くまぼろしの断片・V

 さすが凝部というべきか。あれは的を射たコメントだったということだ。二年に進級し同じクラスになってから、苗字は巧妙に俺を避けていたのだろう。よく考えれば分かることだった。瀬名とどうにかして話しをしたいと思っていた一学期の俺が、瀬名の親友で、瀬名にべったりの苗字と話したこともないなんて、普通に考えればそんなことはあり得ない。
 苗字がふう、と息を吐く。俺が相槌くらいしか打たないせいで、苗字ばかりが話し続けていた。さすがに疲れたのか、苗字はすっかり冷めたお茶をこくりと一口飲み下す。
「話すの疲れたよな。悪い、いろいろ話させて」
「なんで? お茶してるんだから、話しくらいするよ」
 屈託なく苗字は言う。
「まあ、たしかに? 話すつもりがなかったことまで話した感じは、ちょっとあるけども」
「苗字は、聞いたらだいたいのことは教えてくれるよな」
「聞かれなかったら教えないことばっかりだよ」
「……そうだな」
 もしもボタンをひとつでも掛け違えていたら、今この場に苗字はいなかった。俺が苗字のことを忘れた時点で、たとえ瀬名のことがなかったとしても、苗字は俺と距離をとったから。きっとそのまま進級して、卒業して、俺と苗字は話したこともないまま別れ別れになっていたに違いない。
 もしもそうなっていたら、苗字は俺との思い出も約束も、すべて自分ひとりで仕舞い込んだまま、何でもない顔をして俺の前からいなくなったのだ。俺にいなくなったことすら意識させないまま。すれ違っていたことすら、さほど記憶させないまま。
 そのことを思うと、背すじがうすら寒くなった。
 たとえ俺にそんなことを思う資格がなかったとしても、ぎりぎりのところで苗字と出会いなおすことができてよかった。掛け値なしの本心で、そう思う。
 湯呑に残ったお茶を最後まで全部飲み干して、苗字がふうと息を吐く。俺と視線を合わせると、苗字は片頬を歪めて、わざとらしい意地悪な笑顔を顔に浮かべた。
「といってもさ、もし私が陀宰くんでも、きっとヒヨリちゃんを見つけたと思うんだよね。だから、なんていうか……仕方ないと思ったというか」
 ま、それでも結局こうして諦め悪く家まで押しかけてるわけだけど。そう冗談めかして話を締めくくると、苗字は今度こそきゅっとくちびるを引き結んだ。
 話すべきことはすべて話した、という意思表示だろう。
 まるで次は、陀宰くんの番だよと言われているようだった。特に何を迫られているわけでもないのだが、なんとなくそう思う。おそらく、苗字が胸の内のかなり奥深く、普段ならばけして晒しはしないところまで、胸襟を開いて話してくれたからだろう。
 俺も報いなければ。そう思った。
 冷たくなったお茶を飲み、くちびるを湿らせる。どこから話すべきか。何を話すべきか。束の間いとぐちを探す。
 しかし考えてみれば、そもそも俺は苗字と違って、話すべき過去を持っていないのだ。
 今の俺に話すことができるのは、そのまま今の俺についてだけ。それだけだ。そして今の俺を構成している要素のうち、もっとも苗字に話すべき要素は、間違いなく瀬名のこと。
「瀬名とのこと、話せる範囲で話そうと思うんだが……」
 嫌じゃないか、と聞くより先に、苗字は深く頷いた。無論、嫌じゃないはずはないだろう。それでも苗字は聞くという。その返事を信じて、俺も腹を括った。
「……まず、大前提としてなんだが、俺は瀬名にはすごく迷惑をかけたんだ。まあ迷惑を掛けた相手は瀬名だけじゃなくて、凝部とかも、なんだけど……。とにかく、あんまり詳しくは言えない事情で、いろいろあってさ」
「うん」
「気付いてるよな?」
「詳しくは聞いてないし、陀宰くんから聞くつもりもないけど。でも、そうだね。陀宰くんと凝部くんが情報管理局にいるところを、前に一度、見たことあるから」
 なんだ、見られていたのか。必死で隠していたことが馬鹿らしくなり、俺ははぁと溜息を吐く。苗字は「でも、詳しいことは何も知らないから安心して」と、微妙に的外れなフォローをする。
「いや、別にいいんだ。もう終わった話ではあるし。口外しちゃいけないことも色々あるが」
「うん、それは大丈夫。聞くつもりもないよ」
