嘘と嘘とときどき嘘
校舎を出ると、光の色がわずかに橙がかっているような気がした。空の色はまだ澄んだ水色でも、夕暮れが少しずつ空気に混ざり始めている。市内はバスの交通網が発達しており、ほとんどの生徒はバス通学をしている。陀宰くんと凝部くん、それに私はのんびりとした歩調で、高校前のバス停へと歩いて行った。家の方角が違うので乗るバスは違うが、バス停まではみんな一緒だ。
「そういえば。名前ちゃんって小さい頃はこの辺に住んでたんだっけ」
雑談するのに丁度いい、だらだらとしたペースで歩きながら、凝部くんがふと思い出したように言う。この辺、というのはざっくりした表現だが、とはいえ間違っているわけではなかった。昔住んでいた家も、ここからバスに乗ればそう遠くない。
「そうだね、今も昔も父親の職場に近いところに暮らしてる」
「古巣に戻る、って感じか」
陀宰くんの言葉に、そういうこと、と頷いた。
十年ちかく前、父は情報管理局の本部に勤務していたが、さらに上のポストへの昇進という名目で、遠方の支部に転勤になった。こちらに戻ってきたのは、情報局本部での不祥事の事後処理にあたるためだと聞いている。
「名前ちゃんち、転勤族なんだっけ。引っ越しばっかって疲れない?」
「ばっかりってわけじゃないよ? ここから出て行って、十年くらい同じところに住んで、そのあと帰ってきただけから」
「あ、そうなんだ。へー」
「凝部くん、興味ないなら無理に聞かなくていいんだよ……」
父が情報管理局員であることは大っぴらに話すことではないし、そもそもこれは雑談だ。だから適当にされたところで別に構いはしない。だが、これでも一応は真面目に答えているのだ。そこまで露骨にどうでもよさそうにされると、さすがに多少はむっとする。
私がじとりと睨みつけても、凝部くんは「興味なくはないって」と笑っている。
「けどそこから話を広げるのって、結構無理があるなと思って。よその家の事情に首突っ込むのもなんだし」
「凝部くんにもそういう配慮とかあるんだ」
「あるある。常識も良識も普通にあるけど、発動しない方が手っ取り早いから、しない時の方が多いってだけ」
「なるほど参考になりまーす……」
「昔住んでたのもこの辺ってことは、市内ってことだよな。学区どの辺だったんだ?」
執り成すように、陀宰くんが会話に割って入った。
「ええー、どこだろう。というか市内、区画整理しまくってるよね? 戻ってきてびっくりしたんだけど」
私が笑って首を傾げると、陀宰くんもつられてか、口許をほころばせる。これもまた、雑談だ。私の学区がどこだろうと、それほど大きな問題ではない。たとえ判明しなくても、滞りなく会話は進む。
「幼稚園の名前とかも覚えてないのか」
「逆に、みんなそんなの覚えてるものなの?」
「俺は覚えてる」
「僕も」
陀宰くんと凝部くんが、声を揃えた。凝部くんは覚えているだろうと思っていたけれど、陀宰くんもちゃんと覚えていたのか。いや、そりゃあ通っていた幼稚園の名前くらいは忘れないか。そこで育み培った思い出の中身は、忘れてしまっても。
なんとなく意地の悪いことを考える。しかしすぐに、そんないじけたことを考える自分を恥じた。
「へえ、ふたりとも記憶力いいんだ」
笑顔でそう取り繕えば、にやりと凝部くんが口許を歪めた。
「いやー、それはどーだろーね? 僕は記憶力いい方だと思うけど、メイちゃんは別に普通じゃない?」
「あぁ?」
「だってそーじゃん。記憶力いい人は普通、補習なんか受けないでしょ」
「それとこれとは話が違うだろーが」
「僕には同じことに思えるけどね」
凝部くんに煽られて、陀宰くんがむっと眉根を寄せた。私の記憶している限り、陀宰くんの成績は本来それほど酷くないはずだ。追試を受けたのだって、今回がはじめてのはず。
「まあまあ、凝部くんの記憶力がすごいのはよーく分かったよ」
陀宰くんをフォローしようと口を挟むも、
「僕も名前ちゃんの記憶力がかなり頼りない、ってことはよく分かったよ」
呆気なく返り討ちにあう。通っていた幼稚園の名前も思い出せないふりしてしまった手前、反論のすべはない。
「まあ、そうだね。返す言葉もございません」
見ると陀宰くんも気の毒そうな顔をして私を見ている。舌戦で凝部くんに勝とうというのは、私たちには無謀な挑戦だったらしい。記憶力が良ければ頭の回転も早く、容赦がなくて弁が立つ。なるほど、凝部くんと渡り合っていくためには、それなりに覚悟が必要そうだ。
「まあでも、俺も苗字も、記憶力が悪いってほどじゃないだろ。凝部の物覚えがいいってだけで」
「そうだよね。うん、私もそう思う」
「あーあ、傷のなめ合いご苦労様」
「凝部……、お前そういう言い方やめろよ。俺にはともかく、苗字には」
