強さ正しさの模倣
すでに夕食時をまわったコーヒーショップの中は、あちらこちらに空席が目立つ。クリスマスだからだろうか、いつもより店内はがらんとして見えた。誰に憚るような話をするわけでもない。けれど陀宰くんと私は、壁際のしずかなテーブル席を選んだ。テーブルの上には手のひらサイズのスノードーム。正面には重たい空気を背負った陀宰くん。視線のやり場に困り、私は球体の中でひらひらと舞う銀色の雪を、ことさら関心ありげなふりをして一心に見つめた。
注文したばかりのコーヒーは、たっぷりと湯気を上げている。服のそでを指先まで伸ばし、手のひらでマグカップを包み込むと、バス停にいるあいだにすっかり冷え切っていた身体が、指先からゆるやかに温度を取り戻していくようだった。
陀宰くんはさっきから、口を開こうとしては閉じるのを繰り返している。
場所を屋内へ移したはいいものの、会話の緒がなかなか見つからない。私も陀宰くんも、互いに相手の出方を探っている状態のまま、かれこれ数分が経過しようとしていた。
話があると言ったのは陀宰くんだ。しかしどういうわけか、彼はほとほと困り果てたような顔をしている。
(うーん、どうしたものかな……)
私の方から何か話を振ったほうがいいんだろうか。マグカップの縁を指でなぞりながら、ふうむと思案する。
自分より必死な人間がいると、自分は逆に落ち着くことができる。陀宰くんの困り顔を見ながら、私は不思議なくらい落ち着いていた。
そもそも陀宰くんは、私に一体何の話をしようというのだろう。彼の切羽詰まったような顔を見る限り、何か深刻な話をされるだろうことは分かり切っている。それがどの程度深刻なのかは不明だが、適当な世間話でこの緊張感を曖昧にしていいものか分からない。
陀宰くんが私に打ち明ける深刻な話のたぐいといえば、過去のことか、今のことか、ヒヨリちゃんのことか。そのくらいしか私には思いつかない。すなわち、十年前のことを思い出したか、今の私の気持ちに気付いたか、ヒヨリちゃんとのことで相談があるか。
このなかで一番有力なのは、やはりヒヨリちゃんとのことだろう。陀宰くんとヒヨリちゃんの関係は、傍から見ていても膠着状態に見えた。進級してクラス替えする前にと、焦る気持ちは分からなくもない。
(その場合、私はどうしたらいいんだろうな……)
意中の相手に、自分の親友との恋愛相談をされるというのも、なかなか酷な話だと思う。もちろん私は陀宰くんの幸せを願っているけれど、今はもう夏休み前とは違うのだ。今ここにいる高校生の陀宰くんに対して、気持ちが大きくなってしまった。だから悲しいけれど応援するよ、なんて、殊勝な気持ちにもなりきれない。
そうなれない自分が、悲しい。
と、陀宰くんがおもむろに、伏せていた視線を宙に投げた。何かに気を取られたのか、耳を澄ませているように見える。
陀宰くんにならって、私も店内の音に耳を傾ける。そしてすぐ、陀宰くんが何に気を取られたのか理解した。
「クリスマスソングかかってるね」
「うん」
陀宰くんがてらいなく頷く。
流れているのは、クリスマスの時期になるとあちこちで聞く有名な曲だ。元の楽曲には英詞がついているはずだが、子どもたちの合唱曲として日本語詞もよく親しまれている。今流れているのは歌詞がなく、店内の雰囲気と合うジャズアレンジのバージョンだった。
「陀宰くんは、この曲が好きなの?」
「まあ、うん。好きというか、懐かしいなと思ったんだ」
「懐かしい?」
「昔、幼稚園で習って、歌ったから」
「……そっか」
そう答える以外に、言葉を思い付かなかった。陀宰くんがただの世間話として幼稚園といったのではないことが、はっきりと分かったから。
ポピュラーなクリスマスソングだから、たとえ幼稚園のクリスマス会で歌ったことがあったとしても、取り立てて特別なことではない。ただ、陀宰くんの声からははっきりと、言葉以上の含みが感じられた。もしも私が話題を振らなくても、遅かれ早かれ陀宰くんの方からきっと、ここを取っ掛かりに話を広げたことだろう。
幼稚園の頃の――私たちが隣同士の家に住んでいた頃の話を。
(バレたんだ……)
