夢にはいつも終わりがあって
「あ、」と、ふいに陀宰くんが、マグカップから口を離して声を漏らす。
「そういえばクリスマス、中学のときの友達がなんかやるって言ってたな」
「露骨に話を逸らしましたね」
萬城くんの冷ややかなツッコミに、
「話題を! 元に! 戻したんだよ!」
陀宰くんが顔を赤くする。私も萬城くんと同じことを感じたが、話題変更はこちらとしても望むところ。陀宰くんの言うように元の話題に戻っただけなので、私は特に言葉を差しはさむこともなく、冷えたドリンクをすすりながら会話に耳をそばだてる。
「なんかって何?」
珍しく軌道修正する凝部くんの質問に、陀宰くんは首を横に振った。
「知らん。けど昔からの友達だし、普通に集まって遊ぶんじゃないか? それこそゲームとかやって」
「ふーん。小中学生の時の友達とか、僕もう全然会う気しない」
突き放すように凝部くんが言う。その物言いに対して、ヒヨリちゃんと萬城くんは、
「私は今でも時々遊ぶけど」
「俺も」
と、仲良く口を揃えた。そもそも萬城くんは去年まで中学生だったのだから、今でも一緒に遊ぶくらいはするだろう。
「ヒヨリちゃんたちは牧歌的な地区出身でしょ。都会にはそういう文化ないんで」
「ちょっと、別にうちの近所は田舎じゃないんだけど」
ヒヨリちゃんがむっとして言い返す。ヒヨリちゃんや萬城くん、それに私が今住んでいる地域は、市内でも治安が良く、なおかつ子育て世帯が多い地域だ。小さな子どもだけでなく、ある程度大きな子でも、あちこちの公園で遊んでいるところをよく見かける。
凝部くんは比較的高校に近い都市部のマンション暮らしだというから、ヒヨリちゃんたちの学区とは事情が違うというのも頷ける。
「ていうかそんな小さい時の友達と会って、今さら何を話すっていうのさ? 純粋に疑問なんだけど。話題とかなくない?」
「幼稚園の頃の話とか?」
ヒヨリちゃんの返事に、凝部くんは「えぇー?」と、納得していなさそうな声を出す。
「そんな昔の思い出話なんか話すの?」
「うん。それに私は通ってた幼稚園の先生と、今でも新年のあいさつ送ったりしてるよ。だからあんまり『過去の人』って感じでもないかな。トモセくんもそうだよね?」
「ああ、年賀メッセージのやりとりくらいはしてる」
「うげ、信じらんない。だって他人じゃん」
「他人って……」
「男子三日会わざれば刮目して見よって言葉知らないの? 十年前の知り合いとか、僕からしてみれば見ず知らずの他人も同然だよ」
どうもこの話題では、凝部くんとヒヨリちゃん、萬城くんの意見は相容れないらしい。私は黙って三人の遣り取りに耳を傾けた。
どちらかといえば、私の考えは凝部くんに近い。けれど私は凝部くんほどすっぱりと、過去を過去と割り切れているわけでもない。何せ私の胸には十年来の執着が、今なお消えずに燃え続けているのだ。それを手放してもいないのに、凝部くんのように淡白にはなりきれない。
と、その十年来の執着の相手先である陀宰くんが、ぼそりと言葉を挟む。
「俺も、さすがに幼稚園の頃の知り合いとはもう遣り取りないな」
我が意を得たりと言わんばかりに、凝部くんが「だよねー」と笑った。
「そもそも僕、幼稚園の頃の記憶なんかほぼないし」
凝部くんの言葉にぎくりとしながら、私は笑顔で波打つ感情を押さえ込む。今のはあくまで、凝部くんの言葉。たとえ陀宰くんが凝部くんに同調しているからといったって、陀宰くん本人が発した言葉ではない。
けれど、続く陀宰くんの言葉を聞いた瞬間、すべての物音がふっと私の周囲から遠のいた。
「俺だってそうだよ。せいぜい小学校の四年とか、そのくらいからの記憶しかない」
ふつり、と。
その瞬間、私の身体と世界の接続がはずれたような――ぽんとひとり、孤独な世界に放り出されたような――そんな心許ない気分に、突き落とされる。
