逆回りのぬかるみ
◆◆◆「で? 忘れ物はあったのか」
名前が乗ったバスの後ろ姿を視線で追いかけながら、陀宰が尋ねた。陀宰の視界の隅で、凝部が「あー、ね」と長髪をかき上げるのが見える。
「そういや、そうだった。忘れ物ね」
「いいよ、どうせ嘘だろ」
溜息をひとつ吐き出して、陀宰は視線を凝部へと転じた。
「理由は知らないが、凝部が俺と苗字をふたりきりにしたかったんだろうなってことは、なんとなく分かる」
「あらー、メイちゃん勘がいい」
「ここまで分かりやすくされたら、誰でも分かるだろ」
ふたたび溜息を吐きそうになるのを、陀宰はすんでのところでぐっと堪えた。溜息を吐くと、幸福が逃げる。そんな子供だましを信じているわけではないけれど、とはいえ凝部のペースにのせられて溜息を連発していては、本当に幸福が逃げていきそうだった。
季節は秋。高校の二学期が始まって、すでにひと月半が経過している。十月半ばの風景には秋の色が濃厚で、そんな街並みのなかに自分が凝部と一緒に立っているということに、陀宰は何とも言い難い不思議な感慨を抱く。
陀宰が凝部と過ごした時間のほとんどは、季節の気配の薄い、異世界の偽物の夏だった。自分があの虚構から脱出できたことも、虚構から脱出した先で凝部やヒヨリと次の季節に進んでいることも、陀宰にとっては時々不思議な奇跡のように思えてしまう。
とはいえ、異世界での出来事が、完全に過去のものとなったわけではない。
廃寺の築き上げた月の裏の文明は、ほとんどこの世界との接触を絶ったがゆえの、ガラパゴス的文化進化だった。その技術のなかには、現行の社会では未だ到達し得ない未知の技術も存在する。
陀宰と凝部は二期続けてキャストとして参加したということもあり、もうひとりの過去参加者である獲端と一緒に、今なお情報局への情報提供を続けている。技術的な情報提供はほとんど役に立たない陀宰でも、廃寺ともっとも多くを語り合った身として、何かと呼び出されることは多い。
(それもこれも、瀬名が俺のことを思い出してくれたからこそ、だな)
もはや何度目になるか分からない結論に行きつき、陀宰は目元を綻ばせた。頭の中に浮かんだ少女の天真爛漫な笑顔を思い出し、心をほわりと和ませる。
異世界では恋愛云々どころではなくなってしまったし、帰還してからもあと一歩を詰め切れずにいる。だから陀宰とヒヨリの距離は、今もまだ仲のいい友人止まりだ。
だが陀宰は、今はまだ、それでもいいと思っていた。欲を言えば恋人同士になりたい。けれどヒヨリが笑顔でいてくれるのなら、極論それは相手が自分でなくてもいい――
「ていうかさー」
と、陀宰の思考を破ったのは、凝部の間延びした声だった。
「メイちゃんと名前ちゃんって、高校入って知り合いになるまで、本当に面識とかないんだよね?」
「何だよ急に」
「いいから答えて。はいさーん、にー、いーち」
いきなり脈絡のない質問をしておきながら、身勝手にカウントダウンを始める凝部。陀宰は眉根を寄せながらも、「そうだよ」と返事をした。
「面識もなにも、あいつ中学までは親父さんの仕事で遠方に、って言ってなかったか?」
「それはそうなんだけどー」
「一年のときはクラス違ったし、今年はじめて同じクラスになって喋るようになったってくらい。ちゃんと話したのは二学期になってからだから、俺もお前も、苗字との付き合いの長さで言えばほとんど同じだろ」
「ふーん……中学まで、……小学生から」
陀宰の話をどこまで真面目に聞いているのか、凝部は思案するように瞳を伏せ、胸元で指を組んだ。
思考するときの癖なのか、組まれた凝部の指先は、不規則に擦り合い、絡みあう。その指先を眺めながら、今度は陀宰が凝部に尋ねた。
「そういうお前こそ、やけに苗字に絡むよな。なんか気になることでもあるのか?」
「それって、名前ちゃんのことを好きなのかってこと?」
未だ思考のさなかなのか、凝部の返事は端的だ。それとなく暈した真意をずばりと明言され、陀宰は居心地悪げに身じろぎした。
「いや、そういう……まあ、いいか。それでも……」
「僕が名前ちゃんのことを好きだったら、メイちゃんはどうするの?」
「どうって……どうもしねーよ。応援くらいはするかもだけど」
相手が恋敵というのでもないかぎり、友達の恋愛を応援するくらいの度量は、陀宰も持ち合わせていた。凝部と名前ならば、似合わないこともない、というかむしろ似合うとすら思う。凝部はまともに付き合える人間がそう多くないので、名前は貴重な人材でもある。
