孤独を撫でたら
恋愛感情というものがどういうものなのか、今もって私は、よく分かっていないような気がする。好きだとか、付き合うだとか、結婚するだとか。
陀宰くんに告白したあの頃の私は、それらの言葉を、たしかに知ってはいた。けれど、その中身についてはまるきり無知だった。そして今も、そのことに変わりはない。
◇◇◇
グループ学習のため開放された特別教室は、付属の大学と一部施設を共有していることもあり、普段使用している教室よりも広々として自由度が高い。丸テーブルの中心に置かれた共同ディスプレイには、グループのメンバーであるヒヨリちゃん、陀宰くん、凝部くん、そして私が集め持ち寄った資料が、フォルダごとに分類され展開されていた。個人のバングルのディスプレイにも同じ画面が表示されているが、単純にディスプレイのサイズの大きさから、共同ディスプレイの方が使い勝手がいい。
「ていうか、グループ学習って。高校二年にもなってやること?」
指先ですいすいとディスプレイ上の情報を操作しながら、凝部くんが不満をこぼす。共同活動だというのに、個人的な不満を隠そうともしないその姿勢には、一周回って尊敬の念すら湧いてくる。
「文句ばっか言ってないで、凝部くんも作業してよ」
委員長然とした反論をするのはヒヨリちゃんだ。私などはこの頃では、たとえ凝部くんに不満を持ったところで滅多に口に出さなくなっている。それは単純に舌戦だと分が悪いうえに、わざわざ言い立てるほどの大きな不満でもないからだ。
だがヒヨリちゃんは持ち前のお姉さんらしさを発揮して、根気強く凝部くんに付き合っている。そういう熱意は私にはない、ヒヨリちゃんの美点だ。偉いなぁと、私はしみじみ感心してしまう。
とはいえ親身さと熱意があるからといって、凝部くんの手綱を握れるわけでもなく。
「してよっていうか、現状僕が一番グループに貢献してるんですけどー」
「それは、たしかに……」
「分業がうまくハマったよな。凝部と苗字が情報収集担当、俺と瀬名が資料まとめ担当」
「物は言いようだね」
「そうそう、メイちゃんの言うとおり。手を動かす作業はキミたち得意でしょ。僕は頭脳労働担当☆」
そう言って凝部くんは、個人のディスプレイをオフにしてしまう。まったく悪びれた様子もなくペン回しを始めてしまったその様子に、私たち三人は深い溜息を吐いた。
凝部くんの文句に同調するわけではないが、高校二年の秋にもなってグループ単位での調べ学習をしている高校は、全国的に見ても珍しいような気がする。進学校ならば尚更だ。
月桂高は、生徒の大半が付属の大学に内部進学する。だが月桂大はどの学部をとっても偏差値が高く、受験生からの人気も高い。当然、内部進学生であっても成績が振るわなければ、進学時の試験に落とされることもある。
それでも外部受験生に比べれば、いくらか気楽な心構えの生徒が多いことは否めない。そんな呑気さのあらわれが、このグループ単位の調べ学習ともいえた。
カリキュラム上は、情報処理の実習。が、必修というわけではないので、大抵の学校は映像教材をひとコマ見ておしまいにしている。うちの高校がこうも熱心にこの授業をやるのは、月桂高の卒業生が情報局の偉い人と昵懇だからだとか、そうじゃないとか。とにかく、噂だけは色々聞く。
閑話休題──
膨大な情報のなかから、課題に使えそうな部分をピックアップしていく。学外の公開資料は凝部くんがあらかた見てくれているので、私は学内に保管されている資料に深く目を通す役割を担っている。
古い資料のなかの、特に重要そうな部分をタップする。と、突然ディスプレイ上にアラートのウィンドウが開き、画面にざざっとノイズが入った。
「あ」
小さく声を洩らすと、作業をしていたヒヨリちゃんと陀宰くん、器用にペン回しをしていた凝部くんが、揃ってこちらに顔を向ける。
「どうしたんだ、苗字」
尋ねる陀宰くんに、私は腕を差しだした。バングルが示す砂嵐とアラートを見せると、陀宰くんは眉をひそめる。横から凝部くんが「データ破損?」と問いかけた。
「そうみたい。読もうと思ってたここ、データを開けないって。図書室に行かないと内容参照できなさそう」
「図書室? あそこだって、蔵書は全部データ管理でしょ」
「そもそも図書室って、どこにあるんだ」
