くずれていく

「写真?」
 凝部くんが警戒したような目つきで首を傾げた。私は凝部くんの隣に鞄を置いて、さらにその横に腰を下ろすと、バングルでアルバムデータを呼び出す。私の手元を覗き込む凝部くんは「ヒヨリちゃんもだけど、キミも結構いろいろ急だよね」と苦笑した。
「ていうかもしかして、ついにキミの『秘密』を教えてもらえるの?」
「まあ、そういうことになりますね。知りたくないって言われても聞いてもらうつもりでいるけど、大丈夫?」
「ここまで引っ張られて、聞かないって選択肢はないでしょ」
 凝部くんと話をしながらも、私はバングルを操作し続ける。アルバムデータの中でも、普段は一番奥底に隠している保護フォルダ。保護フォルダはいくつかあるが、そのフォルダはたった一枚の写真を保存しておくためだけに作った、特別なフォルダだった。
 手早くパスワードを入力する。次の瞬間、手元に展開されたディスプレイに、一枚の画像がぱっと表示された。
 紺色の制服をお揃いで着た小さな子どもたちが、ざっと十五人ほど、二列に行儀よく並んでいる。その脇には付き添うような恰好で、エプロン姿の先生が柔和な笑みを浮かべている。
「何これ、幼稚園のクラス写真?」
「そう。現像したものを撮影してるから、あんまり画質がよくないんだけど」
 自宅にある幼稚園時代のクラス写真を、さらにバングルのカメラで撮影した写真だった。どういうわけだかデジタルのデータは紛失してしまい、手元にあるのはアナログデータを撮影した、この一枚だけだ。
 さすがにフィルム写真を現像したものは劣化が激しく、デジタルデータより画質は大幅に劣る。それでも、子どもたちそれぞれの顔を容易に識別できる程度には、鮮明な画像だ。
 その写真の、エプロンをつけた先生の隣でむすっと固い表情をしている女児を指さす。
「ここにいるのが私」
「面影あるー。何でこんな顔してんの? 写真嫌いなの?」
「写真が嫌いだったんじゃなくて、慣れない場所が嫌だったの」
 この写真は年少の頃のもの。だからほかの写真と比べても、ひときわ仏頂面をしている。家にはほかの学年の写真も残っていたが、わざわざ私のバングルにデータを移しているのは、幼稚園時代の写真ではこれだけだ。
 理由はたったひとつ。年中と年長の二年、私と陀宰くんは違う組だった。だから私たちが一緒の組だったことが分かるのは、このただ一枚きりなのだ。
 そのとき、凝部くんが「え」と声を上げた。
「……ちょっと待って。これもしかして、名前ちゃんの隣にいるのってメイちゃん?」
「そうだよ」私は頷いた。
「それは幼稚園の頃の陀宰くん」
「じゃあ、名前ちゃんとメイちゃんって、幼稚園の頃に知り合ってたんだ」
「予想通りだった?」
「大体……、いや、でもさすがに、そこまではっきり縁があったとは思わなかったかな。どこかで知り合って、名前ちゃんが一方的に知ってるとか、そんなところだと思ってた」
 私の問いに、凝部くんは嘆息とともに答えた。そして、「メイちゃんは覚えてないんだ。このこと」と独り言のように吐き出す。私はできるだけ悲壮感が漂わないよう、無理やりに笑顔をつくって頷いた。

 目のまえを、自動車が次々に通り過ぎていく。もう何台のバスがここで停車し、そして私たちを乗せることなく去っていったのか、数えるのはとっくにやめている。
 今が秋でよかった。これがもしも夏や冬だったなら、きっとこんなふうに屋外のベンチに腰かけて昔話なんて、とてもしていられなかっただろう。
「昔、私が小さい頃に住んでたマンションに、陀宰くんも住んでて……それで、部屋がうちと陀宰くんちで、隣だったんだよね。生まれたときから、というか、赤ちゃんのときから一緒だったって、母から聞いたことあるよ」
「うわー、なんだかどこかで聞いたような話」
