その人のこと、その日々のこと
店内にはいつのまにか、私と陀宰くん、それに数組の客しかいなくなっていた。最初に注文したコーヒーはとうに冷めている。凝部くんの家でたらふく食べてきたからお腹が空いているわけでもなく、おかわりのコーヒーを注文する気も起きない。冷めきった残り僅かなコーヒーで、どれだけ間が保つかは陀宰くん次第だ。「言えない?」
私の言葉を反芻し、陀宰くんは訝しげに私を見る。「言えない」というその言葉の意味が、心底分からないという顔だった。こちらに向けられた眼差しが、明らかに私に説明を求めている。
……なんというか、遠慮とか斟酌とか、そういうものが陀宰くんにはまったくないようだった。普段の陀宰くんならばそんなことはあり得ないと思うのだが、少なくとも、今この場、この瞬間においては。
「陀宰くんさぁ……」
思わず私がぼやくと、陀宰くんは「なんだよ……?」とさらに困り顔で私を見つめる。本当に何も分かっていなさそうなその様子を見て、私の胸には痛みとは別の、苦みが迸った。
「さっきの話、聞いてたよね? あ、もしかしてお姉ちゃんから、私の告白に対して、陀宰くんが何て答えたか、具体的な言葉は聞いてないとか?」
それならばまだ、理解がいく。けれど陀宰くんは首を横に振った。
「いや、聞いた」
「聞いたんだ。それなのに、分かんない? 本当に?」
「悪いけど……」
「そっか……」
溜息は吐くまいと思っていたけれど、さすがにがくりと力が抜けた。無自覚なのだろうとはいえ、陀宰くんの求めは私にとって、あまりにも酷だった。
忘れてしまったのなら思い出させればいいというほど、これは簡単な話ではない。ただの知り合いならば、それでもきっといいのだろう。思い出すにせよ思い出さないにせよ、ひとまずは過去の時点で知り合っていたということを伝えられさえすれば、そこから何らかの交流が発生するかもしれない。
けれど私にとって陀宰くんとの再会は、そうやって簡単に失くした、復元した、ということをできるものではなかった。
忘れられてしまったら、その時点で私の勝負は終わりだ。第二ラウンドはあるかもしれないが、第一ラウンドの延長はない。そのことを、陀宰くんは分かっていない。
陀宰くんが悪いわけではないことは、私にだって分かっている。けれどどうしたって、気持ちは勝手にささくれだつ。よほど今の陀宰くんの問いを、まるっと無視してしまおうかと思ったくらいだ。
けれど惚れた弱みとでもいうべきか、あるいは目の前で困り果てていますという顔をされているせいか。私には陀宰くんを無視することなど、土台できはしないのだった。したくてもできないし、そもそもしたいと思えない。
陀宰くんは無自覚に、しかし絶対的に優位な立場に立っている。いや、無自覚だからこそたちが悪い。そういうところまで引っ括めて、今この瞬間だけ、陀宰くんはずるくてひどかった。
内心で溜息を吐く。外に溜息を吐き出さないだけ、私にはまだ理性と見栄が残っていた。
「言えるわけないよ」
苦笑交じりに、先ほどと同じ言葉をもう一度紡ぎなおした。陀宰くんの眉間の皺が、ぐぐっとさらに深く刻まれる。そんな顔をしたいのはこちらの方だ。私の方が絶対に、陀宰くんより顰め面したい気分になっている。
「陀宰くんは多分、ちょっと思い違いをしてるよ」
「思い違い?」
「私が陀宰くんと幼稚園のときに知り合ってるよって打ち明けたとして、じゃあ、それでそのあと何がどうなるの? 高校で再会したときの陀宰くんを見れば、陀宰くんが私のことを覚えていないことなんか一目瞭然だったじゃない。それなのに、そんなこと言ってどうなるの?」
「それは……」
「『忘れてたけど、これから頑張って思い出してみるよ』って? でも私は、そんなこと言われたいわけじゃなかったんだよ。それならまだ、何もかもなかったことにして、ここから新しく何かを始めた方がよほど建設的じゃない」
それだって、ヒヨリちゃんが現れたことで分の悪い賭けになった。勝ち筋などどこにもなく、一切の望みは絶たれたとすらいえる。
正直に打ち明けて手に入るものならば、私だってすぐに何もかも打ち明けた。だけど実際はそうじゃない。陀宰くんと再会したときにはもう、私の欲しいものは、世界の何処にも存在しないものになっていた。
「そもそも私は、思い出してほしかったんじゃないんだもん。陀宰くんに……メイくんに、ただ、覚えていてほしかったんだよ。忘れてほしくなかったし、ずっと覚えていてほしかった。だって最後に告白したとき、メイくん、そう言ったじゃない。『覚えてたら』って。最初から私たち、そういう約束――ううん、条件、『賭け』のようなものだったんだよ」