「え? それはメイちゃん、自我の形成が遅すぎない……?」
「そんなもんだろ。小学校以前の記憶なんてほぼない」
残りの会話は、ろくに頭に入ってこなかった。耳は声を音として拾っているものの、それを処理する脳が、正しく正常に働いていない。
(そっか、陀宰くん、本当に覚えてないんだ)
がつんと重たいもので頭を殴られたような気分だった。あるいは、胸にどろどろに溶けた鉛を流しこまれたような。
きりきりと、胸が痛む。
こんなこと、何度も何度も思い知らされてきた事実に過ぎない。陀宰くんは私のことを覚えていない。私のことを忘れている。それこそ何度だって受け容れてきた。それを今この瞬間もまた、反復確認しているにすぎない。
それでも今までとは、受ける衝撃の度合いがまるで違った。
陀宰くんの口からはっきりと、幼稚園の頃のこと――幼稚園のころに一緒にいた私のことをまったく覚えていないと言われた。陀宰くんの口から、はじめて。
本当の意味で、一条の希望すら残されなかった。完膚なきまでに、忘れ去られていることを突き付けられた。そのことに眩暈を覚える。
(ばかみたい、だけど……まだ期待してたってことか……)
ここに至ってはじめて、私は気が付いた。諦めると再三言いながら、私はまだ心のどこかで、陀宰くんに対して縋るような希望を持ち続けていた。
もしかしたら忘れたふりをしているだけかもしれない。私に言わないだけで、本当は覚えているのかもしれない。
それならそれで、本来ひどく悲しいことではあるけれど。
けれど、でも、それでも――。
「名前ちゃんは?」
「……え」
聞き慣れた声に名前を呼ばれ、はっとした。まるで私の周りに張ってた膜がぱちんと割れて消えたかのように、あるいは世界に再接続されたように、遠退いていた音が戻ってくる。
「名前ちゃん?」
私の顔を、ヒヨリちゃんが心配そうな表情でじっと覗き込んでいた。見ると彼女以外の面々も、視線を私に注いでいる。どの程度ぼんやりしていたかは分からないけれど、みんなから注目される程度には長く呆然としていたことだけはたしかなようだった。
「あ、えーと……なんだっけ。ごめん、ちょっとぼーっとしてたかも」
「大丈夫ですか? 先輩、なんだかあまり顔色が」
「いや、それは大丈夫。ありがとうね、萬城くん。ちょっとバイト詰め込み過ぎて疲れてるのかも」
その場しのぎの口から出まかせだったが、それほど怪しまれることもなかった。私がかなりバイトを詰め込んでいることは、この場にいるメンバーならば全員知っていることだ。
いつのまにか、窓から見える日が傾き始めていた。私の顔色をうかがったヒヨリちゃんが、ゆっくりとテーブルの上を片付け始める。
「そろそろ帰ろうか。あんまり遅くなると、アステルがまた寂しがっちゃう」
「別に少しくらいいいだろ。あいつは少しヒヨリにくっつきすぎだ」
「もー、いいでしょ」
萬城くんとヒヨリちゃんが、全員分のカップをトレーに集めて片付けに立ってくれた。私は、置きっぱなしのヒヨリちゃんの鞄と自分の荷物を持ち、椅子から腰を上げる。と、急に立ち上がったせいで、足もとが覚束なくふらつく。
ぐらりと身体が揺れた。視界が傾ぐ。
「ぁ、」
「っと、――おい!」
その瞬間、ぐいと強く引き寄せられた。一拍遅れ、倒れかけた私の身体を、陀宰くんが咄嗟に片腕を伸ばして抱きとめてくれたのだと気付く。
前のめりになっているせいで、わずかに踵地面から浮いていた。重心を戻し、ぱたぱたとたたらを踏むように、数歩足踏みする。
はっと振り返れば、思ったよりもずっと近い距離に陀宰くんの顔があった。陀宰くんは驚いたような心配しているような、ちょうど半々な表情で私を見つめていた。
一度意識してしまえば、途端に身体が熱くなる。顔が火照り、身体の動きはぎこちなく軋む。