自分でも意外なほどに、冷静にそう思った。それ以上の感慨が湧いてくることはなく、ただ淡々と、粛々と、私は目の前の現実を受け容れていた。
思い出したんだな、ではなく、バレたんだな、と。
私の推測を裏付けるように、陀宰くんが続ける。
「うち、姉がいるんだけど」
「うん」
リアクションは頷きに留めた。陀宰くんは一瞬心配そうに瞳を揺らし、けれどそのまま言葉をつないだ。
「姉が苗字のことを、この間撮った写真で見て、……昔住んでたマンションの、隣に住んでた女の子じゃないか、って」
陀宰くんはまた、私の表情を窺った。顎を引き、どこか自信なさげな顔つきは、私の返事を待っているようにも見える。自分の記憶に自信を持てないゆえの、漠然とした不安もあるだろう。今の話を聞いた限りでは、陀宰くんは自力で私のことを思い出したわけではない。
陀宰くんは口を開きかけ、けれど呼気とともに、言葉をごくりと呑み込む。そしてそれきり彼は口をとざし、ふたたび沈黙の中に身を置いた。
宙ぶらりんになった話題を、一方的に私に委ねて。
(困った……)
視線を受け止めながら、私は眉尻を下げた。
どう考えても、陀宰くんの話はまだ本題に入っていない。私はまだ何一つ、陀宰くんから問われてはいない。「俺たち、昔会ったことがあるのか」とも、「姉の話は合ってるのか」とも。
彼の沈黙の理由。そんなもの、考えられる限り、たったひとつしかない。
陀宰くんはおそらく、私の意思を尊重しようとしてくれている。記憶の有無ではない。今現在の私の感情について、確認を求めているのだ。
覚えているかどうかは、きっと今この瞬間には関係ない。今この場で私がこの話をしたいかどうかだけを、陀宰くんは問うている。私が覚えていても、話したくないのなら話さない。そう決めている。陀宰くんはちゃんと、私に選択肢を用意してくれる。
(本当に、困ったな……)
目のまえの陀宰くんに向け、溜息を吐き出してしまいたくなる。そのくらい、困った。
困り果ててしまうくらい、私は陀宰くんのことが好きだった。
この数か月、幾度となく実感したことを、今もまた思い知らされる。何度も何度も実感しては、そのたび自分で自分の首を絞めるような思いに、泣きたくなった。こんなふうに思うのはやめてしまおう。金輪際やめてしまおう。これっきりで諦めよう。何度も繰り返しそう思った。
けれど結局、やめられなかった。こんな状況でもなお、私は陀宰くんのことを好きだと思っている。――好きだと思い、打ち砕かれる。
甘やかな恋心を自覚した数は、そのまま私が決意を挫かれた数でもある。私が陀宰くんに、敗北感を覚えた数とイコールだ。
むろん、馬鹿げた発想だ。覚えていたから勝ちとか、好きになったから負け、諦められたら勝ちとか、そんな考え方は当然ながら、けして正しいものではない。
分かっている。今の私にできること、求められた役割――唯一正しい、とるべき行い。
それは陀宰くんの誠実さに報い、こたえることだけだ。間違っても、自分の傷を見せびらかしたり、あるいは保身に走ったり、勝ち負けを云々と考えることではない。
言えないこと、言いたくないことは、私にももちろんある。言わずに済むのなら、それに越したことはない話も。だから一定のラインまでは誤魔化すことなく、はぐらかすことなく話をする。私が陀宰くんのためにできるのは、たったひとつ、それだけだった。
「懐かしいね、……お姉ちゃん元気?」
一呼吸おいてから、私は言った。陀宰くんは、はっと息をのむ。
陀宰くんの両手が持ち上がり、表情を覆い隠すように顔の下半分を包む。ぎゅっと目蓋を閉じた陀宰くんは、胸にたまった空気を根こそぎ押し出すように、深く長い溜息を吐き出した。やがて指の隙間から、呻き声に似た声をもらす。
「……姉貴なら、すげえ元気。元気すぎて俺が元気じゃなくなる」
「あはは、相変わらず仲いいね」
昔のことを思い出して笑えば、息を吐き出しきった陀宰くんが、意を決したように顔を上げた。目蓋を開く。瞳にまだわずかな躊躇いを残して、陀宰くんが私のことをまっすぐ見据える。
つきん、と胸に硬質な痛みを覚えた。私の存在が陀宰くんを思い悩ませている。目と目を合わせたことで、今更ながらにその事実を目の当たりにする。