私の言葉に、陀宰くんの肩がぎくりと揺れた。今の言葉のどこに、陀宰くんが引っかかる箇所があったのだろう。よもや下の名前で呼ばれたくなかったとか、この期に及んでそんな話ではないだろうが。不思議に思いはしたものの、これもまた考えたところで分からないことなのだろう。私はあっさり思考を投げる。
言葉は次々に溢れ出し、思考はそのまま声になった。それでも頭の芯は冷めていて、私はずっと冷静だった。
言わなくていいことを言ってしまったな、と自分の発言を振り返り、冷静に評価している自分がいる。陀宰くんの荷物を軽くしてあげたかったはずなのに、結局のところ、陀宰くんに罪悪感を押し付けてしまおうとしている。陀宰くんの方から求めた話ではあるけれど、多分すこし、私は話し過ぎていた。
今日何度目かの沈黙が落ちる。これまでの沈黙はすべて陀宰くんが齎したものだったけれど、今この沈黙だけは、間違いなく私が作り出したものだ。気詰まりで、息苦しくて、重苦しい。何か言わなければと思ったものの、この場に適した言葉など、私は何ひとつ持ち合わせてはいなかった。そもそも言いたい言葉はさっき、すべて吐き出してしまったばかりだ。
「賭け……」
陀宰くんがぽつりと呟く。私に聞かせるというよりは、ついついこぼれた独り言のようなものだろう。彼の視線は私には向いていなかったし、表情もどこか心ここにあらずなうつろさを湛えている。
「うん、賭け」
陀宰くんのこぼした言葉に、私は頷き、繰り返した。
勝ち負けでいえば、私は負けたということになる。賭けには負けた。私は惨めな敗残者だ。
とはいえ私が負けた賭けの相手は、陀宰くんではなかったのだろう。この賭けで陀宰くんが勝ったところで、あるいは負けたところで、彼が得るものも失うものも何ひとつない。ただただ勝てば私が得をするだけの、ひどくいびつな賭けだった。最初から、こんな賭けは破綻していたともいえる。
それでも、私にとっては何より重要な賭けだったことに変わりはない。
いつか大きくなって戻ってきたときに、そのときに覚えていたら――
メイくんはたしかにそう言った。
だから私は信じていた。日がな願い続けていた。メイくんが私のことをずっとずっと覚えていてくれますように。願わくば、いつかまた再会したときに、私のことを好きになってくれますように。
十にもならない子どもの私にとって、その願いは自分の持ち得るほとんどすべてを賭けた、一世一代の祈りだった。慣れない環境のなかで、たったひとつたしかに縋れるよすが。他愛ない願いはいつしか、切実な信仰のような様相を呈していた。
どうかメイくんが私のことを覚えていてくれますように。
覚えていて、好きになってくれますように。
朝も晩も、同じことを思っていた。繰り返し繰り返し思っては、祈り願っていた。祈り続ければ夢は叶うと信じていたし、願い続ければ何もかもがうまくいくと、そう思い込んでいた。
この街に戻ってくるまで、私は賭けに負けるなんてことを、一度も考えたことがなかった。疑いすら持たなかった。だって、これだけ毎日願っていたのだ。それなのに叶わないなんてことがあるはずないと、子どもだった私は本気で信じ込んでいた。
「陀宰くんに今更、私のことを思い出してほしいなんて思わないよ」
「苗字、」
「嘘じゃないよ。本当にそう思ってる」
なぜなら思い出すということは、忘れてしまったからこそ行う行為だからだ。思い出してほしいと強請るのは、すなわち覚えていられなかったこと、忘れられたことを、これ以上なく認めることに他ならない。
現に私は、メイくんを『思い出した』ことなど一度もない。当たり前だ。そもそも一度だって、私はメイくんを忘れたことがないのだから。
途切れてしまった記憶はもう、つなげて紡ぐことなどできはしない。
記憶を途切らせ、気持ちを手放された時点で、私は負けた。
あの時メイくんの本心がどこにあったのか、少しでも私のことを好きでいてくれたのか、好きになってくれる可能性はあったのか。そんなことを考えるのは、もはや無意味なことになってしまった。
「私は『賭け』に負けちゃったってこと。だから、もういいんだ」
一息に言って、私は大きく息を吸い込んだ。
陀宰くんは言葉を失ってしまったように、しんと黙りこくっている。それもそうだ。こんな話をされて、言うべき言葉が即座に分かる人間などそうはいない。
重苦しい沈黙。そのさなかに身を置いて、私たちは互いに言葉を尽き果てさせていた。
陀宰くんの表情には、困惑と罪悪感が渦巻いている。言わなくてもいいことを言わせた罪悪感。唐突に持ち出された、受け容れにくい昔話。そりゃあそういう表情にもなろうというものだ。聞かなければよかったと、後悔するのも当然のこと。
カップに残っていた冷たいコーヒーを、私は一気にあおって飲み干す。そうして弾みをつけてから、私は笑顔を取り繕った。
「ごめんね、こんなふうに陀宰くんの心を乱すようなことを言って、陀宰くんも困るよね。本当は、こんなはずじゃなかったんだけど」