「ヒヨリちゃんと萬城くんでしょ? 私と陀宰くんは、あそこまで仲良くなかったけどね。……というか、私は陀宰くんにべったりだったけど、陀宰くんはそうでもないって感じだったかな。どっちかいうと、多分陀宰くんは私のこと、面倒くさがってたと思う」
「メイちゃんが?」
「私、ものすごく人見知りもするし、どんくさい子どもだったから。そもそも小さい頃の陀宰くんって、今よりもう少しぶっきらぼうだったような気がする。もちろん、優しくはあったけど」
「ぶっきらぼうで優しいって矛盾してない?」
「してないよ。一緒に遊んでても面倒になると私のこと置いてっちゃうし、お姉ちゃん――陀宰くんのお姉ちゃんがいるときは、私のことお姉ちゃんに押し付けようとしたり。でも、置いて行ったら迎えに来てくれるし、泣いたらちゃんと手を握ってくれたし」
 話しているうちに、胸がじんわりとあたたかくなった。そのときの情景まで思い出せるわけではない。けれどそのとき感じたあたたかさならば今もまだ、私の中には消えない熾火おきびのように、たしかに残っていた。
 それだけじゃない。陀宰くんとの思い出なら、いくらだって挙げられた。いつでもどこでも陀宰くんの後ろにくっついて歩いていた私だから、昔住んでいた街を歩けば、至るところに陀宰くんとの記憶が残っている。
 一緒に遊んだ公園も、児童館も、マンションの中庭も。何処にでもあるようなただの道路ですら、私には陀宰くんと一緒に縁石の上を歩いた、思い出の場所だった。

「陀宰くんのこと、好きだったんだよね」

 そう言葉にした瞬間、ついつい笑ってしまった。考えてみれば、陀宰くんへの気持ちをはっきりと声に出したのは、ずいぶん久し振りのことだ。
 好き。シンプルな言葉だけれど、それ以上に言い換えようがない。愛しているなんて大仰すぎるし、大切だというには俗っぽすぎる。執着というのが正しい気もするけれど、それすらも『好き』の変容した結果でしかない。
 好き。好き。陀宰くんのことが好き。
 十年もの間、私はそれ以外に、自分の感情を、状態を、言い表す言葉を知らなかった。
 いつのまにか膝の上に置いていた手に向けていた視線を、ゆるりと顔ごと持ち上げる。あんまり俯いて話していると、会話の中身が姿勢に引っ張られて、悲観的になってしまいそうだった。
 お腹に力をめる。そうすると少しだけ、身体に気力が戻ってきたような気がした。
「私は陀宰くんのことが好きで……、だけど当時はさ、好きなんて言えなかったよ。まあ、好きって言えないのは今も変わらないんだけど。だって、今はもちろんあの頃だって、陀宰くんが私のこと好きじゃないのなんて、分かりきってたし。そういうのって、子どもでも分かるものだよね」
「ていうかさっきのメイちゃんの自我の芽生えの話聞く限り、そもそも恋愛感情が未分化だった気がするけど」
「たしかに、それはあるかも」
 私だって取り立ててませていた方ではない。けれど少なくとも、幼稚園の年長になる頃には、恋愛感情というものの存在は知っていた。その中身までは分かっていなくても、自分の両親や陀宰くんちの両親のように連れ添いたい相手を選び、その相手に抱く感情を恋と呼ぶのだろうと、その程度の認識は持っていた。
 だから、引っ越しをして陀宰くんと離れ離れになると分かったとき、今こそ告白すべきときなのだと思った。好きだと伝えることへの躊躇いは、微塵も感じなかった。
 たとえ陀宰くんが私のことを好きじゃないと、分かっていても。
 今思えば、離れ離れになるからこそ、大胆なことができたのかもしれない。
「引っ越しが決まって、いよいよさよならってときに、陀宰くんに好きですって言ったんだ。恋人にしてくださいって」
「ませてるなー。それ絶対メイちゃん『うん』とは言わないでしょ」
「そうだね。うんとは言ってくれなかった」
 というより、多分陀宰くんはそのとき、恋人とは何なのかすらよく分かっていなかったんじゃないだろうか。私だって、ふわっとしたイメージだけでものを言っていた。