「バングルでデータの貸出もしてくれるから、そういえば何処にあるのかは知らないかも」
凝部くん、陀宰くん、ヒヨリちゃんが口々にコメントする。私は高校に入学したばかりの頃に一度だけ図書室を利用したことがあり、たまたま場所を知っていた。
「大学部と隣接してるところにあるから、ここからなら歩いてすぐだよ」
「そうなんだ。使わないと分かんないね」
「ていうか、行ったところでその壊れてるデータが、修復されるわけでもないでしょー?」
「それはそうなんだけど。でも多分、原本になってる資料が図書室にはあると思うんだよね。結構古い資料みたいだし、そうそう破棄はしない気がする」
「へー、けどわざわざ原本見に行くなんて、なんともまあ面倒くさそうなことだね」
またしても凝部くんが協調性のない言葉を発した。とはいえ、ここで凝部くんと言い争うのも面倒だ。別にみんなでぞろぞろ図書室に行く必要もない。凝部くんのことだから、そこまで見越して腐しているのだろう。
「いいよ、私が行ってくるから」
私がそう言うのを待っていただろう凝部くんは、「はーい、じゃよろしく」とにやけた顔を私に向けた。なんだか、うまく使われている気がする。
釈然としない思いで椅子から腰を上げる。と、私が立ち上がったのとほとんど同時に、
「じゃあ私も一緒に行こうかな」
「俺も」
ヒヨリちゃんと陀宰くんも揃って椅子から腰を上げた。面倒見のいいふたりは、私に付き合ってくれるらしい。
ふたりに視線を向けられて、凝部くんはむすっと口を尖らせた。
「えー、なに? 僕以外全員図書室行くの?」
「凝部くんは待ってていいよ」
ヒヨリちゃんが、少しだけ意地悪く笑う。日頃の意趣返しだろうか。実際、別に凝部くんが来なくても困るということはない。
「珍しく瀬名が強気だな」
「そういうの嫌いじゃないけどさー……。それで『じゃーはいよろしく☆』とは、さすがの僕も言えないでしょ」
「言ってもいいと思うけど」
「いいよいいよー行きますよー」
「来なくていいって言った途端これか。本当、ひねくれてんな……」
「でもグループに一体感があるのは嬉しいね」
ほくほくと微笑むヒヨリちゃんに、私もつられて笑ってしまう。
テーブル上の荷物をまとめると、私たちは特別教室を後にして、四人で図書館へと向かった。
授業時間中の図書室は閑散としていて、建物自体がしんと冷えていた。数年前の改装以来、図書室は情報の集積および発信基地としての役割を強めている。わざわざ足を運んで紙の蔵書を読む学生も、今の時代はほとんどいない。
蔵書検索をしたところ、目当ての資料は地下の閉架におさめられているとのことだった。エレベーターで下層までおりる。到着した閉架には所狭しと書架が並べられ、そこには私たちを圧倒するように頭上まで、みっちりと資料が詰め込まれていた。
「これはすごいね。さすがにこの量の書物って、あんまり見ないよ」
凝部くんが辺りを見回し、感心したように言う。
「『あっち』の図書館もすごかったけどな」
「メイちゃーん」
「……ああ、悪い」
凝部くんに諫められ、陀宰くんが口をつぐむ。ヒヨリちゃんは曖昧な顔で、フォローすべきか決めあぐねているようだ。
と、凝部くんと目が合って、何やら意味ありげに微笑まれた。今の話はきっと、例の秘密についての話なのだろう。気になりつつも、私は資料探しに頭を切り替える。
目的の資料の在り処はすぐに見つかった。
よほど大切な資料なのか、それとも逆に処分のタイミングを逸しただけなのか。目当ての資料は、最奥の棚の、さらに最上段というかなり手に取りにくい場所に保管されていた。
「資料、あそこかぁ。あ、踏み台あるね。あれ乗れば取れそう」
すぐ近くに若干ほこりを被った踏み台を発見し、それを棚の前まで足で運ぶ。いざ資料を取ろうと踏み台に足を掛けたところで、「待った」と陀宰くんが私を制止した。
「いいよ、俺がとる」
「……陀宰くんでも踏み台使わなきゃ届かないと思うけど」
「そうだけど、そうじゃなくて……」
「スカートの中身が見えちゃうかもーって、気にしてるんだよね、メイちゃんは」
「……お前、分かってても言うなよ」
陀宰くんのげんなりした声に、「え」と思わず呟いた。たしかに、踏み台に乗って高所に手を伸ばそうとすれば、スカートの中身が見えてしまってもおかしくない。私もヒヨリちゃんもスカート丈はそう短くないが、もしかしてということは十分にあり得る。
