つくり話の

「名前ちゃん」

 少し離れた場所から聞き慣れた声に名前を呼ばれ、ディスプレイに向けていた視線を上げた。その途端、無意識にシャットダウンしていた周囲の音が、わっと流れ込むように耳に飛び込んでくる。教室の中には、夏休み気分を引きずるように浮ついた喧騒が満ち満ちている。
 夏休み明けの試験が終わって、今日からいよいよ本格的に新学期がようやく始まった。午前の授業はとっくに終了している。ディスプレイ上に開きっぱなしにしていた教科書を手早くオフにしたところで、ちょうどヒヨリちゃんが机の隙間を縫って私の方へとやってきた。
 瀬名ヒヨリちゃん。私の高校一年からの親友で、今のところ高校でただひとり、友人と呼べる相手でもある。
「一緒にお昼食べない?」
「それはもちろん、大歓迎、だけど……」
 明るいトーンで響くヒヨリちゃんの誘いに答えながら、私はおずおずと、ヒヨリちゃんの背後に視線を向けた。
 小柄なヒヨリちゃんの肩の向こうには、何とも言い難い表情をしている陀宰くんと、にこやかなのに何処か危なげな雰囲気を醸し出す凝部くんの姿がある。ふたりはまるでヒヨリちゃんの背後霊――もとい、守護神のように並んでいた。
「陀宰くんと凝部くんも一緒に、ってことだよね。それなら私、お邪魔なんじゃないかな……?」
「どうして?」
 きょとんとした顔で、ヒヨリちゃんは首を傾げる。いつもお昼は私とヒヨリちゃんふたりで、あるいはほか数名の女子と一緒に食べている。今日も当然のように一緒に、ということだろう。
 ただ、萬城くん以外の男子が一緒にというのは、これがはじめてのことだった。
 元々ヒヨリちゃんは男女の垣根なく友情を築くタイプだし、私と違って人付き合いの幅も広い。もしかしたらヒヨリちゃんには、私のこの気まずさは伝わりにくいかもしれない。
 どうか角が立ちませんようにと、半ば祈りじみたことを念じながら、私は答えた。
「だって私、凝部くんとはその、話したことがないし……」
 もごもごと言い訳じみた物言い。その瞬間、シルバーグレーの長髪を優雅に流した凝部くんと目が合って、私の頬がひくりと引き攣る。
 凝部ソウタくん。男子にしては小柄、華奢ともいえる体つきと、目を惹く長い銀糸の髪。
 一学期中、登校拒否をしていた凝部くんのことを、私はほとんど何も知らない。夏休み明けから突然登校するようになった彼は、私だけに限らず、クラス全体からまだ扱いあぐねられ、浮いた存在になっている。
 ここ数日遠目に観察していた印象としては、軽やかなノリのタイプに見える。だが、だからといって人懐っこく、取っつきやすいというわけではなさそうだった。
 凝部くんは私の方を向いて、何やら怪しげな笑顔を浮かべている。背中をつうと嫌な汗が伝った気がして、私は慌てて凝部くんから視線をそらした。
 そらした先にいるのは、やはりこちらも同じクラスの陀宰くん――しかもこちらの方が、私にとっては難敵だ。
「ええと、しかも陀宰くんも一緒に……?」
 視線は陀宰くんに向けているが、言葉はヒヨリちゃんに宛てている。陀宰くんは私と視線が絡むと、視線をふいと横に逸らした。感じが悪いと言えば悪いのだが、そこに悪意がないのもまた、陀宰くんの照れたような表情から窺い知ることができる。
 と、そんなふうに思いをはせていると、
「『名前ちゃん』っていうと……苗字名前ちゃん、か」
 記憶のなかから何か情報を引っ張り出すような顔つきで呟いて、凝部くんは一歩前に進み出た。ヒヨリちゃんがわきに避けると、彼は空いた場所にひょいとおさまる。急激に距離を詰められて、私は椅子に座ったまま、さりげなくけ反り距離をとった。
「凝部ソウタ、って僕の名前くらいは多分知ってるよね。はじめまして、どーぞよろしく。ヒヨリちゃんの友達? じゃあ急に僕が出てきてびっくりしたでしょ」
「まあ、うん」
「分かる分かる、びびるよねー。でもこのクラス委員ふたりは、夏休み明けから急に登校してきた引っ込み思案な僕のことを一刻も早くクラスに馴染ませたくて、それで僕を何処へ行くにも連れて回ってるだけ。だから僕のことは空気だとでも思ってさ、どーぞ気にせず過ごしてよ」
「はあ……」
