「こうちゃん」

 きつい練習でからだはくたくたに疲れているのに。夏の夜の蒸し暑さになかなか寝付けず、それでも何回か寝返りをうちようやくうつらうつらしてきた頃、上の方から声が聞こえた。
 繰り返し自分の名前を呼ぶ聞き慣れた声に、脳髄がしびれて、どこか深いところに吸い込まれていくような感覚がする。

「こうちゃん、起きて」
「…んー…」
「こうちゃんってば、ねえ、起きてよ」
「……」
「こーちゃん、起きないとほっぺつねるよ」
「…るせー」

 ほおをしつこくぺちぺち叩く冷たい手に仕方なく目を開ければ、 暗闇に曖昧に浮かびあがる人影。眠たい目で数回まばたきをして目を凝らせば、見知った顔が腹の上にまたがっていた。

「…なんでいんだよ…」
「あっ、寝ちゃだめだってば!」

 顔を腕で覆ってまた眠りにつこうとしたら、焦ったように腕を叩かれる。泣きそうな声で名前を呼ばれれば、嫌でも目が覚めた。結局彼女には甘い自分に苦笑する。
 細い手首を掴めばもう起きたということがわかったのか、ほっとしたように服を握りしめていた手が離れていった。

「寝ないからとりあえずどいて」
「…ごめんなさい」

 寝起きだからか声がかすれた。もぞもぞと彼女が腹の上からどくのと同時にからだを起こす。ぺたりとベッドの上に座り込んだ彼女に向き合って座った。
 相変わらず窓から入ってくる空気は生ぬるくて、肌がじっとりと汗ばむ。夜だというのに鳴いている一匹のセミの声に混じって、遠くの方でかすかにサイレンのような音が聞こえた。
 さっき彼女の手首を掴んだ手を握ったり開いたりしながら、まじまじと彼女の顔を見る。

「なんでこんな時間にいんの? 今日予備校の日だろ?」
「…もう終わったの」
「ふうん。…おまえ、やせた? なんか夏休み前より細くなってね?」
「夏やせしたのかな、食欲なくて」
「あー、ここんとこ暑いもんな。…つーか悪い、あんま構ってやれなくて」
「ううん、大丈夫。会えてうれしいよ」
「…?」

 実際隣の家に住んでいるにも関わらず、 彼女に会うのは一週間ぶりだった。オレが朝から晩まで部活に打ち込んでいる間、こいつも予備校の夏期講習に行ったり家族旅行に出かけたりとなんだかんだ予定が合わなくて、結局そのまま。お互い家が隣だからか、昔からメールや電話をする必要も習慣もなかったので、顔を見たのも話したのもひさしぶりだった。大丈夫だって言っていても、さすがに寂しい思いをさせているのは自分でもわかっている。夏休み中に一度くらいはどっか連れていこう。結局夏祭りにも連れてってやれなかったし、海とか遠いとこがいいか。
 そんなことを考えながら、蚊取り線香入れの緑の光にほのかに照らし出される細いゆびだとか、やわらかそうな白いふくらはぎの輪郭を黙ってみつめた。

「こうちゃんいまヘンなこと考えてるでしょ」
「…ねーよ」
「あー絶対考えてた。返事遅れたもん」
「つーかそれ、買った?」

 実際そうだったので、話題を変えるためにふと目についた、彼女が着ているノースリーブのワンピースを指さして言う。今までに着ているところを見たことがない、胸元にちいさなリボンのついた真っ白なワンピース。
 ちいさく頷いて、目を伏せて笑う彼女に、ふいに。言い様のないなにかが喉元からせりあがってくる。

「この前お店でみつけたの」
「へえ」
「あのね、こうちゃんに一番に見てもらいたかったの。…似合う?」
「…え、ああ、いいんじゃねーの」

 似合ってる。そのなんでもないたった一言に、唐突に、まるで泣くのを我慢するかのように顔を歪めた。
 ゆっくりと伸びてきた腕が、背中に回る。ベッドのスプリングがちいさく軋む音。肩に、ちいさな頭が押しつけられる。髪がさらりと流れ落ちて、首もとを優しくなでていった。
 なにがなんだかわからなかったけれど、声を押し殺して泣く彼女の背中に手を回してゆっくりと宥めるようにさする。ずっと昔、幼稚園に入る前から、彼女が泣く度にこうやってあやしてきた。こうする度に彼女を守っていかなきゃいけないと思っていたし、その役目はずっと自分であってほしいとも思っていた。これからも。その気持ちは変わらない、はずなのに。

「…こーちゃん」
「…ん」
「こうちゃん、あのね」
「うん」
「すきだよ。こうちゃんのこと、すき」
「…オレもすきだよ」
「あのね、ばかかって思うかもしれないけど、私ちいさい時からずっとずっとこうちゃんのお嫁さんになりたかった」
「…どうしたんだよ、急にそんなこと」
「ちがう、もうだめなの、やだ、こうちゃん、私、わたし…っ」

 顔をあげた彼女の、濡れたまつげとふるえるくちびるの動きだけが、夏の夜のなかでやけに鮮明に映った。
 呼吸が、止まる。
 ベッドの脇に転がっている時計が目に入る。十時二十三分。ちょうど彼女の予備校が終わって、帰ってくる時間。遠くから鳴り響く、救急車のサイレンの音。
 腕のなかにいた彼女はいつの間にかいなくなっていて、白いワンピースからのびる細い腕を掴んでいた手が、まるで最初からなにも掴んでいなかったかのようにすとんとベッドの上に落ちた。
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