「え、じゃあ今後はメイちゃんだけに照準を定めていいの?」
「……いや、それもやめてほしいけど」
「んもー、あれもやめろこれもやめろって、メイちゃんちょっとわがまますぎない?」
「お前が煽るのをやめればいいんだよ!」
しばらくそうして雑談で盛り上がる。五分ほど経ったころ、私が乗るバスが停留所にすべりこんできた。
「あ、私バス来たみたい。また明日」
「また明日。バイト頑張れ」
「じゃねー」
ふたりに手を振り、バスに乗り込む。座席について人心地ついてすぐ、ヒヨリちゃん以外とこうしてバスを待つのはずいぶん久し振りだったこと、男子とあんなふうにたくさん話したのははじめてのことだったことに、私は今更気が付いた。
◇◇◇
バイトを終えて、帰路につく。バス停を過ぎたあたりで、ふと視線の先を見知った背格好のふたりが歩いていることに気が付いた。
「ヒヨリちゃん? 萬城くん?」
遠慮がちに声を掛けるとすぐに、ふたりが揃ってこちらを振り向く。すでにとっぷりと日は暮れていたけれど、ヒヨリちゃんたちは私と同じく月桂高の制服姿だった。さっき学校の方から走ってきたバスとすれ違ったところだから、ふたりはそのバスに乗っていて、ちょうどバス停で下車したところだろう。
先を歩いていた二人は、足を止めて私を待ってくれた。互いに表情がはっきり分かるくらいの距離まで近づくと、ヒヨリちゃんはにこりと微笑む。
「この時間ってことは、名前ちゃんはバイト帰り? おつかれさま」
「お疲れ様です、苗字先輩」
萬城くんが浅く会釈をしてくれたので、私も「おつかれさまです」と頭を下げた。
一学年下の萬城くんとは、ヒヨリちゃんを通じて知り合った。帰宅部の私にとって、それなりに話をする間柄の後輩は萬城くんだけだ。萬城くんは形式にのっとって私を『先輩』と呼ぶけれど、ヒヨリちゃんがいなければ特に話す気のない相手だと私に対して思っていそうなことは、私も薄々感じ取っている。
「ヒヨリちゃんを萬城くんに連れていかれたーって陀宰くんが言ってたけど、本当に一緒にいたね」
「連れていかれたって。トモセくんの演劇部のお手伝いに顔出してたんだよ」
ヒヨリちゃんが苦笑する。萬城くんが不服そうに眉根を寄せた。
「俺からしたら、陀宰さんがこいつを待たせてる方が不自然ですけど。そもそも追試に引っかかるなんて……」
「トモセくん、陀宰くんにも事情があるから……」
どうやら萬城くんは陀宰くんに対し、いろいろと思うところがあるらしい。ヒヨリちゃんを巡る恋模様を思えば、その理由も容易に察することができる。長年ヒヨリちゃんの隣を死守してきた萬城くんにしてみれば、ぽっと出の陀宰くんがヒヨリちゃんに向ける好意は、面白いものであるはずがない。
ちらりとヒヨリちゃんを見れば、意外にも狼狽えたりすることもなく、萬城くんをなだめている。萬城くんと陀宰くんを含め、ここにもまた、私の知らないなにかしらの変化があったのだろうか。そんなことを思いつつ、私たちは並んで歩き出した。
私の家とヒヨリちゃんたちの家は、歩いて十分ほどしかかからない距離にある。小学校の学区が同じで、最寄りのバス停や生活圏もだいたい重なっている。
ファミリー層が多い地区ということもあって、市内でもかなり治安がいい地区に分類される。日暮れ後のこの時間でも、そこかしこに街灯が設置されており、女子の一人歩きもそう怖くない。
「ヒヨリちゃんと萬城くんは、この時間まで部活?」
街灯の白色に照らされながら、世間話がてら私は尋ねた。
萬城くんの所属する演劇部にヒヨリちゃんが駆り出されることは、そう珍しいことではない。私の質問に、ヒヨリちゃんがうん、と頷いた。
「衣装の相談をしてたんだよね。トモセくんたちが資料をたくさん用意してくれてたから、それを見ながら」
「衣装は購入もしますが、自分たちで用意できるところは用意しないと、予算が厳しいので。ヒヨリが手伝ってくれて、演劇部の先輩方も助かってるみたいです」
「そうなんだ。萬城くんはヒヨリちゃんを引っ張ってきてくれるうえ、演技も上手なんでしょう。すごいねぇ」
「……どうも」
珍しくも萬城くんが、少し照れたような返事をする。うんうん、とヒヨリちゃんが我がことのように頷く。
「トモセくんは幼馴染だから。できることは私も手助け出来たらなと思ってるよ」
いい話だな、と私は感心した。けれど当の萬城くんは、むっとした顔でそっぽを向いている。幼馴染だから、と言われたのがお気に召さなかったらしい。
「俺はヒヨリが幼馴染じゃなくても、困ってたら何だってしてやるけどな」
「もー、今はそういう話じゃなくて……」
こういう遣り取りも、最近では珍しくなくなった。萬城くんが過保護なのは以前からだとして、ヒヨリちゃんのあしらい方がうまくなったのかもしれない。
