透くまぼろしの断片・U
――と、そんなふうに高みから観察し、分析したような気分になっていたからだろうか。「まあ、常識的に考えなくていいなら、私は陀宰くんとふたりきりで嬉しいけどね」
「う、えぇ……?」
予告なく直球の口説き文句をぶつけられ、俺は無様に狼狽えた。
苗字はさっきまでの困り顔はどこへやら、目を弓なりに細めてにやにや嬉しそうに笑っている。悪戯が成功した子どものような表情だ。
「あはは。陀宰くん照れた? 照れたよね」
「……不意打ちは、ずるいだろ」
「長期戦の構えだからって、何もしないとは言ってないよ」
この『してやったり』顔。まさか直前までの困り顔すらこのための伏線だったのか、と俺は頭を抱えた。なんだか疑心暗鬼になってくる。いや、さすがにそこまでの仕込みはないだろうけれど。いやいや、それでも苗字は凝部とやけにウマがあってるし、何より俺の幼馴染だと隠したまま数か月そ知らぬふりをしていたくらいだから、それもどうだか分からない。
「心配しなくても、さっきのは本当に困ってたよ?」
「おい。心、読むなよ」
顔を上げて俺が睨むと、名前はうふふと嬉しそうに笑った。
「陀宰くんって結構、考えてること全部顔に出るよね」
「それ、凝部にも言われる」
「言われてるね、知ってる」
楽しげにくすくすと笑って、苗字は残っていたうぐいす餅をぽいっと口に入れた。その仕草は女子らしくもある反面、子どもっぽくもある。そんな苗字を、俺はやや複雑な気分で眺めた。
教室ではどちらかといえば近寄りがたい雰囲気の苗字が、諸々事情があるとはいえ、俺の前でこんなふうに無邪気に甘いものを食べて笑っている。好意をほのめかせるどころかはっきり主張し、惑わすような微笑みをくれる。苗字のことを影で慕っているやつらにバレたら、俺なんか普通に袋叩きにされてもおかしくないような状況だ。
苗字はモテる。多分、俺が思っていた以上に。苗字から好きだと言われて以来、その手の話がやけによく耳につくようになった。
それとなく凝部に聞いてみれば、ここのところすっかり雰囲気がまるくなった苗字は今、静かな人気を集めているという。
もともと俺は苗字の恋愛事情に興味がなく、ゆえに話が耳に入ってこなかった――入ってきても、これまでは素通りしていたのだと思う。だがそのことを差し引いても、やはり今の苗字にそういう話が増えているらしいのはたしかだ。これだけ可愛いのだから、それも当然のことだと思う。
(いや本当に、俺さえいなければ、苗字って普通に彼氏がいてもおかしくないんだよな……)
しみじみ考える。と、苗字が「陀宰くん?」と湯呑を手に、首を傾け俺を呼んだ。何時の間にか苗字に無遠慮な視線を向けたまま、ぼんやり考え事をしていたらしい。悪い、と軽く詫びてから、俺は思い立って苗字に尋ねた。
「俺がこんなこと言うのはおかしいかもしれないんだが……、苗字は、どうして十年以上も、俺のことを好きでいられたんだ」
「ぶふっ」
途端に、苗字が大きく咳き込む。俺と違って吹きだしたりこぼしたりすることはなかったが、それでも苗字はげっほげっほと激しい咳き込みを繰り返し、ぜえぜえ肩で呼吸を繰り返した。
取り乱す苗字というのは珍しい。大きく情緒を乱されても、苗字はどちらかといえば静かなままのイメージがある。怒ったり泣いたり感情をあらわにするより、自分の中から感情を漏らさぬよう、ただ微笑んでいるというような。
「はぁ……は、げほっ、はぁ……」
「おい、大丈夫か」
気遣うつもりで声を掛けたら、咳のせいで顔を真っ赤にした苗字に、ぎろりと鋭く睨まれる。片手を突き出されて制止され、俺は浮かせかけた腰を椅子に戻した。
しばらくして、自力で回復した苗字は、むっつりとくちびるを尖らせ言った。
「ちょっと、飲み物飲んでるときにそういうこと聞くのやめてよ」
「悪い。けど、気になって……」
言いながらも、俺の視線は苗字の尖ったくちびるに引き寄せられていた。先ほどの咳き込みといい、苗字にしては分かりやすい感情表現だ。もしかして、自分では気づいていないのだろうか。大人びた彼女の意外な一面に、なんだか微笑ましい気分になる。
そんな気分の良さや優越感みたいなものが、何時の間にか顔に滲んでいたのかもしれない。苗字は訝しげに俺の顔をじろりと眺めまわしたあと、まるで負け惜しみみたいなふてくされた調子で言った。
「というか陀宰くん、そんなこと聞いていいの?」
「え。やっぱだめだった……?」
ついさっきも、デリカシーがないと言われたばかりだ。不安になって尋ね返すと、苗字は眉尻を下げて溜息を吐いた。
「だめってわけじゃないけども……。だって、私の側の事情とか気持ちとか、そういうのいろいろ聞いちゃったら、私に情が移っちゃうんじゃないの?」