 自己紹介からお気遣いまでをいっぺんに並べられ、押し切られるように頷いた。そういえば陀宰くんも委員長のひとりなのだったっけ。ようやく追いついてきた思考で納得する。
 それにしても、凝部くんの口のよく回ること。今のは会話というより、一方的に説明を受けただけだ。凝部くんの会話のテンポの目まぐるしさに、私は早々と圧倒されている。
 そしてそんな私は、さぞ狼狽うろたえた顔をしていたのだろう。私のリアクションに気をよくしたのか、凝部くんはさらに続けた。
「キミってヒヨリちゃんと違って、人見知りとかするタイプ? まあ、初対面の人間とお弁当とか、普通に気まずいと思うし、その気持ちはかなり分かるけど」
「いや、人見知りはあんまりしない、かな……」
「じゃあ男子と一緒にご飯なんて絶対イヤッ! 死んでも無理! て感じ?」
「凝部くん、名前ちゃんはトモセくんとも普通に話すし、大丈夫だよ」
 ヒヨリちゃんが言葉を挟む。凝部くんは特に関心を示すこともなく、
「あ、そーなんだ。ふーん。てことは、じゃあ嫌がられてんのは僕じゃなくて、メイちゃんか」
 そう言って、陀宰くんに視線を向けた。
「え……」
「ちょっと、凝部くん……!」
 珍しく、ヒヨリちゃんから尖った声が飛ぶ。しかしそれも仕方のないことだった。さすがに今の凝部くんの発言はない。呆気に取られて絶句してしまったが、時間が経つうちに私もだんだんと舌打ちしたい気分に駆られる。
(なんだって初対面でこんなことに……?)
 凝部くんが何を根拠にこんなことを言っているのかは分からない。けれどいきなりやってきて、さらには人間関係に無用な波風を立てるのはやめてほしい。
 無用な誤解は招きたくない。ここは厳重に抗議をすべき場面だろう。
「凝部くん、あの、」
 けれど、私が文句を言うより先に、陀宰くんが口を開いた。
「凝部、あんまり苗字を困らせるな」
 そう釘をさしてから、陀宰くんは今度は私に顔を向ける。
「……俺が外したほうがいいなら、どっかいくけど」
「え、ええと……、ううん、大丈夫。そんなことないです」
「……そうか?」
「うん。もちろん」
 陀宰くんの不信げな顔に、私は取ってつけたような微笑みで頷く。そんな私と陀宰くんの遣り取りを、ヒヨリちゃんは少しだけ不安げに、凝部くんは興味深げに口角を上げて見守っていた。

 ◇◇◇

 四人で昼食をとるべく、私たちは固まって教室を出た。昼休みの校内には、そこかしこに生徒の集団が散らばって、おもいおもいに休み時間を楽しんでいる。
 カフェテラスに移動する間、私はちらりと隣を歩くヒヨリちゃんを盗み見た。
 夏休みの間、私はヒヨリちゃんとは一度も顔を合わせなかった。ヒヨリちゃんが行くと言っていた旅行にも私は不参加を表明していたし、何のかんのと日々に追われているうちに、ヒヨリちゃんに連絡をとるタイミングをすっかり失くしていたのだ。
 夏休みが明けて数日。なんとなく、ヒヨリちゃんの雰囲気が変わったような気がする。どこがどうとは言えないのがもどかしい。けれど大人っぽくなったとか、凛としたたたずまいに強さが増したとか、とにかく私にはそんなふうに見えた。
(それに、陀宰くんもなんだか……)
 と前を歩く陀宰くんに視線を移したところで、陀宰くんの隣を歩いていた凝部くんがくるりと振り向き、私に視線をぶつける。先ほどのやり取りが脳裏をよぎり、私は咄嗟に視線をそらした。
 視線を前に戻したとき、凝部くんはもう、私の方を見てはいなかった。

 カフェテラスは教室の喧噪と外の熱気から逃れてきた生徒で溢れかえっていた。席が空くのを待つ気も起きない混み具合だ。私たちは諦めて、中庭に出ることにした。
 まだ夏休みがあけて数日とあって、日差しは厳しい。私たち以外には中庭に人影はなかった。それでも木陰に入れば、風が通って過ごしやすい。お弁当を食べるのにはうってつけの場所だ。
 もっとも、凝部くんは「ええー、本気で外で食べるの? この暑いのに?」と文句を言い続けていたけれど、ヒヨリちゃんも陀宰くんも、そして私も、その文句は聞かなかったことにした。
 ちょうど枝葉と校舎の影になっている場所を見つけ、そこに腰を下ろした。よく刈り込まれた芝生の感触が、スカートから伸びた肌にちくちくとこそばゆい。
