くまぼろしの断片・T

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 自宅の玄関を思い切り押して開くと、コートに覆われた肩を縮こまらせた苗字が「あ」と小さな声で漏らした。苗字の私服姿を見るのはこれで二度目。だが制服姿はもちろん、以前見たことがある私服姿とも少し雰囲気が違う気がして、はからずもごくりと喉が鳴った。
 女子って、休日になると雰囲気違うよな……。
 自分の家にもいる『女子』のことは考えず、そんなことを考える。
「名前ちゃん来た?」
 そのとき背後から『女子』の忌々しい声がして、俺ははっと我に返った。
「来た。……ええと、上がって」
 俺は半身を引くと、玄関の前で開かれたドアの前で俺を見つめている苗字を、家の中へと招き入れた。

 厳寒のなかでも日脚が伸びつつある二月某日。かねてよりの姉の希望によって、俺は今日、自宅に苗字を招いていた。
 両親と兄は不在にしており、自宅には俺と姉貴のふたりしかいない。別にはかったつもりはなかったが、兄やら両親やらが揃っていると輪をかけて面倒なことになりそうで、丁度いい日取りだったのではないだろうか。
 今日は朝っぱらから、自分が苗字を呼べと言ったわりには役に立たない姉に文句を言いつつ、家中をくまなく掃除した。その甲斐あって、普段の散らかり具合は影も形も見当たらない。
 苗字を俺の部屋に上げることはないだろうが、念には念をとリビング、トイレ、洗面所に自室まで掃除していたら、あっという間に正午をすぎ、苗字との約束の時間の間際になってしまった。
 本当は駅まで迎えに行くつもりだったが、苗字が「ナビ見たら何とかなりそう」というので迎えに行くのはやめにして、そのかわり近所で茶菓子を買ってくる。家中の最終チェックを済ませたところでチャイムが鳴り、そこでタイムオーバーになったというわけだった。
 ドアを開ける前に、玄関の姿見を確認する。苗字を招いたのは姉だが、それでも俺は柄にもなく緊張していた。
 何せ自宅に女子の友達を呼ぶなんて、小学生の頃に一回あったかどうかというレベル。それも苗字は俺のことを好きだとはっきり明言しているわけだから、ただ女子を招くのとは訳が違う。まったく何も感じないというわけにはいかない。
 苗字にも「意識はしてもらわないと困る」と言われている。……そういう台詞をうまく使ってくるあたり、俺より苗字のが一枚も二枚も上手うわてな気がする。

「名前ちゃん! いらっしゃーい!」
 やたらと陽気に出迎えた姉に、苗字ははっと顔を輝かせた。
「あ、お姉ちゃん! ……って、呼んでも大丈夫ですか? だめ?」
「何を今更かしこまることがあんの? 昔と同じ『お姉ちゃん』で大丈夫だよぉ」
 遠慮がちに窺う苗字の肩を、寄ってきた姉貴が気安くばしばし叩く。十年の空白をものともしないその遠慮のなさに、自分と血のつながった兄弟とは思えない粗雑さを感じ、げんなりする。
 そんな俺の辟易とした態度を察したのか、「今じゃだーれもそんなふうに呼んでくれないしねぇ」と、わざわざ俺の方を向いて、あてつけがましいことまで付け加える。それから姉はようやく、苗字のことを解放した。
「あはは。おじゃまします」
「どうぞどうぞ、自分ちだと思ってくつろいで」
「スリッパはそこの適当に使ってくれ」
「うん、ありがとう。陀宰くん」
 と、苗字がきっちりとお礼を言ったその直後、
「だーざいくん、だぁー?」
 やっと静かになったと思った姉が、またしても大袈裟に声をあげた。今度はなんだ、と言うより先に、姉が俺の腕をひっ掴む。
「なに、あんたらもしかして、苗字で呼び合ってんの?」
 なぜかやたらと憤慨する姉。ふと見ると苗字が困ったように眉尻を下げて俺を見ている。この場は俺がどうにかするしかないのだろう。
「苗字で呼び合って悪いかよ? 高校生だし、普通だろ」
「昔はメイくん名前ちゃんって呼び合ってたのに?」
「いつの話をしてるんだ」
「幼稚園の頃の話に決まってるでしょ」
「だから、俺はそんなの覚えてねえんだって」
 売り言葉に買い言葉、の要領で言い返してすぐ、俺は自分の失言に気が付いた。はっと苗字を見れば、苗字はやはり困り顔を湛えたまま、おだやかに微笑んでいる。