「情って」
「告白を蹴るつもりなら、余計なことは聞かない方が身のためだと思うんだけどなぁ」
眉を下げたまま笑う苗字。俺はその顔を見つめる。苗字の言葉に、何と返していいか分からなかった。
俺のことを諦めないと苗字は言った。それは取りも直さず、苗字が俺と両想いになること、俺に好きなられることを諦めないということでもある。苗字の気持ちを知りながら、諦めないで欲しいなどと宣った不義理ものの俺が言うのもなんだが、見込みのない片思いはきつい。少なくとも、俺はそう思っている。
だから苗字は、最終的には俺と付き合えるだろうという、空想にも似た希望をよすがにしているはずなのだ。けれどその一方で、苗字は俺が苗字に対して情を抱くことを危惧してもいる。そうなれば儲けもの、苗字の立場ならば歓迎すべきことなのに、まるでよくないことのように、忠告の言葉を口にする。
ではそれは一体、誰にとってのよくないことなのか。
そんなのは、俺にとって、に決まっている。俺にとって、よくないこと。もっと言うのならば、苗字の考える、俺にとってよくないこと。瀬名を好きな俺にとって、よくないこと。
テーブルの上に載せていた手のひらを、俺はぎゅっと強く握った。
「余計なことなんかないよ」
苗字の目を見て、俺は言う。そんなふうに気遣われる自分が情けなくもあったし、多少腹立たしくもあった。苗字の優しさや、俺を好きでいることへの後ろめたさみたいなものが、苗字にこんなことを言わせているのだと、分かっていても。分かっていてもなお、苛立ちにも似た思いが、ふつふつと胸にわいてくる。
「余計じゃないの? 知らなくていいことなら、知らない方がいいって思わない?」
「俺のこと、す、……好きって言ってくれる相手の話なら」
「……照れるくらいなら、言うのやめたらいいのに」
「うるさい……」
威勢が良いのは最初だけで、後はしりすぼみになった俺の言葉に、苗字がくしゃりと目元を綻ばせた。そして一言、
「……本当、陀宰くんはずるいなぁ」
そう呟いて、口を閉ざした。
しばらくの間、会話が途切れて沈黙が落ちた。テレビからは音量をおさえた音声が聞こえている。何かのドラマの再放送のようだったけれど、番組を見ていないから内容は分からない。
(もしかして、泣く……?)
一瞬、そんな思考が脳裏をかすめた。続けて焦燥がほんの束の間胸にわき、しかしそれは自覚するのと同時に下火になり消える。
その思考に違和感を抱き、俺は内心で首を捻った。
これまで俺は恐らく、数限りなく苗字のことを傷つけてきた。そのことは間違いない。けれど俺は一度だって、苗字が泣いているところを見たことがない。
それなのに、俺はどうして今、苗字が泣くかもしれないと、そう思ったのだろう。思考を深め、自分のなかにその手がかりを探す。
けれど俺が違和感の正体に気付くより、苗字が重々しく口を開く方が先だった。
「まあ、いいか。私に損のある話じゃないし」
苗字は意図的に露悪的、打算的な言葉を選んでいるように見える。そしてそれもまた、俺が苗字にそうさせているのだろう。
苦々しさが胸に迸った。けれど、その感情には気付かないふりをする。ここで真に苦々しい思いをしているのは、まず間違いなく俺ではなく苗字の方だった。
苗字は菓子の載っていた皿を少しだけわきに避け、テーブルの上で両手の指を組む。束の間言葉を探すように視線を彷徨わせたあと、苗字は「どこから話したらいいのかな」と恥ずかしそうに笑った。
「どこからでも、苗字の話しやすいところから」
「話しやすいところなんて一個もないんだけど」
「じゃあ、話してもいいと思えるところ」
「うぅーん……」
この手の話をする準備をしていなかったのか、名前は心底途方に暮れた顔をしている。そうしているうちに、だんだんと俺の方が申し訳ない気分になってきた。
どうして十年も好きでいられたのか、なんて、よく考えたらいくら何でも無茶ぶり過ぎたかもしれない。自分のことを好きな女子に対してぶつける質問でもないだろう。こういうところがデリカシーがないと言われるゆえんなのか、と落ち込む。
「苗字、やっぱりこの話は」
しなくていい、と言おうとした俺の言葉を遮るように。
「初恋、といえば聞こえはいいけども」
ひそやかな、それでいて淡々と抑揚の小さな話し方で、苗字が切り出した。
はっとして、俺は口をつぐむ。苗字の表情は、薄い笑みを貼り付けながらも真剣そのものだった。多分、思考しながら話を組み立て、語っているのだろう。苗字の頭の中がめまぐるしく働いているさまが、たわむところのない瞳から窺える。