 私の両隣はヒヨリちゃんと凝部くん。車座になって、お弁当箱を開いた。
 昼食を始めて早々、凝部くんが「名前ちゃん」と私を呼ぶ。どうでもいいが、いきなり名前にちゃん付けして呼んでくる馴れ馴れしさについて、私は突っ込んだ方がいいんだろうか。そんなことを考えていると、凝部くんが顔の前で手を合わせ、形ばかりのごめんねポーズをとった。
「さっきは急にセンシティブな発言しちゃってごめんね? 僕、思ったことがつるっと出ちゃう正直ものだからさ」
「つるっと……」
 謝罪にもなっていない。だが、ひとまずはその謝罪を受け入れることにした。ここまで悪びれていないと、いっそ清々しさすらある。というより、この発言をしれっと繰り出せる人間相手に、いつまでも怒っている方が馬鹿らしい。凝部くんはこういう人なんだろう。そう思えば、諦めもつく。
 人心地ついたところで、凝部くんが「そういえば」と発した。手には市販の菓子パンの袋。足元には風で飛んでいかないよう飲み物を重しに乗せた、真っ白いコンビニの袋。
「ヒヨリちゃんにも、トモくん以外に特定の友達いたんだね」
 からかうような凝部くんの口調に、ヒヨリちゃんが律儀にむっとした顔をする。
「失礼な。私だって普通に友達くらいいるんだけど?」
「いやいや、ヒヨリちゃんって人当たりよすぎて、よっぽど特殊な状況にでもならない限り、逆に広く浅くタイプっぽくない?」
「それ、褒めてる? 貶してる?」
「ご想像にお任せしまーす☆」
 ぺろりと舌を出した凝部くんを、ヒヨリちゃんが可愛らしく睨む。言い争いをしているというよりは、じゃれ合っているといった方が近そうだ。陀宰くんはもの言いたげにしつつも、ふたりの言い合いに口を挟むことなく黙々とお弁当を口に運んでいる。
「キミはどう思う?」
「え?」
 不意に話を振られ、私は慌てて聞き返した。凝部くんが「だからぁ」と、パンの袋をくしゃくしゃにしながら繰り返す。
「ヒヨリちゃんの交友関係。というか、そもそもふたりってどういう友達?」
 なるほど、それが聞きたかったのか。得心した私は、箸の先を弁当箱に置いた。
「私も凝部くんと同じだよ」
「僕と同じ?」
 わずかに眉根を寄せられて、私は苦笑しながら頷いた。
「私、中学まで親の仕事の関係で遠方にいて。高校受験の直前にこっちに戻ってきて、この学校を受験して」
「『戻ってきて』っていうのは?」
「小さい頃はこのへんに住んでたんだよ。だけどこっちに戻ってきても、もう私のこと覚えてる友達なんかさすがにいなくて……、一年のときに隣の席だったヒヨリちゃんが、高校に入って最初の友達になってくれたの」
「へー。いかにも面倒見がよくてお人よしの、ヒヨリちゃんっぽい話だね」
 そうだね、と相槌を打つ。「なんか棘があるんだけど」とヒヨリちゃんがぼやく。陀宰くんが苦笑し、凝部くんはへらへらと笑っている。
 この街で、私は生まれてから六歳になるまでの日々を過ごした。今も昔も、私はどちらかといえば引っ込み思案な性質で、友達といえばマンションの隣の部屋に住んでいた、同い年の男の子たったひとりだけだった。
 高校一年でこの街に戻ってきたとき、知り合いと呼べる間柄の人間はひとりもいなかった。昔住んでいたマンションの部屋は、引っ越しと同時に引き払っている。今は家族と一緒に、当時とは別のマンションで暮らしている。
「私に最初に話しかけてくれたのがヒヨリちゃんでよかった。そこから少しずつクラスにも馴染めたし、今年も同じクラスになれて嬉しい」
「私もだよ」
 さっきまでのむくれ顔はどこへやら、ヒヨリちゃんが笑顔で私の手をとって、そっと握った。その小さくあたたかな手のひらに、ほっと心が和む。
「なるほどねぇ、それで僕と一緒、か」
 含みがありげな凝部くんの声に、はっとした。視線をさりげなく凝部くんの方に戻すと、彼の甘い色の瞳が、まるで値踏みでもするように、私のことを見つめている。
「クラスに馴染ませるために手を引かれたのは、僕だけじゃなかったと」
 その言葉に、ヒヨリちゃんが眉根を寄せた。
「別に名前ちゃんにも凝部くんにも、馴染ませてあげたいだとか、そんなつもりはないよ。友達になりたい子と仲良くなろうとしてるだけです」
