幕間君のための椅子

 ◆◆◆

 自宅のリビングのソファーにあぐらをかき、陀宰はぼんやりとバングル内の画像データを眺めていた。姉が入浴前に見ていてつけっぱなしのテレビからは、トーク番組の軽妙な会話が流れ続けている。しかし陀宰の意識は散漫で、テレビの発する音も光も、すべて陀宰を素通りしていった。
 バングルのディスプレイには、以前凝部やヒヨリ、名前と一緒に撮影した写真が表示されている。
 真っ先に陀宰の目を引くのは、やはりヒヨリの顔だ。見なれたつつましい笑顔が、撮影係で無理な体勢をとっているせいか、少しだけぎこちなく強張っている。次にヒヨリの隣の凝部に視線が向き、さらにその隣に名前が目に入る。
(苗字……)
 普段はとくに気になるところのない友人のひとりだ。だが今日はやけに、意識に彼女が引っかかった。
 理由はなんとなく分かっている。学校帰りに寄ったコーヒーショップで、彼女の様子は明らかにおかしかった。
(おまけに凝部のやつ、引き取るように苗字を連れて行ったし)
 あそこまで露骨に引きはがされれば、さすがの陀宰でも何かあるのだと察する。その『何か』が名前と自分に関係することなのだろうということも。
 凝部が『何か』についてどこまで踏み込んでいるのかは分からない。だが少なくとも、陀宰より精通していることは間違いない。
 陀宰の胸が重たく沈む。
 『何か』はある。
 けれど、肝心の名前が抱えている『何か』が、陀宰には分からなかった。まるきり見当すらつかない。名前とは高校二年になるまで話をしたことはおろか、顔を合わせたこともほとんどなかった。
(そもそも『何か』って言われてぱっと思い付くことなんて、知れてるしな……)
 陀宰は長く、息を吐き出した。
 名前との関わりは、仲間内だと自分が一番薄い自覚がある。ヒヨリはもともと名前と親友だし、凝部もいつのまにか、すっかり名前と気の置けない間柄だ。
 陀宰に対しても、名前は最初ほど警戒心をあらわにしなくなってはいる。だが、時折はっきり距離をとられることがあって、陀宰はひそかにその理由を気にしている。
 嫌われているのかといえば、多分そういうわけではない。あくまで不自然な距離を保ちつつも、名前は陀宰に好意的だ。男子とそれほど接点のない名前がグループ単位でも一緒にいるという時点で、嫌われているとは思えない。
 そうなると、考えられるのはその逆。
(苗字が俺を? けど、そんなことあるか……?)
 ともすれば自意識過剰なことを考えて、陀宰は溜息を吐いた。
 陀宰の目から見ても、名前の容姿は整っている。ヒヨリを可愛い系とするのなら、名前はきれいなタイプ。一見とっつきにくくはあるが、話してみればそれなりに気さくでもある。
 もう少し態度が柔らかければ、さぞかしモテたことだろう。陀宰はひそかにそう思っている。だからこそ凝部と似合うだろうとも思ったのだ。凝部の前での名前は肩の力を抜いているように見え、よく笑う。
 けれど、凝部と名前の間に色恋めいたものはないという。名前は凝部のことを「絶対ない」と断言しているし、凝部もまた、名前とはそういうのではないとはっきり言っている。今日のコーヒーショップでの遣り取りからして、凝部との仲を勘ぐられること自体を良く思っていなさそうだ。
(そういや前に、苗字が凝部に告白するのは有り得ないって、凝部自身言ってたっけ)
 懐かしい会話を思い出し、また唸った。
 もしも名前が陀宰を好きで、凝部が名前の気持ちを知っているのなら――それならば、名前が告白するのは有り得ないと凝部が断言したことにも、一応の説明がつく。
 陀宰は視線を、写真のなかの名前に注いだ。撮影のとき、肩と肩がぶつかって、名前が息をのんだ気配がしたことは覚えている。そのときはそれほど気にもしなかった些細な仕草が、今になって気になって仕方がなかった。
(苗字は俺のことが好きなのか……?)