「苗字、大丈夫か?」
「あ、うん……、ごめんね……」
答えた掠れ声は、自分でも恥ずかしくなるくらい、妙な甘さを帯びていた。余計に顔が熱くなる。そんな自分の浅ましさが恥ずかしくて、私はなけなしの理性で叱咤した。
浮かれたところで、意味なんかない。
照れたところで、何が起きることもない。
自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も胸の中で同じ戒めを繰り返す。
そうしているうちに、私の身体から徐々に、すっと熱が引いていくのが分かった。足元の床に吸い込まれるように、熱が身体から抜け落ちていく。
私はゆっくりと、陀宰くんの腕から身体を離した。
この腕の温度を名残惜しく思う権利を、私はひとかけらも持っていない。いつまでもこの腕に支えられ、縋っているわけにはいかない。
「ごめんね、陀宰くん。もう、大丈夫みたい」
言葉を区切って伝える。すると陀宰くんは何故か、ぐっとくちびるを噛んだ。
(どうして、)
どうして、そんなもどかしそうな顔をするのだろう。なんで、陀宰くんが何かを堪えるような表情をするのだろう。
陀宰くんに忘れられてしまった私ではなく、どうして、私を忘れた陀宰くんが。
何を言えばいいのか分からずに、私はただ身じろぎもせず、陀宰くんの視線の前に晒されていた。言葉も、些細な仕草ひとつすら、何か大きなあやまちにつながりそうで恐ろしい。
喉はからからに乾いている。目蓋を閉じ、まばたきすることすらかなわない。
陀宰くんは一度、ぎゅっとくちびるを引き結ぶ。そして意を決したとでもいうように、視線に力強さを宿した。
薄いくちびるが、浅く呼吸をするように開く。吸い込まれそうな気分で、私はそのくちびるをじっと見つめた。陀宰くんの喉がごくりと動く。
「苗字、あのさ」
陀宰くんの声が、頭の中でわんわんと反響している。
「違ったら悪いんだが、」
陀宰くんの瞳が、私に答えを迫って――
「……その、お前、もしかして何か俺に――」
「ちょっとー、メイちゃんはいつまで名前ちゃんと見つめ合ってるわけ?」
そのとき、唐突に横から揶揄うような声を掛けられ、私と陀宰くんはほとんど同時に目を見開いた。はたと我に返った私は、慌てて陀宰くんから距離をとる。
「えっと、ごめんね、本当に」
「あ……っ、す、すまん……」
「ううん、それと、ありがとう」
陀宰くんから視線をそらし、ヒヨリちゃんたちの元へと駆け寄る。途中、すれ違いざまに凝部くんから掛けられた真剣な視線が、私を責め、苛んでいるような気がした。
ヒヨリちゃんと萬城くんは、これからクリスマスプレゼントを見繕いに、ぶらぶらと店を見て回ることにしたらしい。先に来たバスに乗るふたりをバス停で見送ると、残されたのは陀宰くんと凝部くん、それに私の三人きりだった。
バス停に設置されたディスプレイの時刻表と路線図を見比べて、次に来るのが凝部くんの乗るバスだと知る。ということは、凝部くんが行ってしまったあとしばらくは、私は陀宰くんとここでふたりきりになるということだ。
(正直、気が重いな)
陀宰くんと一緒にいることを憂鬱に思うのは、本当に久し振りのことだった。夏休み明け、ヒヨリちゃんを通じて陀宰くんたちと友達になるより前。私のことを覚えていない陀宰くんを見るのがつらくて、頑なに避けてしまっていたあの時期以来。
とはいえ、凝部くんにバスに乗るなとはいえないし、ここで私が違うバスに乗るのもおかしい。陀宰くんがさっき何を言いかけたのかも、気にならないわけではない。
気が重くはあるけれど、結局はなるようにしかならない。そう思うしかない――と、諦めにも似た気持ちで腹を括ったところで、やおら凝部くんが、私の腕をくいっと引いた。