「てことは、ヒヨリちゃんは僕と仲良くなりたいんだ? やだ、嬉しいこと言ってくれるじゃん。僕としては友達以上も大歓迎だよ」
 ばちこん、と音が出そうな大袈裟なウィンクをする凝部くん。ヒヨリちゃんに無視されるもへこたれた様子もなく、
「ま、もうひとりの委員長のメイちゃんは、そこんとこどうか分かんないけど」
 ね、と今度は陀宰くんに意味深な笑顔を向けた。
「なんでそこで俺に振る?」
「えぇー、だってヒヨリちゃんはともかく、メイちゃんは絶対、そういうつもりでここにいないでしょ。ざっと見て、委員長的使命感で僕たちに同行してるのが四、僕とヒヨリちゃんが一緒にいるなら目の届く距離にいたいのが六ってとこかな? もしかしたら三、七かもだけど。ど? 当たった?」
「俺がただ凝部と飯食いたいだけって考えはないのかよ」
「それでもいいけど、男にごはん誘われても僕はぜーんぜん嬉しくないね」
「そういうやつだよ、お前は」
 陀宰くんが面倒くさげに溜息を吐き出す。その仕草がずいぶんと気心知れた間柄の相手に見せるもののように思えて、私は思わずまじまじとふたりのことを見てしまった。
 私の視線に気付いたヒヨリちゃんが、
「どうしたの? 名前ちゃん」
 と尋ねてくる。陀宰くんと凝部くんも私の方を向いた。私は慌てて、
「いや、大したことじゃないんだけど」と前置きしてから言った。
「ヒヨリちゃんも陀宰くんも、今まであんまり話したことないはずなのに、凝部くんと仲いいんだなぁと思って」
 その瞬間、私以外の三人が、たしかに素早く目くばせをした。
 素早く、何かを確認し合うような――言葉がなくても、伝わるような視線だけの遣り取り。目の前で交わされるそれを見た瞬間、私は唐突に気が付いた。
(ああ、そうなんだ)
 この三人にはきっと、私が知らない共通項がある。そしてそれは、容易く部外者に――私なんかに、打ち明けられるようなたぐいのものではないのだ。
 夏休みを越え、何処か変わった教室の空気。
 僅かに変わったように感じた、ヒヨリちゃんと陀宰くんの顔つき。そのふたりと秘密を共有する凝部くん。
 要するに、この場で異端なのは不登校だった凝部くんではなく、まして陀宰くんでもヒヨリちゃんでもあるはずなく。
(私だってことか)
 そのことを察すると、何となく感じていた違和感もすっきりした。ヒヨリちゃんのことをよく知っているようでいて、交友関係についてはほとんど何も知らない凝部くんのちぐはぐさも、陀宰くんが嫌がる名前呼びを、凝部くんが黙認されていることも。
 そこはかとなく感じられる、彼ら三人のリラックスした身内ノリも。
「……俺と凝部は、もともと面識あるから」
 陀宰くんが、つくろうように言う。それに凝部くんも乗っかった。
「そそ、浅からぬ縁ってやつだよね、メイちゃん」
「そういう言い方されると普通に嫌だな……」
「えっ嘘、傷つくんですけど……」
 じゃれるふたりに同調して、ヒヨリちゃんも言う。
「私も、夏休みには凝部くんと知り合ってたから」
「――なんだ、そうなんだ」
 私は頷いて、そして、三人の言葉を受け容れた。
 無理に何かを話してもらうつもりはない。隠し事は誰にだってあるものだということくらい、私にだって分かっていた。
「なぁに? 妬けちゃう?」
 凝部くんが私の顔を覗き込んで、悪戯っぽく笑う。ヒヨリちゃんと陀宰くんの顔にはぎこちなさが残っていたけれど、凝部くんからはそういう悪びれたところは、一筋だって感じられなかった。
「ふふ、少しだけね」
「いいねいいね、可愛い女の子の嫉妬は大歓迎。僕がその嫉妬の炎をやさしーく鎮火してあげる」
「妬いてるっていうなら、どっちかいうと瀬名をとられることへの嫉妬じゃないのか」
 陀宰くんが呆れた声で割って入った。途端に凝部くんが抗議の声を上げる。
「えぇー、またそれ? 本当、トモくんといいメイちゃんといい、みんなヒヨリちゃんのことが大好きすぎない?」
「凝部おまえなぁ」
「そ、それより名前ちゃんのお弁当! 今日もおいしそうだねっ!」
 ヒヨリちゃんが無理やりに話題を転換し、私のお弁当箱を指さした。目元はうっすら赤らんでいる。
「今日のは昨日の夜ごはんの残りを詰めただけだったけどね」
「それでも美味しそうだよ」