「こういうとき、陀宰くん優しいよね」
ヒヨリちゃんに言われ、陀宰くんはぷいっと顔をそらす。
「ていうか、見るからに資料重そうだし。女子に高いところの重いもの持たせるのは、普通避けるだろ」
目をそらしながらの言い訳も、陀宰くんの優しさを裏打ちするものでしかない。ヒヨリちゃんは見慣れているのか、にこにことあたたかな眼差しを陀宰くんに向けている。凝部くんにも特に驚いた様子はない。やはり、陀宰くんの振る舞いを『陀宰くんらしい』と受け止めているということだろう。
私だけがひとり、ぽかんとして陀宰くんを見つめていた。
その間に陀宰くんは踏み台を使って、目当ての資料を取り出す。中身はバングルのカメラで撮影し、データ修繕の依頼を出すため受付に持っていくことにした。
一連の作業はあっという間に終了し、私たちはさっさと図書室を後にする。すでに図書室での遣り取りは忘れ去られ、私以外の三人は課題の進め方について相談を始めていた。
「……変わったね、陀宰くん」
校舎に向かい歩く道すがら、思わず、そんな言葉が口をついて出た。
意思を持たずにこぼれ出た言葉は、幸いにして誰の耳にも届かず消えてくれたらしい。
「え? 何だって?」
首をかしげ、陀宰くんが問い直す。一番近くにいた陀宰くんに聞こえていないということは、ヒヨリちゃんたちにも聞こえてはいないだろう。
思考のゆるみを引き締めて、私は「別に!」と返事をした。
「ただ、陀宰くんは変わってるねって言っただけ」
「そうか……? 自分で言うのもなんだけど、俺、かなり普通の人間だと思う」
「逆に名前ちゃんはメイちゃんのどのあたりを見て変わってると思ったの?」
「どこっていうか……」
「陀宰くんは優しいよね」
「いやいや、今してるのはメイちゃんが変わってるかどうかって話だから、優しいっていうのはまた少し違うでしょ」
私の言葉を起点に、三人はまたわいわいと話に花を咲かせる。私が傍から見ていても分かるほどに、調和のとれたグループだ。
(やっぱり、三人で輪っかが閉じてるんだなぁ)
うっすらとした寂しさが、身体の中を隙間風のように通り過ぎていく。
分かっていたことだけれど、やはり私は、輪のなかの一員にはなれない。それを改めて突き付けられたような気がした。
ヒヨリちゃんや凝部くんが知っている陀宰くんを、私だけが知らない。それは当然だろう。私は今の陀宰くんのことを極力知らずにいられるようにと、一学期のあいだそれこそ死に物狂いで陀宰くんを避けていた。
これ以上惹かれることが怖かったのだ。一学期の最初には、陀宰くんはもうヒヨリちゃんに惹かれ始めていたから。
今の陀宰くんは、私が知っていた幼い頃の陀宰くんとは違う。少なくとも昔の陀宰くんならば、あんなふうに分かりやすい優しさを、平然と差しだしたりはしなかったことだろう。
昔の陀宰くんと今の陀宰くんが違うことに、落胆しているわけではない。ただ、自分で思っていた以上に、困惑はしていた。
私が好きだった陀宰くんは、小さな頃の少しぶっきらぼうな陀宰くん。けれどじゃあ、そんな陀宰くんが今もまだ彼の中に残っているのかと問われれば、私には分からないとしか言いようがない。それに、そういう陀宰くんのことが今もまだ好きなのかと言われても、やはり私には分からない。
十年来の思いはもはや、執着と呼んでもいいような代物に成り果てている。そのことは間違いない。
それなのに、さっき私は陀宰くんに分かりやすく優しくされて、不覚にも胸をときめかせてしまった。私の知らない陀宰くんに、心をぎゅっと掴まれた。
(だから頑なに、避け続けてきたのに……)
好意を感じてしまったことが苦しい。だからこんなふうに近づくべきではなかったんだと、後悔に駆られたところで後の祭りだ。
認めるしかない。私の知らない陀宰くん――ヒヨリちゃんや凝部くんが当然のように受け容れている陀宰くんに、私は寂しさを感じるのと同じだけ、心惹かれてもいる。当然のように差しだされる優しさを、これまで感じたことがないくらい嬉しいものと思ってしまう。
(……諦めるって、決めたのに)
身を退いて、せめて陀宰くんの幸せを見守りたいと、そう思っているはずなのに。今になって浮ついた恋心を持て余している自分に、私はひどく困惑していた。
◇◇◇
「まーた視線がメイちゃん追ってるよ?」