 物わかりのいい態度は、苗字のもとからの性格だろうか。それともすでに多くを悩み抜き、そのうえで出した揺るがない結論なのだろうか。俺は苦笑し、苗字にお礼を言ってから話を続けた。
「俺はそのときに瀬名に恩があって、なんていうか……感謝してる。その前から、瀬名のこと好きだったのは、そうなんだけど……。というかそもそも、瀬名に迷惑かけることになったのも、俺が瀬名を、諦めきれなかったからで。瀬名なら、大丈夫かもしれないって、俺が勝手に、期待をかけたからで」
 話しているうちに、自分の言葉が支離滅裂になっていくのが自分で分かった。言葉にするほどうまく気持ちがまとまらない。声に出したそばから、俺の実感から遠ざかるような気がする。
(こんなふうに話せるほど、俺はまだ異世界での出来事に対して、距離をとれていないってことか……)
 はからずも向き合った内面に、俺は思わず自嘲した。
 異世界での出来事も、瀬名を巻き込んだことへの罪悪感も。それらの過去を、俺は自分で思っていたほど過去のことにできていないのだ。苗字に話をしながら、そのことにようやく自分で気付く。
 過去のことになど、なっていなかった。
 俺の右目はもとに戻ったし、瀬名も笑顔で帰還した。
 それでもまだ、俺の中にはあのとき感じた孤独がしぶとくうずくまっている。あのとき抱いた、胸が張り裂けそうなほどの罪悪感が、今なお胸の内にこびりついている。
(ああ、そうか……)
 瀬名に思い出してもらえて、この世界に戻れて。
 それなのに俺が未だ瀬名に告白のひとつもできていないのは、異世界で背負ったものに、自分が未だ囚われ続けているからだ。たとえ瀬名が許してくれても、俺が俺を許せない。諦めないことと、前に進むことはこんなにも違う。
「大丈夫だよ、言わなくて」
 ふいに、苗字の声が俺の意識をすくいあげる。俯けていた顔をあげれば、苗字は眉尻を下げて困ったように笑う、見なれた表情で俺を見つめていた。
「苗字、」
「言いたくないことは、何も言わなくていいんだよ。秘密をたくさん持っていたとしても、たとえたくさん嘘を抱えていても、誰を好きで、何を忘れられなくて、どんなことに苦しんでいたとしても。私はそれでも、陀宰くんのことが好きだよ」
 声音はどこまでも優しいのに、語尾まで揺らがせることなく、苗字は言った。俺への慰めにも聞こえるし、苗字が苗字自身に言い聞かせているようにも聞こえる。
 浅くなっていた呼吸を取り戻すように、深く息を吐きだし、吸い込む。あたためられた陽だまりのようなにおいの空気に、ふいに記憶の奥底の何かが刺激されて疼く。
 顔を上げれば、苗字はまだ心配そうに俺を見つめていた。
「ごめん、――苗字、ありがとう」
 掠れた声はみっともなかったが、不思議と気分は悪くなかった。

 ●●◎●● 

 なんとなく苗字は帰り時を見失ったらしい。結局テーブルを離れたあとも、なんだかんだと夕方まで話をしていった。
 話しづらいことを腹を割って話したからか、俺も苗字も、憑き物が落ちたようにすっきりした顔をしている。途中からは苗字が自宅で見つけた幼稚園当時の写真を、バングルのデータにコピーしなおしてきてくれたものを、ふたりで一緒に眺めた。
 写真のなかの俺は、なんというかクソガキらしかった。わずかに残っている家族写真よりもずっと、やんちゃな男児っぽい顔をしている。どの写真にも、苗字がたいてい一緒に写っており、苗字が持参したものなのだから当然のことだが、不思議な気分になってくる。
「なんか、本当に幼馴染なんだな……」
 見知った喫茶店で一緒にケーキを食べている写真を見ながらしみじみ呟くと、
「ちょっと、今まで信じてなかったの?」
 と名前が呆れ混じりに詰め寄ってくる。
「信じてはいた。けど、写真があると説得力が違うだろ」
「そういうものかなぁ……。でも、この頃の陀宰くん可愛いよね」
「そうか? 普通にクソガキって顔してないか」
「まあ、クソガキではあったんじゃないの? 私しょっちゅう泣かされてたらしいし」
「え、そうなのか」
「そういうところはヒヨリちゃんと萬城くんとは違うね」
「あそこを引き合いに出されても」
 萬城の瀬名への過保護ぶりは常軌を逸している。どこからどう見ても付き合っていない高校生の男女の距離間ではなく、見ているこちらがやきもきしてしまう。やきもきする理由はもちろん、俺が瀬名を思っているからでしかないのだが。