 写真のなかの名前は目元をうっすら赤らめて、眉尻を下げて笑っている。
 と、陀宰がひとり思索に耽っていると、リビングのドアがばんっと勢いよく開いた。
「メイぴょーん、風呂」
「単語で喋んなよ。つーかメイぴょん言うな」
「通じてんだからいいじゃん」
 風呂上りの薄着でずかずか近寄ってきた姉は、無遠慮に陀宰のそばにやってくる。陀宰のバングルが写真を開いていることに目ざとく気付くと、姉は陀宰の横にどかりと腰をおろし、その手元を覗き込んだ。
「それ何見てんの? 写真? 見せてごらーん」
「あっ、おい……!」
 ぐっと腕を握られて、拒む隙すら与えられない。ディスプレイの向きを陀宰の腕ごと調整した姉は、「ふーん、クラスの子かぁ」と物見高く言った。
 陀宰は溜息を吐く。この姉に捕まったが最後、抵抗すればするだけ痛い目に遭うのは自分だ。こうなれば無駄に抵抗せず、姉が飽きるのを待った方が早い。
 陀宰が早々に諦めるのを見越していたのか、姉は遠慮なくディスプレイを覗き込んだ。
「何これ、女子ばっかじゃん。メーたんて実はモテてんの?」
「普通だよ、普通。大体、この一番髪長いやつは男」
 陀宰の言葉に、姉が目をまるくした。
「へー、美人な男子もいたもんねぇ。メイメイも昔は可ー愛かったのに、今じゃこんなだもんねぇ。昔はさ、スカートとか穿いちゃってさ」
 油断していたところへ、とんでもない話が飛び出してくる。著しく尊厳を傷つけられた気がして、陀宰は反射的に吠えた。
「勝手に穿かせたの間違いだろ!?」
「そうは言っても泣いて喜んでたじゃん」
「泣いて嫌がってたんだよ! 記憶捏造すんな!」
 正確には陀宰に当時の記憶はないので、記憶の捏造と断言することはできない。しかし残っている当時の写真データを見る限り、幼い頃から兄や姉のおもちゃになっていたことは間違いなかった。スカートを穿いて喜んだなんて記憶もないから、どうせ姉が自分に都合のいいように言っているに決まっている。
「泣いたのは事実なんだから、喜んでようが嫌がっていようが一緒じゃない?」
 めちゃくちゃなことを言う姉に、陀宰はこめかみが鈍く痛むのを感じた。よくぞこの姉の支配下にありながら、ここまでまともに育ったものだと自分を褒め讃えたくなる。
 そんな陀宰の苦悩を知らず――慮ろうという態度の欠片すら見せず、姉はまた写真に視線を注ぐ。
「で? メイメイはこの可愛い女子ふたりのうち、どっちが好きなの?」
「はぁあ!?」
「うるさ。だって、好きな女子の写真をひとりでじっくり眺めたくて、こっそりニヤニヤ見てたんでしょ?」
 違うの? と聞かれ、陀宰はうっと言葉に詰まった。
 今この写真を開いていたのは、なんとなく今日の名前のことが気に掛かっていたからだ。写真に陀宰の求める答えがあるわけではないけれど、ぼんやり考えているうちに、自然と写真を開いてしまっていた。
 とはいえこの写真を、これまで何度かヒヨリの顔見たさに陀宰が開いていたことも、また事実。もちろんそこまで姉に知られているわけではないのだが、根が素直で嘘をつけない性分の陀宰は、露骨に狼狽え顔を赤くした。
「……どっちでもいいだろ」
 絞りだすように呟いて、陀宰は顔をそっぽに向ける。これ以上おもちゃにされては堪らないが、そこは末弟の悲しいさがとでも言うべきか。無理に姉の手を振りほどくこともできない。
「うわ、メイちゃんってば可愛くなーい。いいよ、それじゃああたしが当ててやるから見せてみなよ。ほら、バングル寄越しな」
「おい、やめろよ。でっ痛てててててて、痛ェよ!」
「メイたんが素直にバングル寄越さないからー」
 半ば腕を捻り上げるように、姉が陀宰のバングルを毟り取ろうとした。
 バングルは緊急時を除き、原則所持者本人にしか操作できないようになっている。しかし一時的かつ生体認証を済ませた所持者のごくそばで使用する分には、身体から取り外しても使用が可能だ。