しかし陀宰の思いに反して、凝部は深く深く、これ見よがしに重々しい溜息を吐き出す。陀宰の溜息五回分くらいの重さの溜息を吐いた凝部は、「本当メイちゃん、そういうとこだよ」とふんわりとしているわりに、ひどく鋭い一言を投げてきた。
「そういうとこって、どういうとこだよ」
「ちょっと考えたら分かるでしょ。話の流れ考えてよ」
「……凝部が苗字にやたらと絡んでるって話だろ?」
「そこまで戻ってどーすんの」
本当、メイちゃんってにぶちんだね。凝部はそう言うと、やおらベンチから腰を上げた。ふと見れば、ふたりが乗る予定の情報局行きのバスが、すぐそこの交差点で信号待ちの停止していた。
ほどなく停車したバスに、陀宰と凝部は連れだって乗り込む。バスの中はガラガラで、凝部は先に二人掛けの座席に座った陀宰の隣ではなく、その後ろの二人掛けシートに腰をおろした。空席が目立つ車内では、そんな振る舞いをしても咎める乗客は誰もいない。
ゆるりとバスが動き出す。陀宰がぼんやりと車内アナウンスを聞き流していると、
「ま、名前ちゃんのことを好きか否かって話なら」
凝部が先ほどのバス停での会話を、何食わぬ顔で再開した。
「残念ながらハズレ。恋愛感情とかそういうのじゃないよ。もちろん名前ちゃんのことは普通に可愛いなとは思うし、告白されたら付き合ってもいい……ていうか付き合っちゃうかもしれないけど」
「なんだそれ」
あまりにも軽い凝部の言い分に、陀宰はついつい顔を顰める。凝部は気にする素振りもない。
「まあまあ。だけど実際問題、名前ちゃんが僕に告白とか、ないでしょ」
「……分かんないだろ」
「分かる分かる。これは絶対」
やけにきっぱりとした口調で断言され、陀宰は言葉に詰まった。どうやら凝部は、自分よりもよほど名前のことを理解しているらしい――そう考えると、なんとなく釈然としないような気分になる。
(たしかに俺は、そこまで苗字と親しくないけど)
陀宰が名前と一緒にいるのは、ただただ名前とヒヨリが親しくしているから。それに尽きる。
ヒヨリがもとから親しくしていた友達を無下にはできないし、自分がヒヨリと一緒にいたいがために、ほかの友人から引きはがすような真似はできない。異世界の話をできない不便さは時折感じるが、とはいえグループで仲良くしていく分には、名前がそばにいたところで、陀宰にとって特段の不都合はなかった。
だからこそ、凝部と名前が仲良くしているように見えるのが、気になるのかもしれない。自分以上に人の選り好みの激しい凝部が、積極的に名前に絡みに行く様子は、はっきり言って物珍しさすら感じる。
(いや、それだけじゃないか……)
ふいにさっき見た名前の笑顔を思い出し、陀宰は考えを改めた。
名前とまともに話したのは、おそらくさっきが初めてだ。同じグループと言っても、陀宰が名前と個人的に親しくしたことは一度もない。名前の方もどちらかといえば、陀宰にはあまり話しかけないようにしているようだった。
それなのに、今はやけに名前の笑顔が気に掛かる。恋愛感情の始まりのような甘やかな感覚とは、多分違う。もっと何かもどかしくて、手の届かない部位の痛痒感にも似た、歯がゆい何か。
「メイちゃんこそ、名前ちゃんと今日仲良く話してたじゃん。今までふたりで仲良くしてるところなんて、ほとんど見たことなかったけど?」
凝部に言われ、陀宰は視線を逸らした。まさに今考えていることを言い当てた言葉だが、まるで痛くもない腹を探られているようで、そう気分がいいものではない。
「今日はたまたま……、タイミングが合ったから」
「タイミングねぇ」
「何が言いたいんだよ?」
「さっきメイちゃんが僕に言ったのと同じこと。ふたり、ずいぶん話が盛り上がってたみたいだけど、そもそもメイちゃんがあんな風に女子と笑い合ってるのって、ヒヨリちゃん以外に見たことないし。なんだっけ? 『なんか気になることでもあるのか』?」
陀宰が用いた言葉を使って、凝部がいやらしく笑う。
「お前、本当うざい……」
「自分が痛いところ突かれたからって、僕への攻撃で誤魔化すのよくないと思いまーす」
うざいと思ったのは事実だが、凝部の言い分に理がないわけではないところが、またさらに腹立たしい。
「つーか盛り上がってって、あれくらい普通だから」
「ふーん、それならそれでもいいけど。じゃあ最後の方、名前ちゃんのテンションが変だったのも? それも普通で、たまたま? 僕にはそうは見えなかったけどー」