 だから、当然のことながら私の告白は断られた。生まれてはじめての告白は、無残な玉砕という結果になったわけだ。それでも、まったく希望がないわけではなかった。
「でも、ただふられただけってわけじゃなかったんだよ」
 私の告白に否やを突き付けた陀宰くんは、それでもなお食い下がろうとする諦めの悪い私を見て、困ったような、面倒くさがっているような、照れているような顔をして、言ったのだ。
「『大きくなって戻ってきたとき、覚えてたらな』って、陀宰くんが」
 そしてそれは、私にとってはまさしく福音だった。
 たしかに振られはしたけれど、それでもどうにか、私の恋心は首の皮一枚つながって、ついえずに済んだ。そのときはもちろん、いつかこの街に戻ってこられるなんて話はなかったけれど、それでもいっこうに構わなかった。
 家族で戻ってこられないなら、私ひとりが戻ってくればいい。私だけでも、陀宰くんに会いにくればいい。『大きくなって戻ってきたとき、覚えていたら』と、陀宰くんが言ってくれたのだ。たったそれだけの、約束とも呼べないような言葉ひとつだけで、私の小さな胸には十分だった。
「……で、戻ってきたはいいものの、肝心のメイちゃんがぜーんぶ忘れちゃってたと」
「まあ、そういうこと」
 私の話はそれで全部だった。一番最後、オチになる部分は今、凝部くんが代弁してくれた。
 期待に胸を膨らませ、いざ戻ってきたこの街で、陀宰くんのなかに私はもういなかった。高校の入学式の日、体育館ですれ違った私のことを、陀宰くんは多分見てすらいなかったんじゃないだろうか。
 入学式の直前、私は体育館の前で待機する陀宰くんのすぐそばに、それこそ手を伸ばすまでもなく、肩がぶつかる距離に身を置いていた。気が付いてくれるだろうか。覚えていてくれるだろうか。淡い期待に胸をじりじり焦がしながら、私はそこに立っていた。
 けれど陀宰くんの視線は結局、一度として私に向きはしなかった。
「メイちゃんさぁ……」
 凝部くんが呆れ声で呟いて、弱ったように眉尻を下げる。
「昔からの知り合いかな? メイちゃんが忘れてるのかな? ってあたりまでは予想してたけど……、さすがに、ちょーっとかばいだてするのが難しいレベル」
「でも、私が言うのもなんだけど、しょうがない気もしない? だって、幼稚園の頃の約束なんて、覚えてない方が普通だし。まして、ずっと一緒に大きくなったんじゃなくて、私と陀宰くんはそれきり連絡を取り合ったりもしてなかったんだし」
 いつか、萬城くんが話していた言葉を思い出す。
『家が隣じゃなくても、俺はお前の隣にいたはずだ』
 あれは無論、徹頭徹尾ヒヨリちゃんに向けた萬城くんの愛の言葉だった。けれど、聞いている私の胸にちくりと鋭く刺さった言葉の棘は、そのまま今日まで抜けずにいる。
 萬城くんの言葉は、所詮ずっと一緒にいられた幼馴染だからこそ言える、仮定の言葉。実際に離れ離れになったとして、その思いを貫けるかは誰にも分からない。
 ならば、ヒヨリちゃんと萬城くんは、うまくいったかもしれない世界の、私と陀宰くんの『もしも』の姿なのではないか。
 もしも私が引っ越しせず、ずっと家が隣同士の幼馴染で居続けたら。そしたら彼は今頃、私の隣にいてくれたのだろうか。
 一度そう考え始めると、甘えた思考を止めることができなくなった。
 陀宰くんが私を忘れてしまったのは、私のせいではないんじゃないか。悪かったのは距離と時間があったからじゃないのか。だとしたらこの現状は、私にはどうしようもない、悲しい不運だったんじゃないか――
 歯止めのきかない思考回路は、益体のないことばかりを考えつく。そして私の惰弱な精神は、その甘くてやさしい幻想に、ついつい縋りつこうとする。
 けれど本当は、分かっていた。そんなはずはない。そんなことは、ありもしない妄想だ。
 『もしも』はこの世に存在しない。