 バングルを奪おうとする姉に、さすがの陀宰も渾身の力で抵抗した。かわりにバングルをつけた手首を、諦めの境地で姉の方へと差し出す。バングルごと取り上げられて勝手にいじくりまわされるくらいなら、腕ごと差し出したほうがまだましだ。
 姉は満面の笑みを浮かべると、空いた手で陀宰の頭を乱雑に撫でた。
「そうそう。そうやって最初から素直に言うこと聞いてれば、メイだって怪我しないのに」
「実の弟にその言いぐさ……」
 腕を生贄のように差しだして、陀宰は溜息を吐き出した。今後しばらくは、姉がヒヨリとも名前とも出会わないことを祈るしかない。うっかり鉢合わせなどされては、ふたりまで姉の餌食になりかねない。
(こんなことなら部屋に戻ってればよかった……)
 そう思っても後の祭り。仕方がないので、陀宰がぼんやりとつけっぱなしのテレビに視線を向けたところで、
「あれ」
 姉が不意に、何かに気が付いたような声を上げた。「なに?」と不機嫌な顔を隠しもしない陀宰に構うこともなく、姉は名前の顔をズームアップした。
「やっぱりそうだ、これ名前ちゃんじゃん。うそ、いつこっち帰ってきてたの?」
「あ?」
「これ、名前ちゃんでしょ?」
「そうだけど、つーかいい加減腕放せよ」
 姉の力がゆるんだ機を見逃さず、陀宰は腕を振り払う。姉はすでに写真そのものよりも名前に注意が向いているようで、あっけなく陀宰の腕を解放した。
 陀宰は素早くディスプレイをオフにして、ほっと安堵の息を吐く。ひとまず目の前の厄介ごとをひとつ片付けたところで、ようやく先ほどの姉の言葉に取り合う余裕ができた。
「なんで姉貴が苗字のこと知ってんだよ。どこかで知り合ったのか? あ、バイト先?」
「はぁ? バイト先って何の話」
「いや、高校生の苗字と姉貴が知り合いになるって言ったら、バイトくらいしか思い付かないから」
「何をとんちんかんなこと言ってんの? あんた大丈夫?」
 そう言って姉は訝しげな顔をする。だが怪訝に思っているのは陀宰の方も同じだった。
 名前と陀宰の姉では、年齢も違えば性格のタイプもまるきり違う。とてもじゃないが、接点があるとは思えない。それに『名前ちゃん』だなんて、やけに馴れ馴れしい呼び方なのも気になった。
 だが、陀宰の抱えた疑問のすべては、いとも容易く氷解した。
「知ってるもなにも、昔名前ちゃんがメイにくっついて回ってたときに、あたしも何回か遊んだことあるじゃん。え、なに? メイ覚えてないの?」
「は? なんだそれ……」
「だから、昔住んでたマンションの、隣の家の名前ちゃんでしょ」
 何を当然のことを、と言わんばかりの姉の言葉に、陀宰は絶句した。
(何回か遊んだことがある? 隣の家?)
 そんなこと、陀宰はまったく覚えていない。かろうじて引っ越し前に住んでいたマンションの内装くらいは薄ぼんやりと覚えているものの、当時の記憶はほとんど残っていなかった。
 身に覚えのない情報に、陀宰は混乱した。姉はそんな陀宰に構わず、ひとり思い出話にテンションを上げている。
「うわー、懐かしい。ていうか今度、うちに連れてきてよ」
「は?」
「だってこの写真、あんたと名前ちゃん、付き合ってるんでしょ?」
「ばっ……、つ、付き合ってねーよ……!」
 俺が好きなのは苗字じゃなくて、とうっかり余計な事まで口を滑らせそうになる。すんでのところで失言せずに済んだのは、ひとえに陀宰が失言するより先に、姉が「えーっ!?」と声を上げたからだった。
「付き合ってないの!? じゃあなんで一緒に写ってんの!?」
「クラスメイトだからだよ!」
 本当の本当に、それ以上でも以下でもない。姉が勝手にテンションを上げるのは構わないが、それで陀宰に見当はずれの嫌疑をかけて、大騒ぎするのはやめてほしい。
(なんで疲れてる日に限って、こうも面倒に巻き込まれるんだ……)
 陀宰はがくりと肩を落として、わが身の不幸を嘆いた。
「もう嫌だ、姉貴と話すと本気で疲れる」