凝部の言葉が、いよいよ陀宰を追い詰めつつあった。後ろ暗いことがあるわけでもないのに、と反感を抱く一方で、陀宰のなかに強く言い返せない気まずさがあるのもたしかだ。
「そもそも、お前のこと待ってたんだろ、あれは」
苛立ちと言い知れぬ焦燥で、ついつい鋭い物言いになった。それでもやはり凝部は何処吹く風だ。
「べっつに、照れなくたっていいんだよ? ヒヨリちゃんも好き、名前ちゃんも好き。思うだけなら別に、誰にも迷惑かけてないし」
「なんだそれ。だから、そういうのじゃないって言ってんだろ」
「じゃあ名前ちゃんのことは、何とも思ってないわけだ? そういうことだよね?」
陀宰は迷うことなく首肯した。はっきりと、間違いなく。
その問いの答えなら、自信を持って断言できる。
「苗字のことは、何とも思ってない。いや、何とも思ってないっていうか、友達だけど」
「友達ね。はいはい」
凝部は真剣にとらえていないのか、あしらうような返しをする。その適当さに苛立たしさを感じつつ、凝部が垣間見せた気迫のようなものが霧散したことに、ほっと胸を撫でおろしもした。陀宰も肩の力をふっと抜く。すると、ふいに名前の時折見せる不思議な表情が、陀宰の脳裏を光のように掠めていった。
陀宰は「……ただ」と、低い声で続けた。
「苗字を見てると、何か言いたいことがあるんだろうな、って感じは……時々、する」
そう言った途端、凝部が興味深げに眉を動かす。身体を前に乗り出して、凝部は陀宰の座るシートの背もたれに、腕と顎をのせた。
「言いたいこと、か。それって、メイちゃんに対して?」
「ああ。なんとなく、だけどな。そういうのは俺自身にも経験あるから、なんとなくだけど分かるんだよ」
「ああ、異世界での話」
凝部が独り言のように相槌を打つ。
かつて陀宰は異世界で、真相を話すことをルールで禁じられたまま、事の成り行きを見守ることしかできない苦しい『賭け』を経験した。結果を見ればその『賭け』には無事に勝利したわけで、勝利があるからこそ今、陀宰はここにいる。
「あのときメイちゃん大変だったもんねー。もう、必死すぎて怪しいどころの騒ぎじゃなかったし」
「うるせーな。必死にもなるだろ」
ヒヨリまで巻き込んだ『賭け』なのだから、陀宰も文字通り死に物狂いだった。けれど、必死で切実な心情と、現実のアクションが必ず結びつくとは言い難い。『したいこと』『言いたいこと』と『できること』『言えること』には途方もない隔たりがある。
「異世界にいた時の俺ってよくこういう顔してたよなっていうのを、苗字を見ると思う。変な話だとは、自分でも思うが……」
とはいえ異世界で陀宰が置かれていた状況は、ほかに例を見ないような特殊なものだった。そのことを考えると、まさか名前が陀宰と同じ心境にあるとは到底思えない。話しているうちに自信がなくなって、陀宰の言葉は尻すぼみになった。
「すまん、なんか俺、変な話してるよな……?」
「いやー、そういう勘って結構侮れないからね。案外、メイちゃんは言葉にならない部分で、苗字ちゃんが異世界でのメイちゃんと同じような立場だって信号を、キャッチしてるのかも」
「苗字がプロデューサーだってか」
「そこまで尖った特殊すぎな話じゃなくて。もっと普遍的な話でさ」
と、そこで凝部はふと何か思い付いたのか、視線を宙に彷徨わせた。
「普遍的……」
口許に片手を持っていくと、凝部は自分の言葉を繰り返す。思考のなかに深く沈み込んだ凝部は、時折ぶつぶつと聞き取れない声を発しながら、思索に没頭していた。
三十秒か、一分か。バスがその時停止していた停留所から出発し、最初の交差点で右折したとき。ようやく凝部の瞳の焦点が陀宰に定まった。そして、
「ああ、……なんとなく分かったかも」
独り言のように低くひそめた声音で、凝部はそうぽつりと呟く。
陀宰は「なあ、凝部」と凝部の意識を自分へと向けた。
「分かったって、何がだ? 考えるのを待ってたんだから、少しくらい教えてくれてもいいだろ」
「いや、待って。分かったっていっても、まだ細部まで詰めてないし。今の時点で僕からメイちゃんに言えることは、悪いけどなーんにもナシ」
「全然意味わかんねえ……。俺、なんか見落としてる?」
「それは多分、そうかも?」
「……苗字のことで?」
陀宰と凝部の視線が、シートの背もたれを挟んでぶつかる。