 覚えていないなんて、苗字の前で発するべき言葉じゃなかった。なんて、反省したところで後の祭りだ。
「あ、悪い……」
 咄嗟に謝る。名前は微笑みを崩さないまま、「何が?」と軽く首を傾けた。
「いや……うん」
「急に謝られるからびっくりしちゃったよ」
 そう言って笑う苗字の顔は瑕疵かしひとつない笑顔で、あまりにも自然に取り繕うものだから、かえって罪悪感が胸にわく。
 今はたまたま苗字が笑って誤魔化したことに気付けたからいいものの、これまで何度、俺は苗字にこうやって笑顔で誤魔化すことを強いてきたのだろう。そのことを考えると、自分の馬鹿さとにぶさに気が遠くなってくる。
 微妙に空気がぎこちなくなった。そこへ姉が、ぎこちなさなどまったく気にせず、ずかずかと割って入ってくる。
「ごめんねぇ、うちの不肖ふしょう弟が」
「もうどっか行けよ」
 正直助かった、と思いつつも、ついつい憎まれ口を叩く。
 姉は俺を見上げると、ぱちくりと何度かまばたきをして言った。
「いいの? あんたらが気まずかろうと思って、こうやって出掛けるの先伸ばしにしてあげてたのに……」
「別に、気まずいとか……」
 たとえそう思っていても、苗字がいる手前肯定などできるはずがない。もごもごと言い返す俺に、姉はあっけらかんと笑った。
「そ? メイがそう言うなら、じゃああたし、バイト行ってくるわ」
「は!?」
 思いがけない、というか普通に考えて思い付くはずもない突拍子もないことを言われ、俺は思わず目を剥く。苗字も「えっ」と声をあげたきり、絶句していた。当然だ。どこの世界に、客を招いておきながらその客を放置してバイトに行く人間がいるというのか。
 しかし姉は俺たちの動揺を気にかける素振りすらなく、くるりと玄関に背を向ける。向かう先は廊下の向こうの階段で、そしてもちろんそれは自分の部屋に引き返すためだった。
「ちょっ、おい! 姉貴が苗字のこと呼べっつったんだろうが!」
「うん、だからもう会ったし。満足したし。メイちゃんにどっか行けって言われたし」
「お前……」
「女子とふたりきりだからって、悪さとかしちゃだめだからね。あとお客様にはお茶くらい出しなよ」
 言いたいことだけ勝手に言いちらし、姉は足取り歩く階段をのぼっていってしまった。後に残された俺たちは、互いに困った顔を見合わせる。いや、困っているのは苗字の方か。俺は困るというよりむしろ、身内の恥を晒したことへの情けなさの方が強い。
「とりあえず……どうしたらいいかな?」
 未だ靴すら脱いでいない苗字は、上目遣いに俺を見上げた。その姿には、普段凝部と言い合っているときの、口達者さはどこにもない。言葉少なに俺からの指示を待っている苗字は、普段よりも割増しでおしとやかな女子という雰囲気を纏っていた。
(女子だ……)
 しかも、かなりレベルの高い、俺のことを好きな女子。
 暴風雨のような姉の存在によって掻き消されていた事実をにわかに思い出し、俺は急速に顔が熱くなるのを自覚した。
「ええと、じゃあとりあえず上がってくれ。お茶くらいなら出せるから」
「あ、そうだね。お邪魔します」
 そうだ、これおみやげ。と苗字が差しだした紙袋は、俺がさっき大急ぎで茶菓子を買いに行った店とまったく同じ菓子屋のものだった。

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 有言実行の姉はその後、本当にバイトに出掛けてしまった。おかげで家の中には俺と苗字のふたりきりになる。ひとまず、予定していたとおりにリビングダイニングに通すと、苗字はさっそくテーブルの上の置物に目を留めた。
「この置物、昔家族旅行行ったときのやつでしょ。見たことある」
 そう言って、懐かしそうに目を細めて笑う。たとえ相手が好きな女子じゃなくたって、女子の可憐な笑顔を見さえすれば、男というのは眩しく感じてしまうものらしい。俺までつられて目を細める。
 それにしても、苗字は俺とはくらべものにならないくらい記憶力がいいようだ。俺なんか家族旅行の記憶すらおぼろげだというのに、他人の家の置物の由来を未だに覚えていようとは。