「今になって思えば、引っ越しをして陀宰くんとも会えなくなって、それどころか連絡もとっていなくて……。会えない間に募らせてた気持ちは多分、恋愛感情というよりは何かに縋るとか支えを求めるとか、そういうものに近かったんじゃないかなぁ。といっても自分のことだから、今でも分かるようで分からないままなんだけど、自分でも」
「支え……ああ、それなら」
分かるかもしれない、と素直に思った。
もちろん苗字が十年に亘って抱えていた重いを軽々に分かるなんて言えないし、分かったつもりになる気もない。ただ、一度目の異世界配信のあと、瀬名をあちらの世界に呼び寄せるまで、俺も苗字と似たような思いをしたことがある。あのときのことを思えば、苗字の気持ちがまったく理解できないわけではない。
あのとき、俺のそばには廃寺が――アステルがいたとはいえ、あの世界に人間は俺ひとりだけだった。たったひとりきり。ひとりぼっち。言いようもなく俺は孤独だった。
その孤独を乗り切るためには、瀬名の存在は絶対に必要だった。その場にいなくても、瀬名のことを考えるだけでどうにか頑張ることができた。立ち上がることができた。希望を失わずに済んだ。
瀬名がいなければ、俺はきっと、とっくに孤独に膝を屈していた。
「こっちの幼稚園に通ってた頃の私って、本当に友達らしい友達がいなかったんだよね。家族以外だと、仲がよかったのってメイくんだけで。だから、メイくんだけだった。遠い場所で思い続けられるような、そんな相手が」
いつのまにか、苗字の俺への呼び方が陀宰くんからメイくんになっている。苗字にとって、過去の俺は今でも『メイくん』なのだろう。
いつもなら、下の名前で呼ばれるだけでむっとする。けれど今は、不思議と嫌な気にはならなかった。苗字からのその呼び名を、俺はごく自然に受け容れていた。
「会えない間、メイくんの写真を見て、いつも思ってた。『いつか、帰れる』『いつか、また会える』って。そう思ってれば、知らない場所でも、知らない子たちのなかでも、私は頑張れた」
脳裏に幼い日の苗字の姿が思い浮かぶ。不慣れな環境で、見知らぬ子どもに囲まれて、俺との約束をたった一本の杖にして、どうにか必死で歩こうとする苗字の姿が。
「とまあ、そういうわけだから、本当の意味でちゃんと好きになったのは、高校で再会してから、かな? 十年間ずっと好きでいられた理由は、大体そんなところで、今陀宰くんを好きな理由とはちょっと違うかも」
最低限の相槌しか返していない俺の表情を、苗字ははにかみながら窺った。可愛いと、素直にそう思う。もしも俺の心に瀬名がいなければ、そうしたら俺は多分、苗字の告白を受けていたことだろう。
「陀宰くんの、昔と変わらず優しいところ、昔よりもずっと優しいところ、笑った顔とか、男子同士でじゃれてるときの顔とか、そっけないけどちゃんと周りを見てるところとか……。他にもいろいろ、そういう、十年の間知らずにいた陀宰くんを見つけるたび、好きだなって思ってた」
「苗字、」
「だから、陀宰くんがヒヨリちゃんのこと好きになったときも、すぐに気付いたよ」
するりと紡がれた言葉に、俺の喉が凍り付く。
苗字は、視線をテーブルの上の、自分の指先に落とした。
「羨ましかった、ヒヨリちゃんのこと。私は陀宰くんに忘れられてしまったけど、ヒヨリちゃんは見つけてもらえる子なんだなって。過去なんかなくても、たとえいつ出会ったとしても、ヒヨリちゃんはちゃんと見つけてもらえる、陀宰くんから選んでもらえる子なんだなって。そう思ったら、ヒヨリちゃんのことが羨ましかったし……ずっと、苦しかった」
おまけに夏休み明けたら、お昼ご飯食べるのに陀宰くんのこと連れてくるし、と苗字がおかしそうに笑う。
「もうさ、びっくりしちゃうよね。だって私、それまでずっと陀宰くんのこと避けてたんだよ」
「避けてたのか」
「だって、私のこと覚えてない陀宰くんの近くにいたらつらくなるし。絶対に好きになっちゃうとも思ったし。好きになりたくないから、避けるしかなくて」
「……そういうことか」
「だからヒヨリちゃんが陀宰くんと凝部くん連れてきたとき、本当にどうしようかと思ったよ。あのとき多分、はじめてヒヨリちゃんのこと恨んだね。陀宰くんに見つけてもらって、好きになってもらえるだけじゃなく、このうえ見せつけてくるとか、無自覚に鬼すぎると思って」
「悪い……」
そういえば、一番最初に一緒に昼食を食べた日、凝部がそんなようなことを言っていた。――「嫌がられてんのは僕じゃなくてメイちゃんか」、だっただろうか。細部までは覚えていないが、印象的な言葉だったので覚えていた。ほとんど話したこともない相手に嫌がられるなんて、経験は今までの俺にはなかったから。