 と、思考が逸れたところで「そうだ」と苗字が呟く。
「今度、陀宰くんもうちに遊びに来てよ。うちのお母さん、陀宰くんに会いたがってたよ」
 すっかり気の置けない友人のような物言いに、俺は喜ぶべきか困るべきか判断に困った。だが喜ぶも困るもなくてもいいのかもしれない。こうして写真を見ているうちに、苗字はなんとなく人格を過去に引っ張られたのだろう。それならば俺も俺で、そのまま受け止めればいい。
「苗字んちに行くのは構わないんだが……」
「だが?」
「いや、それまでに思い出せるかって言われると、自信ない」
 正直に答えると、苗字は「なんだ、そんなこと」と俺の懸念を一蹴する。
「覚えてませんってはっきり言えば? 多分うちの母だし『あらそうなの』で終わると思うよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんでしょ。みんながみんな私みたいに思い詰めてるわけじゃないし」
「リアクションしにくいこと言うなよ……」
「ネタにでもしていかないとやってらんないよって気が付いたから」
「そんなことに気付かないでくれ」
 開き直ったように言う苗字は、あははと楽しそうに笑い声をあげた。その笑顔にまた、救われる。
 苗字が思い詰めていたのはきっと事実。そしてその思い詰めるということ自体が、俺を追い詰めるのだと苗字は知っている。思い詰めていることをなかったことにはできないうえ、俺のせいで隠すこともできなくなった。それならばせめて少しでも軽く、明るく扱おうとしてくれているのだろう。
 同じ優しいのでも、瀬名とはまるで違う種類の優しさ。
 どちらの方が正しいとか、崇高とか、そういうことはきっと、ない。
「苗字」
 気が付けば、俺は苗字の名前を呼んでいた。苗字は笑いが残ったままの顔で俺を見て、「ん?」と軽く首を傾げている。
 腹に力を込めた。俺は今から、姉にすら引かれるかもしれないレベルの、超ド級の身勝手を押し付ける。
「なぁに、陀宰くん」
「あのさ、むしのいい話だとは思うけど……。その、待っててほしい」
 諦めないでほしい。
 それはクリスマスの夜、苗字に伝えたのとまったく同じ言葉だった。しかし今、その言葉の持つ意味はあの晩とは大きく異なっている。ただの精神論として、半ばその場の勢いで発しただけの言葉ではない。
「諦めないでほしい。俺が区切りをつけられるまで」
 俺がちゃんと、苗字と向き合えるようになるまで。
 苗字はぽかんと口を半開きにして、目を見開いて俺を見ていた。
「……ど、どうしたの。え? ヒヨリちゃんにフラれちゃったの?」
「そうじゃねーけど!」
「うそうそ、冗談。ごめんね、ちょっとびっくりしちゃって。落ち着くまで、少しだけ待って」
 苗字はぱちくりと瞬きを繰り返し、ゆっくりと普段の表情に戻っていく。すうはあと小さく深呼吸する音が静かに響き、それからさらに数秒後、苗字は「よし、落ち着いた」と微笑んだ。そして、
「今更だよ、陀宰くん」
 苗字のほころんだ目じりがほんの一瞬、きらりと光ったように見えた。しかしそれは、俺の見間違いだったかもしれない。
 俺を見つめる苗字の顔は、凛として涼しげだった。
「ずっとずっと、待ってるよ。待たなくていいって言われても、諦めろって言われても。もう、そうしようって決めてしまったから」
 胸がぐっと熱くなった。何か大きな塊が喉にせり上がってくるようで、俺は慌ててそれを飲み下す。
 目に力を籠め、くちびるをぎゅっと引き結ぶ。俺の締まらない顔のせいで、苗字のせっかくの言葉を台無しにしたくない。
 と、思ったのも束の間。
「まあ、陀宰くんのこと好きでいることに飽きちゃったら、そのときは許してね」
「飽き……なんか、すげえ嫌だな……」
 直前のいい感じのセリフを、あっさり台無しにするような苗字のセリフ。俺が苦々しげにコメントすると、苗字は今日一番の明るい笑顔で笑った。
「私も諦めないように頑張るから。陀宰くんも飽きられないように頑張ってね」

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