いつもの遣り取りに埒が明かないと思ったのか、萬城くんが溜息を吐いて言い合いをおさめた。癖のない黒髪が、彼の身振りに合わせてさらりと揺れる。
凝部くんも美青年といったたたずまいをしているが、萬城くんもまた、白皙の美青年という形容が似合う風貌をしている。少年と青年のあわいで、彼はいつも不安定に揺れている。
その整った顔に少しだけ疲れたような表情を浮かべ、萬城くんは今度は私に視線を向けた。
「苗字先輩は幼馴染とか、そういうのはいないんですか」
いるといえば、いる。が、その話を今するつもりはなかった。
「うぅーん、わたしは小さい頃に引っ越してるからね。小学生以来の友達とかなら、今も連絡とってる子はいるけど、ヒヨリちゃんと萬城くんみたいにもっと小さい時から『ずっと』一緒っていうのは、うん、ないかも」
ずっと一緒でない幼馴染ならばいる。私のことを忘れてしまった幼馴染、ならば。しかし幸い、ヒヨリちゃんも萬城くんも私の言葉を素直に受け取ってくれたようだった。
「引っ越していく前、このへんに友達とかはいなかったんですか」
「どうだろう。でもいたところで、向こうは覚えてないと思うよ」
「まあ、案外そんなものですよね」
萬城くんは納得したように、私の言葉に同意した。すると今度はヒヨリちゃんが、
「私もトモセくんが隣の家に住んでなかったら、今みたいに仲良くはなかったのかな」
などと聞き捨てならないことを言い出す。当然のように萬城くんが不満をあらわにした。
「は? そんなことないだろ。家が隣じゃなくても俺はお前の隣にいたはずだ」
「そりゃあ私もそうだったらいいなと思うけど。でも、トモセくん人見知りなところあるし」
「人見知りはもう直った。今はそうじゃなくて、付き合う相手を考えているだけだ。というかお前こそ」
「私は幼馴染じゃなくてもトモセくんと仲良くなりたいと思ったと思うよ」
「俺だってそうに決まってる」
気心知れた幼馴染らしい微笑ましい遣り取りを、私は頬をゆるめながら聞いていた。ヒヨリちゃんは基本的には優しい子で、誰に対しても分け隔てなく接する。けれど凝部くんには『あしらう』としか言いようがない対応をしていることがあるし、萬城くんとの距離には、凝部くんに対するのとはまた違う気安さがある。
陀宰くんに対しては、どうだろう。親しみを感じているのは伝わるが、それ以上の感情が伴っているのかは、正直言うとよく分からない。
陀宰くんに対して照れたりはにかんだりすることはある。けれど、それ以上はない。分かりやすい感情表現がない。
ヒヨリちゃんは、凝部くんのような読めない性格ではない。むしろその反対で、比較的なんでも顔に出やすい素直な子だ。それならば、そこから導き出される答えはただひとつ。
確認したことはない。けれど多分、きっと、ヒヨリちゃんと陀宰くんのあいだに存在しているのは、陀宰くんの片思いだ。
陀宰くんは私と同じ、結実の見込みの薄い恋に身を焦がしている。
(いっそのこと、付き合っててくれた方が良かったのかもな)
そうすれば、私もすっぱり気持ちを捨てられたのかもしれない。片思いなんて、中途半端に付け入る余地が残っているせいで、私はこうして往生際悪く陀宰くんを目で追ってしまう。
(そんなの、無駄なことでしかないのに……)
片思いの執念深さや重たさを、私はいやというほど知っている。私が抱えているのと同じだけの質量や湿度の感情を、かりに陀宰くんがヒヨリちゃんに抱いていたとしたら?
どう足掻いても、私がそこに入り込むことはできない。それなのに、陀宰くんからの片思いだからという、ただそれだけを理由に、私は期待を捨てきれない――
「でも、案外月桂高にも名前ちゃんの幼馴染というか、小さい頃に会ったことのある子がいるかもね」
「それはたしかに。結構いろんな学区から生徒が通ってるしな」
ぼんやりと話を聞いていた私の耳に、ふたりのそんな会話が飛び込んできた。
『それが、本当に幼馴染が同じクラスにいるんだよ。その幼馴染っていうのが、ふたりもよく知ってる陀宰くんなんだけど』
絶対に口にすることのない言葉を、半ば無意識に頭の中で呟く。その途端、胸の中をむなしさが埋めつくした。
夕方、凝部くんと交わした会話をふいに思い出す。
私はヒヨリちゃんの優しさを、誠実さを、真摯さを信じている。全幅の信頼を寄せている。
けれどもしもこの先、ヒヨリちゃんが陀宰くんを好きだと言ったなら。
私はそれでもヒヨリちゃんのその判断を、疑わずにいられるだろうか。ヒヨリちゃんを責めずに、祝福できるだろうか。ヒヨリちゃんを妬まず、笑顔で気持ちを捨てられるだろうか。
歩みはほとんど無意識で、ペースもヒヨリちゃんと萬城くんに合わせている。空っぽになった胸を持て余したまま、足を機械的に動かしながら、私はその問いの答えを考え続けていた。