「あんたがデカい声出すからじゃん」
「出させてんのはどいつだよ……」
 はあ、ともう一度大きな溜息を吐き出すと、横から姉に「ドンマイ」と肩を叩かれる。そっちはちょっとは気にしろよ、とは思うものの、言ったところで屁理屈が返ってくるのは目に見えていた。無駄な労力を割く気も起きず、陀宰はせめてもの意思表示として、もう一度溜息を吐いてから言った。
「つーか、苗字のやつ、俺と知り合いとか幼馴染とか、全然そんなこと言わなかったぞ。あっちこそ俺のことなんか忘れてるんじゃねーの」
「あんた影薄いもんねぇ……」
「余計なお世話だよ!」
 何か言うたびに、一回は怒鳴らされてしまう。分かっているのに乗ってしまう自分が嫌だったが、十七年の弟生活で身に沁みついた習性は、もはやそう簡単に抜けるものでもない。
 姉はやはり陀宰の怒号も何処吹く風でいる。そして平然と、「ふうん、そうなんだ」と面白くなさそうに呟いた。
「名前ちゃん、覚えてないんだ。あたしのことも覚えてないかな?」
「そりゃあそうだろ」
「でもメイのことは忘れてても、私のことは覚えてるかもしんないし」
「その自信はどこから来るんだよ」
 あ、でも。と姉が思い出したように言う。
「それじゃあ、あの時してた約束も、もう無効になっちゃったのかな」
「約束?」
 陀宰が首をひねると、姉はうん、と頷いた。
「まあ、約束っていうほど大層なもんじゃなかったかもしんないんだけど。小さい頃、大きくなったら結婚しようねー、みたいな、そんな話してなかった? あんたたち」
「は!?」
 今日一番の大きな声が出て、陀宰は思わずソファーから腰を浮かせた。
「け、結婚? 何の話だ!?」
「だから、あんたと名前ちゃんの話」
「待て待て待て! 全然まったく身に覚えがねーよ!」
 名前と昔の知り合いだったという時点で、陀宰にとってはかなりの衝撃なのだ。だというのに、その上さらに、陀宰の情報処理能力を凌駕する衝撃の情報が飛び出してくる。
 たとえ子どもが交わした他愛ない冗談だったとしても、陀宰にはそんな話はとても信じられない。陀宰はただ茫然と、しれっとしている姉を見つめた。
「ていうか、名前ちゃんの方がメイに懐いていて、大きくなったら好きになってねーだかなんだか、言ってたんだっけ」
 だっけ、と言われたところで、まったく覚えていないのだからどうしようもない。
 浮かせかけた腰をふたたびソファーに沈め、深々と溜息を吐いた。膝の上に肘をつき、陀宰は頭を抱える。
「……ちなみだけど、俺、それ何て返事したか分かる?」
 聞きたいけれど、聞きたくない。だが、何故か聞かなければならないような気がした。
 姉は陀宰の様子をとくと眺め、にっと意地悪く口角を上げる。
「それはあたしの口からはさぁ〜」
「そういうのは今いいんだよ!」
「ちょっと、それが人にものを頼む態度なのぉ?」
 姉が顎を上げ、居丈高に陀宰を睨む。陀宰はぐっと言葉に詰まった。が、たしかに陀宰は姉に頼む立場だ。文句はぐっと堪えて呑み込むしかない。
 ごくりと喉を鳴らすと、陀宰は浅く頭を下げた。
「……頼む、教えてくれ……」
「『教えてください』」
「……教えてください」
 屈辱に耐えながら、陀宰は絞り出すように言った。
「んー、まあいいか。メーたんがそこまで頼んで、風呂掃除もおつかいも代わるって言うなら」
「それは言ってねえ」
「じゃあ教えないけどいいわけ?」
「……分かった、代わる。だから教えてくれ」
 ずいぶん情報料が高くついてしまった。とはいえ、交渉は成立した。姉は組んでいた足を組みなおす。
「メイはねー、告白してくれた名前ちゃんに、めちゃくちゃ上から目線で『覚えてたらな』って言ってたらしいよ」
「っ!?」
「本当、本当。その場に居合わせたお母さんたちが何回か笑い話にしてたから覚えてる」
「最っっっ悪すぎる……!」
 いよいよ陀宰は頭を深く抱え込み、めり込みそうなほど轟沈した。