 そういえば以前瀬名から、凝部ほどではないにしても苗字の成績も優秀なのだと聞いた気がする。そう考えると、俺が苗字のことを覚えていなくて、苗字が俺を覚えているのは、一概に気持ちの強さの問題だけでもないような気がしてくる。
 苗字に椅子をすすめ、俺はお茶の準備に取り掛かった。キッチンに向かう前、ふと見ると姉が見ていたドラマがそのまま点けっぱなしになっている。
 テレビは点けておいた方がいいのか、それとも消しておいた方が静かでいいのか。悩んだすえ、ひとまず音量だけ下げて、そのままにしておくことにした。変に沈黙が続いたときに気まずくなりたくない。
 キッチンで支度を整え、菓子盆と一緒にダイニングに持っていく。
「ええと……なんか、悪い。姉貴が身勝手で」
 俺が声を掛けると、苗字はぼんやりと窓の向こうに向けていた視線を戻した。
「お姉ちゃん久し振りに会ったけど、ぜんぜん変わってなくて安心した」
「相変わらず傍若無人だろ」
「でもお招きしてくれたのお姉ちゃんでしょ。嬉しいよ」
 招いただけで、もてなしているのは俺だ。顔だけ見ればいいというのなら、別にわざわざ家に呼ぶ必要なんかなかった。俺だって朝から掃除でへとへとになることもなかったし、緊張することもなかったし、苗字はわざわざ乗り慣れないバスに乗る必要もなかった。
 つくづく姉の身勝手ぶりに腹が立つ。さらに腹立たしいのは、こうして自分で身勝手をしておきながら、あとから絶対「私が気を利かせてふたりきりにしてあげた」的なことを言ってくると、長年の経験からすでに分かり切っていることだ。恩着せがましいどころの騒ぎじゃない。
 むかむかしながら、苗字が買ってきてくれたうぐいす餅に楊枝をいれた。まさか俺もさっきまったく同じものを買いに行ったとは言えないので、自分が買ってきたぶんはキッチンの奥の戸だなに隠してある。
「そういえば、陀宰くんは嫌じゃない?」
「何が?」
「私が、陀宰くんのお姉ちゃんのことお姉ちゃんって呼ぶの」
 今更だけど、と添えて、苗字はうぐいす餅を口に運んだ。淡く色づいたくちびるが薄く開かれ、小さく切り取られた和菓子がそのなかに呑み込まれていく。
 視線がいつのまにやら苗字の口許に吸い寄せられていることに気が付いて、俺は慌てて視線をそらした。幸い苗字には気付かれなかったようで、苗字は「これ美味しいね」とのんきなコメントをしている。
 姉の呼び方について。俺はいまいちど先ほどの苗字と姉の遣り取りを思い返した。……まあ、うん。
「別に嫌ではないよ。変な感じではあるが」
「あはは、やっぱり変な感じするよね」
 朗らかな笑い声に、少しだけほっとする。過去にふれる話題には、どうしたって少なからず緊張を伴う。
「けど苗字がそう呼んでて、姉貴もそれでいいって言ってるなら、そこは俺が口出すところでもないし」
「そっか。柔軟だね。陀宰くん」
「そうか?」
 褒められているのかもよく分からず、俺は首を傾げた。頷いた苗字は、笑顔のまま、視線を手元の小皿に落とす。つられて俺も皿に目を向けた。半分になったうぐいす餅が、ぽてんと皿の上であんこを見せている。
「うぐいす餅って、見かけるとついつい買っちゃうんだよね」
「和菓子をわざわざ買うこと、あるか?」
「買わない? 私の家は結構、季節のお菓子を買うんだけども」
「へー、なんていうか、苗字んちは風流だな。みやびっていうか」
「えぇ? 雅かな? 雅なのかも。お母さんに言っておくね。陀宰くんがお母さんのこと雅って言ってたよって」
「……いや、いい。言わなくていいから」
「そもそも、雅って褒め言葉なのかな」
「それはまあ、褒めてるだろ。貴族っぽいし」
「本当に? なんか今ちょっと馬鹿にしたニュアンス入ってなかった?」
「入ってない入ってない」
「……じゃあ『陀宰くんって貴族っぽいよね!』って言われて、陀宰くん喜ぶの?」
「……嬉しくはないな」
「やっぱりそうなんじゃん」
 くすくすと苗字がおかしそうに笑う。会話のあまりのくだらなさに、俺もついつい笑った。
 会話はゆったりとしたペースだが、空気が悪いわけではない。というより、穏やかでゆるやかな雰囲気が、俺たちの間の変な緊迫感を薄れさせてくれていた。
