こんなに空虚な幸い
一緒に帰ろうと約束をしていたわけではないけれど、なんとなく教室を出るタイミングが重なって、私と陀宰くん、それに凝部くんは今日もまた、一緒にバス停へと向かうことになった。ヒヨリちゃんは今日も今日とて、演劇部のお手伝いに駆り出されている。「あ、やばい。教室に忘れ物したかも。悪いけど、先行っててくんない? 適当に追いつくから」
という凝部くんの、本当なんだか分かったものではない台詞を受け、私は陀宰くんと肩を並べて歩く。昼間の会話があるだけに、凝部くんから余計な気を回されているとは思いたくないが、彼ならやりかねないとも思う。私と陀宰くんの事情をつっつかない、放っておくという約束は、一体どの程度期待できるものなのだろう。
(まあでも、ふたりきりが嬉しくないわけではないし……)
陀宰くんを避けていた一学期ならいざ知らず、今はもう避けることなどできずに流されるままになっている。もちろん諸手を挙げて大歓迎、というわけではないから、この状況を凝部くんに感謝するかどうかでいえば、感謝が四割、迷惑が六割といったところだ。それでも、四割の感謝は間違いなく私の胸に存在している。
昇降口で一応凝部くんを待ってみたが、彼が私たちを追いかけてくる気配はまだない。
「まあ、あいつは気まぐれだから。そのうち来るだろ」
陀宰くんは諦めたようにそう言った。なんでも今日はふたりで出掛ける予定があるらしく、その約束がある限りはそのうち戻ってくるだろう、とのこと。陀宰くんが凝部くんと、学校外でも一緒にいるということが、少しだけ意外だった。
校舎を出ると、運動部の発声がグラウンドから聞こえてくる。
「陀宰くんって、ふつうに凝部くんと遊んだりするんだ」
私が言うと、陀宰くんは変なものでも食べたような、微妙な顔で「いや、遊ぶっていうか……」と唸る。どうやらこれも、三人の秘密にかかわる話のようだ。どこに秘密の緒が潜んでいるか分からないから、なんとも難しい。
どうしたものかと思っていると、陀宰くんが「そういう苗字こそ」と、露骨に話題を変えた。
「苗字、なんか最近やけに凝部に絡まれてないか?」
「そうかな。そう見える?」
「そもそも凝部は軽いノリのわりに、誰とでも話すってわけでもないだろ。だから余計にそう見えるのかな」
「ああ、そういう感じはあるのかも」
凝部くんはノリが軽いし、当意即妙な返事もお手の物だ。だから人を食ったような性格のわりに、結構あちこちから人気がある。
それでも凝部くんには凝部くんの交友関係のレベルというか階層があるようで、陀宰くんやヒヨリちゃんとつるんでいることが圧倒的に多かった。私が凝部くんに絡まれがちなのは、単に彼の目につくところにいるからだろう。
「苗字は結構、うまく凝部をあしらってる? いなしてる? ……とにかくそういう感じだから。すごいなと思うし、絡まれて大変そうだなとも思ってた」
「思ってたなら助けてくれてもいいのに」
「助けが必要そうなときは割って入ってるつもりだけど」
そう言われてみれば、たしかにそうなのかもしれない。以前放課後の教室で凝部くんとふたりきりになったときも、あやうい空気になったところで陀宰くんが割って入ってくれた。
「苗字は困ってる? その、凝部の扱いに」
率直な陀宰くんの質問に、私は首を傾けた。
「うーん、なんだろう。困ってるっていうわけではないんだけど……。なんか私、凝部くんに面白がられてるみたいなんだよね。よく分かんないんだけど」
「それは苗字が、」
と、陀宰くんがそこで言葉を途切れさせる。なんだろう。歩きながら陀宰くんの顔を覗き込むと、陀宰くんはうっすら目元を朱に染めて、おかしな方向に視線を飛ばしていた。
「陀宰くん? 私が、どうかした?」
「いや……苗字が」
「私が?」
「き……れいだからじゃないか」
途切れ途切れに紡がれた言葉に、思わず耳を疑った。
「えっ、と…………」
「だっ、黙るのやめろ……! 恥ずかしくなる、から……」
「いや、だって……」
きれい? 陀宰くん、今、私のことをきれいと、そう言っただろうか?