「ねーねー名前ちゃん。悪いんだけど、今からちょっとだけ、僕に付き合ってくんない?」
「え?」
突然のことに、私は目を白黒させた。視界の端で、陀宰くんも驚いたように凝部くんを見ている。
「ちょっと、凝部くん、」
「いーから」
抗議の声を上げようとしたところで、凝部くんが私の耳元でこそっと囁いた。短く発せられた言葉に、私は息をのむ。一体どういうつもりなのか、凝部くんの考えていることが分からない。
けれど凝部くんのおかげで、はからずも陀宰くんと二人きりで過ごさずに済む可能性が出てきた。私は凝部くんに腕をつかまれたままで、陀宰くんをそろりと見る。
陀宰くんは訝しげに眉根を寄せていた。
「おい凝部……、こいつ調子悪そうなのに」
「分かってないなぁ、メイちゃんは。調子が悪そうだから言ってんの」
「は?」
「名前ちゃんは、俺の言うこと分かるよね」
甘い色の瞳で問いかけられ、私は返答に窮した。
正直に言えば、凝部くんの考えていることは分からない。少なくとも、今の行動の理由については、まるきり見当がつかない。
戸惑う私に、凝部くんは溜息を吐く。そして焦れたように「来るの? 来ないの?」と返答を急いた。
もう一度、私は凝部くんと陀宰くんを交互に見る。陀宰くんの顔に張り付いた、固い表情。もしも今この場で凝部くんの手を振り払ったら、きっと今度はもう何処にも逃場がなくなる。凝部くんの誘いは、私にとって最後の選択なのかもしれない。
正直に言えば、陀宰くんが言いかけた言葉を、聞きたくないわけではない。けれど今は、好奇心よりも恐怖が勝った。
逡巡ののち、私は躊躇いがちに答えた。
「……わかった、付き合う」
そう言って頷く私を見て、凝部くんは何故か一瞬、哀れむような微笑みを、あえかに口許に浮かべる。けれどその微笑は、瞬きのあいだに消えてしまった。
「そーいうわけだから」
バイバイ、メイちゃん。
ひらりと軽やかに手を振って、凝部くんはすたすたと歩き出す。私も陀宰くんに手を振ると、先を歩く凝部くんの後ろ姿を急ぎ足で追いかけた。陀宰くんは戸惑い顔をしながらも、けして私たちのことを追いかけてきたりはしなかった。
◇◇◇
凝部くんがどこへ歩いていくのかは分からないけれど、彼の提案に乗ってしまった手前、私は黙ってついていくしかない。
普段の気だるげな彼を思えば意外なほど、凝部くんの歩くペースは速かった。私は小走りになって、凝部くんを追いかける。
ほどなく凝部くんの行き先が明らかになった。何のことはない、凝部くんが向かっていたのは、私たちがさっきまでいたバス停から歩いて数分のところにある、別のバス停だった。
「あ、しまった。このバス停からだと僕んちにも名前ちゃんちの方にも、帰るバスがないや」
ディスプレイの路線図を見て、凝部くんが声をあげる。さすがの凝部くんでも、普段使わないバス停にどの路線が乗り入れているかまでは、頭に入っていなかったらしい。
ということは、先ほどのあれはやはり、突発的な行動だったということだ。私は早足で歩いたせいで乱れた呼吸を整えながら、凝部くんに声を掛けた。
「凝部くん、」
「感謝したいなら、いくらでもしてくれていいよ。メイちゃんと一緒にいたくなさそうだなと思って、ちょっと強引に引き離してあげたんだから」
すべて見透かされている。ありがとう、と私は溜息まじりにお礼を言った。
凝部くんがバングルに向けていた目を、私へと向ける。浮かぶ微笑はさまざまな感情を内包しすぎていて、凝部くんが今何を考えているのか、私に言い当てることはまったくの不可能だ。
びゅうと冷たい風が吹き、凝部くんの銀糸の髪を掻き乱す。防寒加工が施された制服のジャケットの襟もとを「おー、寒」と演技めかしくかき合わせ、凝部くんはベンチに腰をおろした。
「ああいうとき、強引なことや不可解なことをやっても何となく許される感じがするのは、僕の日頃の行いのおかげだね」
