまえが」
「……ッ」
言葉だけ受け取れば叱責にも似ているのに、声音はひたすらにやさしかった。仕返しだ、とでも言いたげに、彼は悪戯っぽく笑っている。きちんと身に覚えがあるわけではないし、彼の言っていることをちゃんと理解できているかどうかも怪しいけれど、それでも。
心臓が痛む。このひとが好きだと、思い知る。
「ごめん、巌窟王」
謝罪に眉を寄せた彼は、こちらが再び口を開いたのを見て瞬いた。言い募ろうとする気配が収まったのは、今のごめん、が、頑なな拒絶ではないことを悟ったのだろう。はく、と動いた唇に、喉で詰まった声がなかなかついてこれない。
好きなひとである前に、やはり彼は共犯者だ。どうしようもなく信頼していて、きっとされてもいて、応えたいと思ってしまう。
喘ぐように息をして、一度目を閉じる。きっと今、自分はひどい顔をしているのだろう。
「好きになっちゃったんだ」
せめて、笑おうと思った。懺悔にはふさわしくないかもしれないけれど、彼がなるべく気負うことのないように。大丈夫なのだと伝わるように、いつか、いつかの笑い話にできるように。
「キミのこと。好きになっちゃった、ごめん」
まっすぐ見つめることのできた彼は、金の眼をきれいに瞠っていた。暴かれたものは彼にとって全くの予想外で、不意打ちで、唐突なことであるのだと、その反応をもって突きつけるように。
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