専門学生の一年目は、とにかく時間の流れが速かった。
 すでに一年間勉強をしてきたひとたちの中に合流するのは、どうしたって異物感が拭いされるものではない。リカバリーガールのおかげで必要最低限以上の知識は持っていても、それでも一年間座学に打ち込んできた人たちに比べれば、私の知識はどうしたって現場重視に偏っていることは否めない。まずはそのギャップを埋めるべく、昨年まで以上の勉強を求められるところから始まった。
 もちろん努力すべきは単なる知識の問題に留まらない。知識より何より、自分で思っていた以上にヒーロー特待としての編入というのは奇異の目で見られるということに、編入してみて私ははじめて気が付いた。
 私が目指す「ヒーロー資格を持った看護師」というのは、言ってみれば看護師の中のプロフェッショナルのようなものだ。通常の看護師以上の権限を認められ、その分だけ責任も重圧も大きい。だから普通は、その職には看護師として臨床経験を何年も積んだ人がつく。数年、あるいは数十年しっかりと看護の現場に携わり、そのうえで高みを目指し、社会人向けの技能教習や大学に入学してヒーロー資格を取得する。狭く厳しき門なのだ。
 だから私のように、先にヒーロー資格をとった上で看護師を目指すという人間は多くない。多くないどころかほとんど前例を見ないことだという。制度自体はあっても活用されたことはほとんどなかったと知ったのは、雄英を卒業して専門学校に編入する直前のことだった。
 ここでもやはり、私は人と違う道を行く。
 人と違う道を行く困難は、すでに雄英の三年で身に沁みて知っていた。
 しかし春からの新たな環境、新天地での生活に慣れることに必死だったのは私だけではない。雄英高校ヒーロー科を一緒に卒業したA組のみんなも、慣れないヒーローとしての生活にいっぱいいっぱいなのは同じようだった。
 それぞれ事務所から与えられたSNSのアカウントを動かすことはあっても、学生時代からつながっているアカウントで何かを発信する頻度は極端に減った。卒業直後こそ何ということはない話題で動いていたクラスのグループトークも、だんだんと通知の鳴る回数が減っていき、この頃ではほとんど動くことはない。
 新しい環境に慣れることに忙しく、すでに持っていたものはどうしたっておざなりになる。
 気が付けば私は、雄英生だったころの友人たちとはすっかり疎遠になってしまっていた。

 そんな日々の中で、転機はある日突然訪れた。
 専門学生二年目──学年で言えば三年生になった春。雄英を卒業してまる一年が経った頃のことである。
 この頃になると、いよいよ病院やヴィラン被害の現場に救援活動に出る臨地実習が本格的に始まっていて、私は学校が提携している病院での実習に日々忙殺されていた。
 実習自体は昨年度からぼちぼちと始まってはいたものの、さすがに最終学年になればその量も密度も段違いだ。ただでさえ実習と並行して提出物や課題もあり、さらには年明けには今度は看護師の国家試験も控えている。ヒーロー科にいた頃のような日々汗と泥にまみれながらの特訓とは違う、もっと心が摩耗していくような忙しさに追われ、私は日々目の回るような生活をしていた。
 しかしながら、厳然たる事実としてそこにはある問題が立ちふさがる。いくら忙しかろうとも、人間として生活はしていかなければならない。そして生活をしていくために必要になるのは、何はなくとも元手──お金である。
 ヒーロー免許を持っているとはいっても、今の私の身分はしがない学生だ。実習や最低限の生活──睡眠や食事をしながら時間を捻出し、生きていくための生活費を稼がなければならない。
 幸いにして学生時代にお世話になっていたリカバリーガールに、学生時代の延長のように助手としてバイトさせてもらえているので何とか糊口をしのぐことはできているものの、けして生活に余裕があるわけではなかった。
 経済的な余裕はそのまま精神の余裕に直結する。
 そんなわけで、専門学生生活二年目の私はといえば、まあまあに荒廃した精神状態で日々をひたすら耐え忍ぶような有様なのだった。

「あー……」
 周囲に聞こえないように低く唸り、首をぐるりと回す。実習病院の外来はいつでも満員で誰も私のことなど気にしていないのだろうけれど、それでもどこで誰が見ているか分からない。うっかり「ロビーにいた実習生の態度が悪かった」などとクレームがついた日には単位をもらえるかも怪しくなってくる。
 昼の実習を終え、休憩に入ったところだった。院外のコンビニでおにぎりを買って、急いで休憩室へと向かう。今の実習先は緊急外来。実習時間は昼から夜の九時までなので、いったん休憩を挟んだら再び実習に戻らなければならない。
 通り抜けたロビーには、いわゆる異形型──この言い方も問題になっているけれど──の患者さんがひときわ目につく。晩冬から流行っている感染症はどうやら異形型の個性もちの人が罹患しやすいらしく、病院には連日さまざまな風貌の人たちが昼夜を問わず押し寄せているのだった。個性学はまだまだ研究途上の分野であり、今のところ特効薬は見つかっていないらしい。
 ──障子くんとか感染してないといいけど。
 かつての級友の姿をぼんやり頭に思い浮かべ、ふっと溜息をついた。
 昨年末にA組の忘年会があったはずだけれど、生憎私は実習の真っ只中で参加できなかった。そろそろみんなに会いたい気持ちがある一方で、優秀な友人たちのヒーロー名はメディアを通して目や耳にすることも少なくなく、疎遠ではあれどみんなのことを忘れてしまうことはない。