 この雰囲気なら、苗字とふたりでもそれほど緊張せずに済むかもしれない。内心で俺はほっと安堵した。苗字にはいろいろと聞きたいこともある。そしてその聞きたいことのほとんどは、できるだけ人目のないところで話すべき話題だった。
 半ば強引にセッティングされた会ではあるが、この機会を利用しない手はない。
 と、そんなことを考えていたときだった。
「これいただいたら、私、帰ろうかな」
 唐突にぽつりと呟いた苗字に、俺は「えっ」とうっかり狼狽した声を上げてしまう。直後はっとして苗字を見れば、苗字はあからさまに苦笑している。
「陀宰くん、きな粉飛んでるよ」
「えっ、うわっ」
 苗字の言うとおり、俺の皿から飛び散ったうぐいすきな粉が、色鮮やかにテーブルにまぶされていた。慌ててキッチンから台拭きを持ってきて、テーブルのきな粉をふき取る。ようやく片付けを終えてから、俺はもう一度椅子に腰を下ろした。
「帰るって、なんで。わざわざ来てもらったのに」
 もちろん、帰るなだなんて言う権利は俺にはないし、苗字が帰りたいのなら帰ればいい。高校生にもなって和菓子のきな粉をぶちまけているような男と、もはや一秒も一緒にいたくないというのなら、それはたしかにその通りだ。従うほかない。
 けれど、苗字はどういうわけか困ったような顔をして、
「……なんでって、陀宰くんがそれ言うの?」
 冗談のような責めているような、不思議な声音でそう言った。意味が分からず眉根を寄せかけたところで、俺はやっと苗字の言葉と懸念の意味に思い当たる。
 苗字は俺のことが好きで。
 俺は、けれど、瀬名のことが好きで。
 俺のことを好きな、俺は別に好きじゃない女子とふたりきりなんて、どう考えても気まずいに決まっている。俺も気まずく感じていなければおかしいし、苗字だって当然気まずいはずだ。
 これまでふたりきりになっても平気だったのは、苗字の気持ちも事情も、俺が知らなかったから。言ってみれば苗字がひとりで、気まずさをになってくれていたからだ。
 今は違う。俺はもう、苗字の気持ちを、事情を、すべて知ってしまっている。そして苗字は俺に気まずさや罪悪感を押し付けることを、多分、かなり根深く嫌がっている。
「あ、そう、だよな……。悪い、常識的に考えたら、そうなるか」
「まあ、うん」
 苗字の気遣う顔を見ていたら、馬鹿みたいに空気が悪くないだのなんだの考えていた自分が恥ずかしくなった。苗字といると何故か、俺はひどく自分本位になってしまう気がする。
 なんだかんだ言っても、いや何を言うまでもなく、苗字は俺のことを好きな女子なわけで。さっきまでだって俺が一方的に安心していただけで、苗字の方はずっと、きっと今も緊張がとれないまま、居心地の悪い思いをし続けていたのだろう。
 そもそも本来は俺だって、女子とふたりきりなんてシチュエーションには慣れていない。異世界での生活を経て、瀬名とふたりでいることにも慣れ、それでなんとなくいろんなことが麻痺していたが、高校生の男女がこうして自宅にふたりきりでいて、気まずくないなんてはずがなかった。
「今更、陀宰くんと幼馴染に戻れって言われても、それもできなくて困るしね」
 苗字がぽつりと呟く。もしも俺たちが幼馴染の距離を持てていたなら、今この瞬間だって気まずくなかったのかもしれない。けれど俺は苗字のことを幼馴染とは思えないし、理由は違えど逆もまた然りだろう。
「……なんか、悪かった」
「なんで?」
「いや、俺のデリカシーがなかったなと思って」
「デリカシーとか、陀宰くんや凝部くんにはあんまり期待してないよ」
「俺はそこで凝部と並ぶほどなのか……?」
「私にとってはね。優しいし、ほかの女子にはデリカシーあると思うけど」
 ちくちくとした棘を含んだ言葉は多分、俺が必要以上の申し訳なさを感じないようにするため意図したものだろう。適当な棘で指先をつついた痛みで誤魔化して、本来抱くべきもっと重たい痛みから、目を背けさせてくれようという苗字の優しさ。

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