茹でダコも斯くやというほど赤くなった陀宰くんを、私はじっと見上げていた。私の隣を歩く、やや癖っけで三白眼の男の子は、本当にあの、私の知っている陀宰メイくんなのだろうか。
「ここにいるの、本当に陀宰くん? 影武者? 偽物? 立体映像?」
「本物だよ」
陀宰くんは疲れたように呟いて、それから長い溜息を吐き出した。両手をあわせて顔を覆う陀宰くんは、どうやら本当に心の底から、照れてしまって仕方がなくなっているらしい。
「あー、無理。キャラじゃないこと言った……」
その様子を、私はついつい、まじまじと観察してしまった。そうしていると、じわじわと照れと喜びが私の中にも満ちてきて、私までつられて顔が熱くなってくる。
私だって年頃の女子なので、たとえお世辞であろうと、きれいだと言われることがまったくないわけではない。ただ、それが陀宰くんから――十年来の片思い相手から発せられた言葉となれば、みすみす聞き流せるものではなかった。
嬉しい。嬉しい。浮かれてしまう。
陀宰くんの目にうつる自分が、陀宰くんにとって『きれい』だと思えるものであることが、嬉しくて、心が浮き立つのを止められない。
もちろん、深読みしすぎてはいけないのだということは、重々承知している。けれど、それでも。
胸の中を、濁流と嵐がごった返しになったような荒々しさが、勢いよく駆け抜ける。その激しい情動が外見に漏れ出てしまわないよう、私は必死で全身に力をこめた。うかうかしていると、口許がゆるんでしまう。にやけただらしない顔を、こんなところで陀宰くんに晒したくはない。
けれど自分を律することに必死になりすぎた私を、陀宰くんは怒っているのだと勘違いしたらしい。
「……嫌だったなら、謝る」
ふいに謝られ、私は驚き目を見開いた。
「え? 何が?」
「いや、急に外見褒められるのとか、気持ち悪かったかな、と」
「全然、むしろ嬉しかったけど!」
勢い込んで否定すれば、陀宰くんは顔に少しだけ安堵の表情を浮かべた。そして私の勢いがおかしかったのか、目元をそっと綻ばせる。
「嫌じゃないならよかったよ。いや、よかったっていうのも変なのか……?」
「変かなぁ。どうだろう、変と言えば変かもしれない」
「やっぱり変なのか……」
「陀宰くんぐるぐるしてるねぇ」
「慣れてないんだよ、こういうの……」
がくりと肩を落とす陀宰くん。その様子が微笑ましく、私はさらに嬉しくなってしまう。こうして陀宰くんと他愛ない話ができていることが、嬉しくてたまらない。
「いいんじゃないの? 女の子口説き慣れてるっていう方がどうかと思うし。慣れてないくらいでちょうどいいと思うよ」
「けど、俺の周りの大人はなんていうか、結構さらっと可愛いとかきれいとか言うぞ」
聞き捨てならない台詞に、今度は私が怪訝な顔をする番だった。
「……陀宰くんって普段、どういう界隈に出入りしてるの?」
陀宰くんは帰宅部だし、バイトもたしかしていない。先輩との交流は最小で、年上の知り合いがいるというのも初耳だ。まさか、良からぬ仲間とつるんでいるのではないだろうか。
にわかに不安が首を擡げ、私はじっと陀宰くんを見つめた。しかしそんな私の不安をよそに、陀宰くんは肩を揺らして笑い始める。最初こそ我慢しようと奮闘している様子がうかがえたものの、結局、陀宰くんはすぐに笑い声を堪えきれなくなった。
「ふっ、くっ……くく、ふは……っ」
「ちょっと……笑うところじゃないんですけど?」
大袈裟に肩を揺らしている陀宰くんを、私はむっつりと睨めつける。