 萬城くんの言葉の裏には、彼が幼いころから変わらずヒヨリちゃんを思い続けているという、もっとも重大な背景が存在している。ヒヨリちゃんからも、恋心とまでは断言できないまでも、萬城くんを大切に思う心がたしかにあったはず。離れていてもという言葉は、そもそも一緒にいるときの絆がなければ成立しない。
 私と陀宰くんの間には、そんなものはなかった。少なくとも、陀宰くんから私に、好意はない。だから幼馴染であり続けたところで、隣に並んでいられたかなど、分かりっこない。
「メイちゃんには言わないの?」
 凝部くんが、囁きほどの声音で問うた。
 やわらかくて優しい、気遣いの滲む声だった。
「言わないよ。この先も、ずっと」
「……思い出してほしいとは思わないの?」
「たぶん、思わないかな」
「どうして」
「だって、本当は私は、思い出してほしいんじゃなくて……」
 そこで一度、私は言葉を切った。凝部くんが訝しげに私を見ている。まるで、もはや心の奥底までさらうように手の内をすべて明かしてしまった私には、ここで言葉を途切れさせる理由などないだろうというように。
 私は自分の迂闊さに、内心で苦笑した。事情はもうすべて話したし、凝部くんの知りたいことも大方は全部教えたはずだ。これ以上は何を言ったところで、私の個人的な感傷の話でしかない。そして私はその感傷を、凝部くんに晒すつもりはなかった。
「それに、陀宰くんはヒヨリちゃんを見つけちゃったしね」
 取り繕うように足した言葉は、文脈としては繋がっていないかもしれない。しかし説得力だけは十分だ。その証拠に、凝部くんはもの言いたげな顔つきで私を見つつも、ぐっと口をつぐんだ。
 これを好機と、私はさらに畳みかける。
「仮に、仮にだよ、私が陀宰くんに思い出してほしかったとして。だけど、なんとなく『ああ、もう無理かもな』っていうのが、陀宰くんを見てたら分かるでしょ。ヒヨリちゃんを見つけちゃった陀宰くんは、もうきっと、私のこと思い出したりしないだろうなーって」
「それでも、思い出してほしいのなら、思い出してほしいって言う権利くらいはあると思うけどね。それで思い出してもらえるかどうかは別としても」
 真摯な言葉は胸を打つ。凝部くんに胸のうちと過去を吐露してよかった。今ここに至って、私は素直にそう思った。
 凝部くんは肯定してくれる。私が利己的であってもいいと、たしかに認めてくれる。それだけで、自分でも驚くほどに救われた気分になった。
 胸と、それから、バングルをつけた腕が軽い。私はひらひらと手を振って、笑いながら答えた。
「陀宰くんが幸せなら、私はそれでいいよ」
「……強がっちゃって」
「まあね」
「そういうとこばっかり、似てるよね。キミたちって」
「似てる? 誰に?」
「見てて嫌になるよ。そういうの」
 私の問いに答えを差しだすことなく、凝部くんはくしゃりと顔を歪ませ笑う。端正な顔だちはこんな時でも麗しかった。
 やおら凝部くんが立ち上がり、「行こうか」と切り出す。
「このバス停にいても、僕ら永遠に帰れないし。もうメイちゃん帰ったと思うから、さっきのバス停に戻ろう」
「そうだね、戻ろう」
 長話をしていたせいで、身体はすっかり冷え切っていた。歩き始めると、身体が油を差し忘れたようにぎこちなく軋む。私の少し前を歩く凝部くんは、こちらを振り向かないまま言った。
「俺はこの話をこっそりメイちゃんに知らせるほど、親切じゃないよ」
「そんなこと全然期待してないから大丈夫」
「でも、メイちゃんは多分、忘れてるってことを知りたいだろうね」
 それはそうだろう。陀宰くんはそういう人だ。
 だからこそ、余計に話せない。凝部くんにだって、本当は話すつもりではなかった。
「……ごめんね凝部くん、こんな話して。秘密の片棒担がせちゃった」
 私の本心からの謝罪に、凝部くんは「それこそ今更すぎ」と軽口で答えた。

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