(凝部とこういう遣り取りをするのも、久し振りだな)
無言で見つめ合いながら、陀宰はふと思った。もっとも、異世界での自分はすべてを知っている立場だったから、凝部には一方的に怪しまれ、一方的に駆け引きを仕掛けられて追及されるだけだったが。
しかし今、こうして対等な立場で駆け引きを仕掛けたところで、陀宰は自分が凝部に勝てるとは、露ほども思えなかった。
だからこそ、凝部の目に迷いが浮かんでいることに、陀宰は驚きと意外さを感じる。凝部はおそらく、陀宰の見えていないところまで遥かに見通し、何か分からないが真実らしきものに肉薄している。それなのに、凝部の目には謎を解き明かす喜びよりも、複雑さばかりが顕れている。
もしかすると、凝部も異世界にいるときと変わったのかもしれない。あるいは、危機感のない世界だからこそ、非情に徹しきれない。無情になりきれない。もしもそうだとすれば、誰に対して情を消せないのか。自分か、それとも。
「ひとつだけほぼ確定していることがあるとすれば、メイちゃんが悪いって話ではないかな。……これも絶対ってわけじゃないけど」
迷いと葛藤を如実にはらんだ声で言われれば、陀宰は何か、自分がひどく心無いことをしているような気分になる。自然、発した声は焦れているような余裕のないものになった。
「凝部、俺にかかわることで何かあるなら、」
「あーあー、ごめん。メイちゃんの気分を楽にしてあげたいのはやまやまだけどね、こっちにもこっちの事情があるから」
「事情……」
「柄にもなく、約束しちゃったからね」
そう言って微笑む凝部の顔には、これ以上の追及を撥ねつけるという頑なさが浮かんでいた。陀宰はそれ以上何を言うこともできず、そこから情報局に到着するまで、無言で時間をやり過ごすしかなかった。
◇◇◇
たまにバイトがない日に限って、お遣いを言い渡される。帰宅して着替えをする間もなく、私は母から渡された荷物をたずさえて、バスを乗りつぎ情報管理局まで赴いていた。
情報管理局前のバス停でバスを下車し、バングルでメッセージを送る。ほどなく、父が情報局本庁の建物の中から、手を振りながら走り出てきた。
情報管理局はここ数年で立て続けに発覚した不祥事ののち、よりクリーンで開かれた組織であることをアピールするため、以前よりも来館制限をゆるめている。私も局員の家族なので、受付に言えば面会用のフロアまでは出入りすることが許されている。
けれど私は、情報局の建物の無機質さがあまり好きではない。それにバングルでの連絡で事足りるところを、わざわざ受付の人の手をわずらわせたくもなかった。それを知っているから、父は私を呼びつけず、建物の外まで出向いてくれたのだった。
「おつかれ、明日は帰ってこられそう?」
「どうだろうなぁ……。一応山場は越えたはずなんだけど」
局に詰めっぱなしの父は、目の下に隈をつくってどんより顔をしている。おっとりした口調とよれよれの風貌を見ると、仕事に忙殺される中間管理職というふうに見えなくもない。
情報管理局に出入りしている局員には、しゅっとしてスタイリッシュな風貌の人が多い。支局ならばともかく、本部では父は浮いているのではないか。娘の身として、職場での父が不安でならない。
ともあれ、忙しい父をいつまでも引き留めておくわけにはいかない。
「大変だと思うけど……はい、じゃあ頑張って」
母に持たされた弁当と着替えを手渡して、父と別れた。
バス停まで戻ると、街頭ディスプレイで時刻表を確認する。ちょうど前のバスが行ってしまったばかりのようで、次のバスまではまだ少し時間があった。
(少し歩くけど、別のバス停から帰った方が早いかな)
情報局の周辺には、複数のバスの路線が乗り入れており、歩いて数分のところにも別のバス停がある。バングルで検索すると、乗り換え時間を加味しても、そちらのバスの方が良さそうだった。
と、バングルから視線を上げて歩き出そうとしたその時。
遠く視線の向こう。先ほど父が戻っていった情報局の正門ゲートから、見なれた制服の二人組が出てくるのが目に入った。その姿を見て、私は咄嗟に街路樹の影に身を隠す。
「陀宰くんと凝部くん……?」
ふたりはゆったりとした足取りで情報局から出てくると、こちらに向かってくることなく、角を曲がって歩いていく。
(一体どうして、ふたりが情報局に……?)
私はふたりが歩き去った方角を、木陰に身をひそめたままの状態で、しばし茫然と見つめていた。