「陀宰くんがいかがわしい界隈に出入りしてるんじゃないかって、私結構本気で心配してるのに」
「わ、悪い……でも、っふ、界隈……」
「ツボってるのそこなの!? 別に変な日本語じゃないでしょ。日常日本語の範疇だよ」
「そうなんだけど……けど、界隈……。あの人たち、何界隈の人ってことになるんだろうな、とか……くっ、くく、」
「じわっとツボの深みにハマってくのやめてよ」
陀宰くんはそれからしばらく、ひとりでじわじわウケ続けていた。私もはじめは面白かったり照れたりしていたが、次第に何を笑ってるんだと腹立たしいような気分になり、最後には「陀宰くんがこんな笑い上戸だと思わなかった」と文句を言った。
陀宰くんはそれでもしばらくは笑いの波が引かなかったが、笑いながらでもどうにか「大丈夫だよ、普通にちゃんとした人たちだから」と教えてくれた。私はもう『界隈』の人たちをほとんど疑ってはいなかったが、それでも陀宰くんの言葉を聞き、少しだけほっとした。
そんなふうに笑いながら歩いているうちに、いつのまにかバス停に到着していた。凝部くんはまだ追いついてこない。けれど陀宰くんがそれほど気にしていなさそうだから、私も気にしないことにした。困ったらバングルで連絡を取り合えるのだし、凝部くんだって子どもではない。それほど心配することもないだろう。
バス停前のベンチに腰をおろした陀宰くんは、笑顔で固まったままの顔を空に向け、天を仰ぐ。
「はー……笑った……」
「笑ってくださって、どうもありがとね」
「怒んなよ。心配してくれたのに、悪かったって」
「別に怒ってないよ。陀宰くんの笑いに貢献できたならよかったと思ってるし。一日一善」
「今のも善行カウントなんだな」
「あんなに笑っておいて善行にカウントしてくれないの?」
「いいよ、善行。立派な善行だと思う」
「適当だなぁ」
陀宰くんがあまりに適当なので、私まで笑えてきてしまった。しばらく思うままに笑いながら、陀宰くんとこんなふうに笑い合うのは、再会してからはじめてのことだと気付く。
思えば私は陀宰くんの前では、ひどく固くて重たい殻に閉じこもるようにしてばかりだった。殻の隙間から陀宰くんの様子をうかがっては、ひとりで一喜一憂していた。
(いっそ昔出会ったりしなければ。高校ではじめましてで出会っていれば、もっと気持ちも楽だったのかな)
今目の前にいる陀宰くんに、私はたしかに惹かれていた。もはや疑いようもない。十年来の片思いとは、まるきり別の感情だ。あの頃の陀宰くんではなく、今の陀宰くんに、私は恋をしようとしている。
けれど――
「苗字さ、最初の印象と実際の感じ、結構違うな」
唐突に陀宰くんが言う。どきりと、心臓が嫌な鳴り方をする。
(『最初』の印象……)
私は膝の上に置いた鞄の持ち手をぎゅっと握りしめ「……そう?」と努めて平静を装った。
「なんていうか、最初はもっと、静かなタイプかと思った。気が弱そうというか」
「それでちゃんと合ってるよ? 静かで気が弱そうで、か弱くてお淑やかで可愛い女子でしょ」
「そこまでは言ってない」
わざとらしく呆れた顔をつくる陀宰くんに、私は「えぇ?」と抗議の声を上げた。……大丈夫、いつも通りにできている。
「そもそも陀宰くんの言う『最初』って……いつのこと?」
「高二でクラスが一緒になったとき」
「高二……」
分かっていたことだ。それなのに暗雲が立ちこめるかのごとく、落胆が胸を勝手に覆った。