 当時の陀宰が名前のことを好きだったのか、それはこの際それほど関係ない。問題は何と答えたかどうかだ。そして幼い頃の自分ならば、もしかしたら大して何も考えずに名前の告白を了承している可能性もあるだろう。陀宰はそう思っていた。
 しかし、まさかそこまで偉そうなことを言っていたとは。さすがに予想の範疇を越えている。事実だとしたら顔から火が出るほど恥ずかしいし、名前に対してもこれ以上ないほどに無礼な物言いだ。
「いや、まじか……まじか? 姉貴の話ってどこまで信用できるんだ」
「おいこらメイ。聞いておきながらその言いぐさはどういうことよ」
「つーか苗字が忘れててくれて、まじでよかった……。そんな恥ずかしい話覚えてられたら、どんな顔してあいつに会えばいいのか分かんねーよ」
 ひどい話だが、今はそれだけが救いだった。
 いくら昔の名前が陀宰を好きだったかもしれなくたって、そんな酷い言い方をする男のことなど、ずっと好きでいられるはずがない。十年の間に告白の返事の酷さに気付き、腹を立てるに決まっている。むしろ告白に対し「覚えていたら」なんて返された時点で、名前の恋愛感情が永遠に凍結した可能性だってある。
 もしも名前が覚えていたら、まず間違いなく名前は陀宰に幻滅していただろう。だから、忘れていてくれて助かった。
 けれど、陀宰がほっと胸を撫でおろしたのも、束の間のことだった。
「それ、名前ちゃんは本当に忘れてんのかな」
 姉が何の気なしというように呟く。陀宰は「え?」と顔を上げた。
「忘れてるって、名前ちゃん本人が言ったの?」
 当然のことを確認するように問われ、陀宰は困惑した。
「苗字から何も言ってこないってことは、要するに向こうも忘れてるってことだろ」
 もしも名前が昔のことを覚えているのなら、黙っている理由などないはず。だから何も言ってこないということは、名前も陀宰のことなどとうに忘れ、忘れたことすら忘れている。そう考えるのが自然だ。
(本当は苗字は俺のことが嫌いで、昔の話なんか蒸し返したくもないって推理も一応成り立つが)
 名前から嫌われてはいなさそうだという、根拠とも言えない根拠をもとに、陀宰はその推理を却下した。
 姉は思案するように、顎に指を添えて唸る。
「うーん。でも、覚えてて黙ってるだけかもしれないよ」
「なんでそう思うんだ?」
「だって、メイが忘れてるなら、向こうからは言い出せないでしょ」
 その言葉に、陀宰はぎくりとした。
「それこそメイの言うとおり、名前ちゃんにとっても、こっ恥ずかしい思い出でしかないわけだろうし。それなのに『メイくんは忘れてたけど私は覚えてるよ!』なんて、堂々と言えるタイプじゃなさそうじゃん、名前ちゃん。今の名前ちゃんのこと知らないから、そこは何とも言えないけど。そもそも覚えてたらなって言ったメイが忘れてるわけだし」
 どうなの、と問われて、返答に窮した。
 もしも、再会した陀宰が昔の約束など何もかも忘れていたら。あまつさえ、自分の親友に片思いなどしていたら。
(苗字は黙っているだろうな……)
 なんとなくだが、陀宰もそう思った。名前ことをそれほど深く知っているわけではない陀宰ですら、そう思った。
「ま、本当に忘れてるならそれはそれでいいんだけど」
 姉はそう言うと、組んでいた足をほどいて立ち上がる。
「いっそ、今のメイのことなんか全然好きじゃない、約束なんかなかったことにしたいーって理由で、名前ちゃんが忘れたふりしてるとかならいいんだけど。もし全部忘れてるメイに気を遣って何も言えないでいるんだったら、名前ちゃん可哀相だね」
 言いたいことだけ言って去っていく姉に、陀宰は返す言葉もない。頭のなかでは今しがた投げつけられた姉の言葉と、名前の時折見せる切なげな、もどかしげな笑顔がぐるぐると回り続けていた。

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