「日頃の行い……。まあ、間違ってはいないのかもしれないけど……」
「詮索する気はないよ。これで貸しはまた増やすけど」
飄飄と、しかしあながち冗談でもなさそうなことを口にして、それから凝部くんは「で、どうする?」と立ったままの私を見上げて問いかけた。
「名前ちゃんが一人になりたいなら、適当に送って僕は帰るけど」
「一人に……」
「……それとも、やっぱりメイちゃんがよかった?」
答えを待つ甘い瞳は、揺らぐことなくまっすぐ私を見つめている。切実――そんな言葉がふと浮かび、すぐに消えた。
凝部くんと一緒にいたいのか。それとも陀宰くんのところに戻りたいのが本心なのか。私は今、どうしたいのか。
シンプルなようでいて、実際にはたくさんの選択を迫られている。
私は躊躇い、踏み出せず、答えあぐねた。けれど一つだけ、今この場でどうしても確認しておかなければならないことがある。それだけは、鈍い私にもちゃんと分かっていた。
「凝部くんって、私のことが好きなの?」
何の勘違いも行き違いも起きないよう、最短で簡潔に、私は凝部くんに問いかけた。
以前、質問に質問で返さないでと言ったのは、たしか凝部くんだった。今も凝部くんは、彼の質問を無視した私に対して、わずかに眉をひそめている。けれど意外にも、その下にある瞳と口の端には、この会話を面白がっているような淡い笑みが滲んでいた。
「いや全然好きとかないけど。あ、ていうか待って、今のってもしかして『そうだよ』って言うとフラグ立つ感じ?」
「立たないね。全然立たない」
「じゃあ正直に言っていいか。名前ちゃんに対しては、そーゆーのはまったくないよ。一応、友達だとは思ってるけど」
「でもそのわりには、かなり面倒見よくない? 凝部くんってそういうキャラじゃなさそうなのに」
「あー、まあ僕本来のキャラではないかもね。たしかに」
胸の前で組んだ指を擦り合わせ、凝部くんは答えた。
「なんていうかな。情けは人の為ならずってところ?」
「何それ、全然わかんない」
「僕だって時々は、受けた親切をほかの誰かにも施そうかなと思うんだよ」
「……私、今、施されてるの?」
「ま、そういうこと」
飄然として掴みどころのない言葉は、結局どこまで本当なのかも分からない。凝部くんのことだから、適当に虚実織り交ぜて話をしているのだろうとも思う。うまく誤魔化されてしまった感も否めない。
けれど不思議と、凝部くんの今の言葉のすべてが口から出まかせだとは思えなかった。『情けは人の為ならず』という、およそ凝部くんらしからぬ言葉にすら、嘘や欺瞞はまるきり感じとれない。
もちろん、凝部くんの価値観や倫理観から出た言葉ではないのだろうとは思う。けれど、だからこそ、今のこの凝部くんらしからぬ行いには凝部くん本来の行動理念とは違う、別の何かが強く働いているのだという気がした。
そしてその行動理念を凝部くんに与えた誰かは、『情けは人の為ならず』というようなことを、ごく当たり前に実践できるに違いない。それこそ、誰のためとか、情けとか、そんなことを考えることすらなく。
脳裏に、ふたりの人間の顔が思い浮かぶ。無論、私のひねくれた推論だ。ただ、私の推論がもしも事実だとしたら、何ともずいぶん因果なこととしか言いようがない。
束の間、私は黙り込んだ。脳内でいろいろなものを天秤にかけ、様々な感情を推し量る。飽きっぽい凝部くんはバングルを操作して時間をつぶしながら、私の沈思の終わりを待つ。私の家にも凝部くんの家にも帰らないバスが、何台もやってきては、そのまま走り去っていった。
そうしてしばらく経ったのち、私はようやく心を決めた。
指の腹で手首のバングルを撫でさすり、私は凝部くんに向かって言う。
「凝部くんに見てほしい写真があるんだけど」