特別教室に戻り、作業を再開してしばらく。私の隣で椅子のキャスターをごろごろ言わせていた凝部くんが、つん、と私の肩を叩いた。
私の視線の先には、集めた資料の展示について、肩を寄せ合い相談し合う陀宰くんとヒヨリちゃんがいる。資料収集を中心に担当した私と凝部くんは、ヒヨリちゃんたちから具体的な指示が来るまで、いったん休憩していていいと言い渡されていた。
陀宰くんに視線が向いていたのは無意識だったが、指摘されてみるとたしかに、私はしっかり陀宰くんを視界におさめ続けている。むしろ無意識でやってしまっている分、何ともストーカーじみていた。
「……そうやって観察するのやめてほしいんだけど」
「それを言うなら、僕の目の前でメイちゃんばっかり目で追うのやめてくださーい」
精一杯の反論も、あっさり退けられてしまう。言葉を詰まらせた私に、凝部くんはこれみよがしに溜息を吐いて見せた。
「そんなにメイちゃんとヒヨリちゃんのことが気になるなら、分担作業をするってなった時点で、名前ちゃんがメイちゃんかヒヨリちゃんのどっちかと組めばよかったのに。メイちゃんに気でも遣ってるの? それ、多分メイちゃんに伝わってない自己満足だと思うけど?」
「……凝部くんって、本当に言い返しにくい嫌なこと言うよね」
「ま、ね☆」
そして癪なことに、凝部くんの言い分は間違ってはいないのだった。
分担して作業をしようと言い出したのは陀宰くんだった。もちろんそこに、下心などなかったことは間違いない。いや、あわよくばくらいには思っていたかもしれないが、そこで露骨にヒヨリちゃんと組みたがるような真似を、陀宰くんはけしてしない。
それならば、凝部くんの言うとおり、私がさっさと陀宰くんとのペアに立候補する手もあった。調べ学習に必要とされるスキルなど、そう大したものではない。凝部くんは別にしても、誰がどの役割を担当しようが、最終的に完成する提出物のクオリティは大体同じようなものだろう。
それでも、私は言えなかった。身を引いたつもりはなかったが、結果だけ見れば身を引いたとしか言いようがない。
グループ内に片思いしている人間がふたりいて、うちひとりが消極的な態度をとる。そうなれば、残るもうひとりの希望が――それがどれほどあけすけでないとしても――通るのは、至極当然の成り行きだ。
視線を陀宰くんから引きはがし、私は自分の指先を眺めた。放っておくといつまでも、未練がましく陀宰くんばかり目で追ってしまう。意識して他のものを見るようにしていると、指先についたインクの汚れが目についた。
「いい加減、秘密の話を教えてくれる気にはなった?」
凝部くんが声を低めて聞いてくる。声には面白がるような響きが、隠す気もないのかはっきり滲んでいる。
「そんな気にはなってないし、今後もならないよ」
「秘密にされるほど燃えるのはたしかだけど、少しくらいヒントとかないのー?」
「なんで明かしたくない秘密を暴かれようとしてるうえに、さらにヒントなんてあげないといけないの」
「ゲームはフェアじゃないと」
「私にデメリットしかないゲームのフェア性を担保する気はありません」
そっぽを向いて私が言いきると、凝部くんは意外にも「へえ」と思案深げな声音で応じた。思わず私は首を巡らせ、凝部くんの顔をまじまじ見返す。特別教室にはそれなりの人数の生徒が集まっているが、私たちふたりの会話に注意を払っている生徒は、教室内にひとりもいなかった。
「それって」と、凝部くんが続ける。
「逆に言えば名前ちゃんは、メリットがあれば秘密を明かしてくれるの? たとえば? メリットって物質的なもの? それとも情報とか、あるいはもっと別の何か?」
「うーん……。そうはいっても、凝部くんから何か欲しいわけでは……」
そもそも私は、メリットがあったら話す、などとは一言も言っていない。ただデメリットしかないゲームなんて嫌だ、と言っただけだ。なにかが欲しいというわけではない。強いて望みを言うのなら、凝部くんにはこの件はもう放っておいてほしいというくらいだった。
「じゃあ、僕ら三人が――厳密に言えば三人だけじゃないけど――共有してる秘密のヒントをあげるとかは?」
さすがに凝部くんは、いいところを突いてくる。さっきの図書館での遣り取りを思い返せば、凝部くんの提案は非常に魅力的なもののようにも思えてくる。