陀宰くんにとっての私は、高校二年の春に現れた同級生のひとりに過ぎない。陀宰くんの記憶と世界には、高校二年の春より前に、私という人間は存在していない。そのことを、今になって目の前に突き付けられたようだった。
分かっていた、覚悟していたことだ。それなのに、頭を鈍器でがつんと殴られたような気分になる。浮かれていた気分が、みるみるうちに萎んだ。ベンチに座っていてよかった。気分の高低の落差から、立っていたらふらついていたかもしれない。
陀宰くんは、なおも話を続ける。
「苗字、クラスでもあんまり話さない方だろ。だから、最初は静かなタイプかと思ってた。というか、わりと最近までずっとそう思ってたかな」
返事を、しなければ。
まだショックの中にありながら、そのことだけがはっきりと頭に浮かんだ。浅い呼吸を知られないよう、注意深く呼吸を整える。沈黙に違和感を抱かせない、ぎりぎりまで心を落ち着かせ、私はようやく笑顔で言った。
「それは分かったけど、静かで気が弱そうで、ついでにか弱くてお淑やかで可愛いとまでは思ってくれなかったの? ていうか陀宰くん、さっき私のこときれいって言ってくれたじゃん。あれは嘘だったってわけ? いつから私のこときれいだって思ってたの?」
「……ノーコメント。つーかノリが凝部みたいになってる」
「さすがメイちゃん、ちょっと狙った」
「モノマネうまいな。いや、わりと真面目に」
感心した声を出してから、陀宰くんは「ていうかメイちゃんって呼ぶなよ」と思い出したように付け足した。その頃には私も表面的なショックからは立ち直り、冗談で誤魔化すだけの余力すら持っていた。
(最悪の気分だけど、最悪の事態にはならなくてよかった)
はからずも凝部くんに助けられてしまった形だ。別に凝部くんの真似で凌ごうとは思っていたかったけれど、咄嗟の極小キャパシティでは誤魔化す手段の引き出しも少ない。それに何より、凝部くんのあの口調は本心を覆い隠すのに物凄く便利なのだ。
ともあれ、安堵に胸を撫でおろす。と、そのとき。
「何なに、何をふたりで盛り上がってんの? 聞こえてきた感じ、僕の話で盛り上がってた気がするんだけど、人をだしにしていちゃつくのやめてくんない?」
いつからいたのか、凝部くんが笑いながら私たちのあいだに割って入る。私と陀宰くんは顔を見合わせて、
「本家だ」「本家だな」
と言い合った。
ほどなく、私の乗るバスがやってきた。ふたりに手を振り別れを告げると、私はさっさとバスに乗り込む。陀宰くんの笑顔をまっすぐ見つめるのが苦しくて、だからこそ私はバスが発車するまで、意地になって車窓から陀宰くんばかりを見つめていた。
バスが動き出し、ようやく陀宰くんを見つめなくてもよくなると、途端に全身から力が抜ける。身体がぐったりとしている。私はシートに体重をあずけ、目を瞑った。
今の陀宰くんに惹かれつつある気持ちには、嘘いつわりは一つもない。それはたしかに明言できる。
けれど今更、十年来の執着を捨てられるはずがなかった。だってその執着はすでに、私の身体の、心の、一部分に成り果てている。もともとあった私と混ざって溶け合って、分けて考えることができないほどに癒着してしまっているのだ。
芽生えかけの恋心と、煮凝った愛着。それらが上手く折り合わず、私の中でたえず喧嘩を繰り返している。私だけが、勝手にひとりで消耗して、勝手にこうして傷ついている。
(いっそ、私も忘れてしまいたかったよ)
陀宰くんと同じように、高校二年の春を、私たちの最初にしたかった。それならばこんなふうに、陀宰くんのかけた呪いで傷つき、苦しむこともなかったのに。