「ていうか、名前ちゃんのお弁当、もうほとんどおかず残ってないじゃん。ヒヨリちゃんは何を見て美味しそうって言ってんの?」
「凝部、おまえ本当黙ってろよ」
 陀宰くんが凝部くんの腕を軽く小突く。わざとらしく「痛い! メイちゃんが殴った! ケイちゃんにしか殴られたことないのにっ」と騒ぐ凝部くんのおかげで、先ほどまでの気まずげな空気はいつのまにかすっかり払拭されていた。

 ◇◇◇

 授業後、今年になってから始めたバイトを終えてから帰宅すると、父はまだ帰宅しておらず、母がひとりで何かどたばたと物の上げ下げに忙しそうにしていた。
「ただいまーぁ」
「おかえり。夕飯食べてきたんだよね?」
「そうそう、まかないをね」
 制服を着替える前に、リビングを覗く。ドアを開けた途端、埃っぽいにおい鼻につく。室内に置かれた空気清浄機が、これまで聞いたことのないような大音量を立てながら稼働していた。
「ちょっとお母さん、これ何事なの? なんか埃っぽくない? それに何、この段ボール」
 壁際に無造作に置かれた段ボールを、私は寄っていって指さす。
 このマンションに引っ越してきてから、すでに一年近く経過している。それでも荷ほどきしていない荷物はまだ少しばかり残っていて、これもそうした荷物のうちのひとつのようだった。
「ああ、それ。片付けしてたら出てきたのよ」
 見てもいいよ、と母が言う。
「中身なに?」
「名前の昔の写真をまとめたアルバム」
 言われて箱の中を覗く。中には古ぼけた布表紙の冊子が数冊、とりあえずそこに入れておいたとでもいうような適当さで収められていた。
 一番上にあった一冊に手を伸ばし、取り出す。大判のアルバムは、ずっしりとした重さを手に伝えてくる。
「写真なんかわざわざ印刷して貼り付けなくたって、データに残しておけばいいのに。本当お母さん、忙しいわりにこういうことするの好きだよね」
「いいじゃない。データが消えてから後悔しても遅いのよ。お父さんだって、何かのときのためにアナログでもバックアップとってるでしょ」
「それはそうだけど」
 情報局に勤める父は保険として、何事においてもアナログな手段を併用する。だからなのか、我が家には古いアルバムや日記帳のようなものが、かなりまとまった量保管されていた。
 手にしたアルバムをぱらぱら捲る。アルバムの最初は私が新生児の頃の写真から始まっており、日に日にふっくらと育っていく様子が、かなり詳細に記録されていた。
 片付けをしている母が、片手間で話しかけてくる。
「こっちに戻ってきて一年くらい経ったけど、幼稚園の頃の友達に会ったりした? 連絡とったりしないの?」
「しないしない。ていうか今さら会ったところで、何話していいか分かんないし。お互い忘れてるでしょ」
「そう? 今の子ってクールねぇ」
 そもそも当時の私は幼稚園児だったのだ。今のようにSNSで友人たちと繋がっているわけでもない。連絡しようにも連絡先が分からない相手がほとんどだし、たとえ連絡できたところで、別にしようとも思わない。
 母の年寄りぶった小言を聞き流しながら、私はアルバムを捲り続ける。
 と、何の気なしに開いたあるページで、ページをめくる指がぴたりと止まった。そこに貼り付けられているのは、幼稚園時代のクラス写真。揃いの制服を着た子どもたちが、二列に並んでカメラの方を向いている。
 エプロン姿の先生の横には、今よりもっとおどおどと不安そうな顔をした、三歳の頃の私がいた。そしてその隣では、写真撮影の日だと忘れられていたのか、髪にあちこち寝ぐせを付けた黒髪の男の子が、口をきゅっと引き結んでいる。
「……とっくに忘れちゃってるよね、今さら」
 自嘲めいた呟きが口から洩れた。自分の諦めの悪さにほとほと呆れ、溜息を吐く。
 陀宰メイくん。メイくん――陀宰くんは、昔マンションの隣の部屋に住んでいた、私の幼馴染の男の子だった。
(お隣さんで、幼馴染で……私の初恋の、男の子)
 アルバムを音もなく閉じ、段ボールの中にそっと戻す。
 こんなふうに、私の恋心も箱に閉まって隠しておけたらいいのに。そんなどうしようもないことを考えて、私はまた溜息を吐き出した。

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