しかし、私は凝部くんからの提案を蹴った。
「……それは要らないって、前にも言った気がするんだけど」
「んー、でもそれって本心じゃないでしょ? 知りたくないとは言ってない、ってたしかキミ、言ってたし。教えてもらえるなら知りたいと思うのが人間じゃん」
「…………」
言葉尻をとらえてあげつらってくるようで、きちんと核心をついてくるところがまた恨めしい。私が返事をせずに黙っていると、凝部くんは「黙っちゃってー」と溜息を吐いた。
「別にもっと直接的なメリットが欲しければ、僕はそれでもいいんだよ? メイちゃんとの恋のキューピッドになってあげるとか」
「それは本当にやめて」
思わず鋭い声で返事をしてから、はっとした。瞬時に、失敗したのだと悟る。凝部くんが柳眉を下げ、意地の悪い笑顔を私に向けていた。
……してやられた。内心で歯噛みする。まんまと凝部くんの思惑に乗ってしまった。
「そんなマジの拒否とか、いよいよ暴きたくなっちゃうんだけど」
追い打ちを掛けるように、凝部くんが言った。凝部くんとふたりで話していると、こんなふうに追い詰められてばかりだ。私は大きく一度息を吐き出して、目を瞑る。そうして胸のうちのざわめきをしずめてから、改めて凝部くんと向き直った。
「陀宰くんは、ヒヨリちゃんのことが好きだよ」
周囲への配慮で声を低めたつもりが、発した声は無様に掠れる。まるで呻き声のようだった。
「そーだね。でも今のところ、ヒヨリちゃんにその気はないっぽいよ」
「……だからって、陀宰くんのヒヨリちゃんへの気持ちがなくなるわけじゃないし」
「そして、キミのメイちゃんへの気持ちも消えない」
間髪を容れずに打ち返され、私はまた返答に窮して黙った。
凝部くんの言葉はいちいち嫌味かと思うほど、どれをとっても正しい。少なくとも、私が諦めるだの諦められないだの、そんなことをぐだぐだ捏ねくり回しているよりは、ずっときっぱりしていて現実に即していた。
私は陀宰くんが好きで。
陀宰くんはヒヨリちゃんが好きで。
けれどヒヨリちゃんが陀宰くんの気持ちに応えるつもりがないのなら、別に私が身を引く必要はないわけで。
言葉にすればこうも単純なことだ。誰が聞いても、凝部くんの言い分にこそ正しさを見出すだろう。
けれど、凝部くんは致命的に間違えている。それは私が秘密にしている事情を、凝部くんは知らないから。どれだけ理路整然と正しさを振りかざそうと、前提条件を間違えているうちは、永遠に答えに辿り着くことはない。
「陀宰くんに告白する気はないよ」
もう一度、今度は声が掠れないよう力をこめて、私はきっぱりと言い渡した。
「できれば凝部くんにも、もう私のことは放っておいてほしい。私の、陀宰くんへの気持ちのことは」
凝部くんが、胸の前で組んだ指をゆるりとほどく。そして「……参ったね」と、彼にしては珍しく、本当に弱ったような真面目な声でぽつりと呟いた。
「僕は目の前にあからさまに怪しい嘘や秘密があったら、どうしたって暴いてしまいたいんだけど……。でも、そうだね。さすがにこれ以上は自分でも、悪趣味だって思うかも」
「……意外。凝部くんに、こうやって聞き入れてもらえるとは思わなかった」
「キミ、僕のことなんだと思ってるの?」
ひねくれ者の高校二年生、という返事は、胸のうちに留めておいた。せっかくこちらの言い分を呑んでもらえたところだ。不用意に凝部くんの機嫌を損ね、せっかくの譲歩を台無しにしてもらいたくはなかった。
ちょうどその時、授業終了を告げるチャイムが鳴る。陀宰くんとヒヨリちゃんが、くるりとこちらを振り向いた。私はヒヨリちゃんに向け、ひらひらと手を振って笑いかける。横顔には凝部くんからの、もの言いたげな視線が刺さっていた。
「分かったよ。これ以上キミのメイちゃんへの気持ちを、詮索したり踏み荒らしたりしない」
先程までよりもさらに声をひそめて、凝部くんが言う。ざわついた教室内でも、凝部くんの小声は不思議と聞き取りやすかった。
「約束してくれるの?」
「いいよ、約束する」
感謝してよね、と押しつけがましくも言う凝部くんに、私は素直にお礼を言った。
「ありがとう、凝部くん」
「……こんなことでお礼言われてもね」
自分からお礼を求めてきたくせに。なんだか釈然としないというような調子で、凝部くんはぼそりとぼやいた。