こんな話は言わない、言うべきでないと思っていた。けれど本心では、ずっと話したいと思っていたのかもしれない。その証拠に、陀宰くんにすべてを押し付けるという、絶対にすまいと思っていたあさましい行いをした直後だというのに、私の心はこんなにもすっきりしている。
(……それとも、開き直ってるだけなのかな)
自分の思考に自嘲する。もはや失うものはない。このすっきりとした気分は、投げやりになっているがゆえの、うっすらと危うい快さなのかもしれない。
けれどもう、それすらどうだっていい。
そんなこと、どうだっていいじゃないか。
「でも、もういいから。全部過去の話で、思い出で、とっくに終わった話だから」
最後まで、軽い調子を崩しはしない。たとえいたずらに陀宰くんの罪悪感をあおっただけだったとしても、ここで私まで深刻になってしまえば、いよいよ取り返しがつかなくなりそうな気がした。
「いや本当に。まさかこんな話をすることになるとは思ってなかったんだけど。しかもクリスマスだし。でもまあ、今までのことは水に流すというか……。できれば陀宰くんにも『まあ、いいか』って思ってもらって、それで、」
これからもやっていこうよ、と。
そう続けるつもりだった私の声を、陀宰くんがふいに遮った。
「よくないだろ」
「え?」
「全然、よくはないだろ」
突然のことに、私は戸惑い目を見開く。空気がぴしりと凍り付く、音まではっきり聞こえた気がした。
まさかこの場面で、陀宰くんから反論があるなんて。そんなこと、私はまったく思ってもみなかった。
低く厳しい陀宰くんの声は、苛立つように焦れて掠れていた。押し殺した感情をそのまま声として発しているようなその声の激しさに、私は思わず、びくりと身をすくませる。
「えっと……陀宰くん?」
一体どうして、陀宰くんが私の話を遮るのだろう。遮るだけならまだ分からなくもないが、彼は私の言葉を、決意を、完璧に否定しきっていた。ここまでの話を聞いておきながら、どうしてそんなことができるのか。
まさか、私が軽い口調で話しすぎたせいで、肝心なところが実際は何一つ陀宰くんに伝わっていなかったのだろうか。そんな懸念すら抱きかけ、しかしそれはさすがにないはずだ、とすぐに私は自分に言い聞かせる。
いくら一度忘れられていたとはいえ、ここ数か月のあいだ、私と陀宰くんは友人としてやってきたのだ。陀宰くんならば、私が軽い言葉の裏に隠した重たい感情に、気が付いていてもおかしくない。むしろ気付いていると思った方が自然だ。
そういう人だから、私は陀宰くんを好きになった。そういう人だから、諦めきれずにここまで来てしまった。
だけど本当は違ったのだろうか。本当は陀宰くんは、私の軽い言葉を軽いまんまで受け取って、軽々に否定できるものだと思っていたのだろうか。
それとも、そんなふうに陀宰くんを理解することすら、私が勝手に見る理想、幻覚だったのか。
あまりのことに、思考がうまくまとまらなかった。呆気に取られた私は、茫然と陀宰くんを見つめる。陀宰くんの顔色も、色を失ったように白い。けれど見つめているうちに、陀宰くんの頬には生気が宿るように、ゆっくりと朱が差していった。
「あの、よくないっていうのは……?」
「全然、よくない。よくないだろ。なんで、だってそれでいいわけ、ない」
どこか熱に浮かされるように、陀宰くんが言う。会話はいまひとつ噛み合っていない。けれどそれよりもとにかく、私は陀宰くんの苦しそうな声音ばかりに意識が向いていた。
こんなふうに感情を昂らせる陀宰くんを見るのははじめてだ。目のまえの彼の姿を、私は信じられない思いで見つめる。
「それでいいって、苗字は思うかもしれない。俺も似たような状況の時、同じことを思って……、でも本当はよくなかったんだ。そのことは俺が一番よく知ってる。それでいいわけない、いいと思えるわけがないって、本当はずっと思ってて」
「陀宰くん? ごめん、何言ってるのか、」
「本当は諦めたくなんかなかった。だから、そんなふうに諦めたって言われたら……っ」
血を吐くようなというのは、きっとこういう物言いをいうのだろう。声を荒げたわけでもないのに、陀宰くんはひどく苦しそうな表情を浮かべている。
「み、水、飲む……?」
「ごめん、……大丈夫」
「そう? あの、私が言うなって感じだけど、無理しないで……」
茫然とした私は、目を見開いて陀宰くんのことを見つめるしかできなかった。
おかしなことだと思う。忘れたのは陀宰くんで、忘れられたのは私。私に思いを向けていないのが陀宰くんで、思いを断ち切ろうともがいているのが私。それなのに、一体どうして陀宰くんがこんな顔をするのだろう。
忘れられ、諦めなければならない私より、そんな苦境に私を追い込んだ陀宰くんの方がずっとつらそうで、苦しそうで、そして――傷ついていた。