「本当なんだな、姉貴が言ってたこと……」
絞り出すように、陀宰くんが言う。
「うん、本当。でも、そんなに落ち込むことかな? 私が昔の知り合いだったの、そんなに嫌だった?」
「そうじゃない。そうじゃなくて、今の今まで忘れてた……というか、今も思い出せない自分に、ちょっと嫌になってる」
「そんな気にしなくても」
「いや、忘れられるのって普通に嫌だろ……」
いやに頑固な物言いからは、何か私のあずかり知らない事情に裏打ちされていそうな雰囲気を感じる。別に罪悪感を持たれたかったわけでもないので、私はどうしたものかと苦笑した。
彼の躊躇いを、できることなら私がすべて、取り払ってあげたい。陀宰くんには私のせいで心を悩ませないでほしい。私なんかのために、躊躇や動揺を覚えないでほしい。それは掛け値なしの、私の本音だ。
陀宰くんの性格を思えば、それも難しいことかもしれない。だが好きな人に心やすらかであってほしいと思うことは、そうおかしなことではないはずだ。それならば、私はこのあとどうすべきか。
(どこにでもある『世間って狭いよね』という話に――つまらない話に、私自身が塗り替えれば。そうすれば、陀宰くんも少しは気が楽になるのかな)
私の感じるつらさを、陀宰くんが肩代わりしてしまわないように。私の託った不遇を理由に、陀宰くんが罪悪感を抱かなくていいように。
マグカップを掴んだ手に、ぎゅっと力を込めた。
「ま、忘れてても仕方ないよ。というか逆に、今こうやって再会してることの方が奇跡みたいなものだからね。うっかり再会してなかったら、お互いになかったことにして、大きくなってただけだろうし」
胸に痛みを感じながら、私はことさら軽い調子で言葉を紡いだ。
「懐かしいなー。私、いつも陀宰くんの後ろついて回って、お姉ちゃんにもたくさん遊んでもらったよ。お兄ちゃんは、さすがにかまってくれなかったけど。でも、たまにおやつくれたりしたっけ」
「俺は兄貴からおやつを貰ったことなんかないよ」
「そうなの? あ、でもたしかに『メイには内緒』って言ってたかも。あれもしかしたら、陀宰くんの分のおやつだったのかな」
「ああ、やりそう。すげえやりそうだよ、あの兄貴なら」
げんなりした口調で陀宰くんが言った。私の記憶にある限り、強烈な印象がもっとも強いのは、やはり陀宰くんのお姉ちゃんの方だ。だが実の兄弟の立場からすれば、兄も姉も程度は違えど等しく厄災ということなのだろう。陀宰くんの口ぶりには、その辺りの事情が強く反映されている。
兄弟の話をしたからか、陀宰くんを包んでいた緊張も、少しだけ和らいだように見えた。コーヒーを一口すする。苦みで頭がクリアになったおかげなのか、次に聞くべき言葉はするりと口をついて出た。
「陀宰くんさっき、お姉ちゃんに聞いたって言ってたよね。ということは、陀宰くんはまだ私のことを思い出してないってことかな」
別にそれでどうこうというわけではない。それでも、一応聞いておいた方がいいと思った。
予想していたことだが、陀宰くんはバツが悪そうに表情を曇らせた。せっかく和みかけていた空気がまたたく間に冷えてしまったが、これは予想していたことだ。どのみち避けては通れない話題なら、早々に片付けてしまった方がいい。
「思い出してはいない。……悪い」
「ううん、気にしなくていいよ。そもそもずっと覚えてるなんて約束、してないからね。本当のこというと、私も忘れられてるかもしれないなって覚悟してたし、だから大丈夫」
そりゃあ少しは寂しくもあったし、堪えもした。陀宰くんには言えないが、再会するまでは当然のように、陀宰くんが私を覚えていてくれると信じてもいた。
だが高校に入学して、もうじき二年だ。陀宰くんと同じクラスになってからは一年近く経とうとしている。すでにそうした痛みや感傷は鈍り、気にならないくらいになっていた。都度都度律儀に傷つきはしていても、同じ痛みの繰り返しなら嫌でもしだいに慣れていく。
「なんというか、陀宰くんにそんな顔をさせてることの方が、今はきついかな」
冗談めかして言った台詞に、陀宰くんはいっそう表情を険しくした。私が陀宰くんの手前、強がり、気丈なふりをしていると勘違いしたのかもしれない。
「……本当、ごめん」
「本当にいいんだって。それに、こうやってまた友達になってくれたわけだし。私はそれで、…………それだけで、もう十分だよ」
そう口にした瞬間、胸が一際強く、きりりと痛んだ。いつもの小さな痛みと違う、もっとはっきりとした疼痛だ。けれどその痛みすら、想像していたほど鋭くもなく、息が吸えなくなるほど苦しくもなかった。
覚悟していたより、痛みは小さかった。
(友達で十分だって陀宰くんに言うの、もっとつらいと思ってたのに)
耐えられる程度の痛みを胸に抱えながら、そんなことを思った。
陀宰くんと昔話をすることになったなら、私の失恋もまた、避けられなくなるだろう。ヒヨリちゃんを見つめる陀宰くんを見つめるたび、そう思い続けてきた。
いくら見て見ぬふりし続けても、陀宰くんがヒヨリちゃんに恋している事実は揺るがない。決定的な瞬間だけは先延ばしにできても、いつかは必ず受け容れるしかなくなる。
陀宰くんと過去の話をするのなら、そのときは私の失恋もセットになるはず。そして長年の恋を失恋として片付けるには、きっと相応の痛みを伴うはずだ。それこそ血を吐くような思いもするのだろう。これまで私は、漠然とそう思っていた。
十年来の思いをなかったことにされた話なんて、好んでしたいものではない。それを自ら口にして、そのうえ物わかりのいい良き友人のふりをしなければならない。そうしなければ、もうヒヨリちゃんとも陀宰くんとも一緒にはいられなくなる。果たして悲痛は、一体如何ばかりだろうか。私はずっと、怯えていた。
(だけど思っていたより、大丈夫そうでよかった)
ほっと安堵が胸を満たす。もうすでに、友達でいいと自分で線を引いてしまったからだろうか。少しだけ、心に余裕ができた。
その余裕ができた心で、思う。
(もう一歩、もう一歩くらいなら、踏み込んでも大丈夫かな)
どのみちもう、私に勝ちの目はないのだ。だったらいけるところまでいって、陀宰くんの荷物を取り払ってあげた方がいい。
陀宰くんはまだ、話したいことをすべて話し終えていない。短くない時間、陀宰くんを見つめ続けてきた人間として、私にはその確信があった。そしてこの期に及んで話しにくい、けれど話しておかなければいけなさそうな話題は、私と陀宰くんの間にはただひとつきりだ。
手元でマグカップがことりと鳴った。スノウドームは変わらず銀の雪をまき上げ続けている。
ごくりと口の中のつばを飲み込んで、私は陀宰くんに尋ねた。
「あのさ、陀宰くん。もののついでに、と言ったらなんなんだけど……お姉ちゃんから、ほかにも何か私のこと聞いた?」
「…………」
私の質問に陀宰くんは押し黙った。無言は何よりもの返答だ。陀宰くんの顔いっぱいに、申し訳なさそうな表情が貼り付いている。私は思わず、吐息を漏らした。
「聞いたんだね。察するに、私が陀宰くんのこと好きだった話とか、かな」
「……っ!」
「やっぱり。大丈夫、それで大体全部だよ。多分、陀宰くんがお姉ちゃんから聞いたことで全部。ほかにはもう、私に隠し事はない」
「隠し事って……」
「ごめんね、ずっと黙ってて」
できるだけ静かな声で、私は謝罪を口にした。そうすべきだと、謝るべきだと思ったからだ。
誓って言うが、この件に関して、私は陀宰くんに嘘を吐いたことはない。聞かれたことにはできる限り答えたし、過去や経歴について偽ったことはひとつもない。誤魔化したことくらいは何度かあるが、本当にそれだけだ。
ただし、私の知っていることを全部話しもしなかった。陀宰くんにはできれば何一つバレなければいいと思っていたし、今もまだ、本当はそう思っている。
もしも陀宰くんが私の恋心について知らなさそうな素振りをしていたら、私は絶対にこの話をしなかっただろう。何としてでも、陀宰くんの家の隣に昔住んでいた幼馴染、というところで話を止めたはずだ。
そんな私の胸中を知らず、
「もっと早く言ってくれたら……」
陀宰くんがぼそりと呟く。本人にそのつもりはないのだろうが、声にはやはり、咎めるような響きが滲んでいた。
「言えないよ」
私はそう答えるしかなかった。