 ただ、私のことをみんなが忘れてしまうかもしれないと、そういう不安はあるけれど。しかしそれは考えても仕方がないことだ。吐き出しかけたため息を呑み込んで、ふとロビーに設置されたテレビの画面に視線を遣る。そこにはかつての友人、爆豪くんがヒーロースーツ姿で派手な活躍をしている姿がうつっていた。
「すごいなあ、爆豪くん」
 と、何気なくひとりごとを呟き、それから視線を前方へと投げかけたところで。
 そこには帽子とサングラスで適当な変装をしながらも、間違いなく柄の悪い青年がひとり、こちらに向かって歩いてくるところだった。その青年は今まさに、テレビの中でド派手な爆炎を起こしている人物のシルエットと瓜二つ。
 というか、ほぼ間違いなく本人だった。 
「え、あ──ば、爆豪くん!?」
 思わず声をあげ駆けよれば、一瞬身構えた爆豪くんがすぐに訝し気に視線をこちらに寄越す。
「……てめえ、苗字か」
「うわ、久しぶり!」
 そこにいたのはやはりテレビの中の人物、私のかつての級友爆豪くんだった。顔を合わせるのは卒業以来なので、まるっと一年ぶりになるだろうか。心なしか最後に会った時よりもしっかりした身体は、元々がたいのよかった爆豪くんをもってしてもさらに鍛えざるをえなかったプロの現場の厳しさをうかがわせる。
 同じ雄英卒でもほとんど無名の私はともかく、爆豪くんの方はすでにプロとして活動している有名人だ。一応周囲を確認してみるけれど、私と爆豪くんを注視している視線は感じられなかった。ひとまずほっと胸を撫でおろし、私は爆豪くんにこそこそと声を掛ける。
「なんで病院にいるの?」
「んなことてめえに関係ねえだろ」
「ういっす」
 しょっぱなから切って捨てるような爆豪くん節全開だった。
 高校時代にはすっかり慣れていたはずのこの切れ味も、久しぶりに真正面から切り付けられるとずばりとショックだ。けれどそんなショックさよりも、久しぶりにかつての級友に会えた喜びの方が勝る。
「で、なんで病院に?」
 重ねて尋ねれば、爆豪くんは一瞬面倒そうに舌打ちをしたあと、
「……この間、仕事で足やった」と恨みがましい声音で言った。
「全然問題ねえっつってんのに、上がちゃんと診てもらえってうるせえんだよ」
「ああ、なるほど」
 それで前方──整形外科の外来がある方から歩いてきたのかと、合点がいった。検診であれば別棟だし、入院患者のお見舞いならば方向が違う。
 とはいえ見たところ歩き方におかしなところもなさそうだったから、本当に念のための検査だったのだろう。爆豪くんが面倒がるのも無理はない。
「でも念のためでも病院に行けって言ってくれるんだから、ちゃんとしたいい事務所なんだね」
「クソぬるいだけだわ」
 吐き捨てるような言葉も、それが本心ではないことは明らかだ。性根が真面目なわりに無茶苦茶なことをしかねない爆豪くんだから、そのあたりは事務所と爆豪くんでいい具合につりあいがとれているのかもしれない。
 と、ここでひとつ疑問が生じた。
「ていうか爆豪くんの事務所この辺だっけ」
 検査を受けるだけならばわざわざ遠くの病院までかかる必要もない。爆豪くんが所属しているのはヒーローの世界でもかなりトップに近い実績の事務所だから、そうそう暇があるわけでもないだろう。
 私の疑問に、爆豪くんは
「隣駅」
 と簡潔に答える。
「あ、そうなんだ」
 私の実習はほとんどすべてこの病院で行っているので、つまり私の実習先と爆豪くんの職場はひと駅しか違わないということだ。学生生活も二年目だというのに案外顔を合わせないものだな、とは思うものの、よくよく考えれば私はほとんど病院と学校、家を順番に回っているだけである。たとえ爆豪くんと行動圏がかぶっていたとしても、そもそも顔を合わせるほど外出しているわけでもなかった。
 目のまえの爆豪くんはぶすっとした顔をしている。その表情はとても好意的とは言い難いものだったけれど、それでも学生時代に三年間同じ寮で生活をしていた相手には違いない。何となく久しぶりに家族に会ったときのような懐かしいような、ちょっと気恥ずかしいような、そんな気分だった。顔を合わせていなかった期間は一年でも、その一年という時間の密度は多分お互いに凄まじい。積もる話ならいくらでもあった。
 けれど。
 ふと視線を感じてそちらに目を向ければ、私と同じ実習着を着た実習生が、患者さんの車いすを押しながら、通りすがりに訝し気な視線をこちらに向けていた。休憩中とはいえ、自分が今まさに実習の真っ最中だということを、ようやく私は思い出す。
「えっと、こっちから話しかけておいてごめんなんだけど、今私実習中なんだ。あの、もしよかったら今日の夜とか時間ある?」
 場所を変えてあらためて話がしたいんだけど、と言外に伝えれば、爆豪くんはふんと鼻を鳴らして「無理」と一蹴する。そのにべもない物言いに、思わずがくりと脱力しかけた。再会を喜んでいるのは私の方だけだったのか。いや、うすうす感じてはいたけれど。
「あ、そっか。そうだね、そりゃ忙しいよね……」
 相手は今を時めくヒーローだ。新米とはいえ、忙しい事務所に所属していれば当然爆豪くんに割り当てられた仕事の量も多いだろう。しがない実習生の私とは、そもそもスケジュールのタイトさが違うのかもしれない。
 分かってはいたけれど、ばっさり切り捨てられると悲しいものがある。ヒーローとして日々前進している爆豪くんにとっての私など、すでに取るに足らないものだと言われているようで。もしかしたら爆豪くんにとっての私なんてものは元々取るに足らないものだったのかもしれないけれど。
 一年以上何となく張りつめていたものが、爆豪くんと再会したことで一瞬ゆるんだ。
 だからというわけではないけれど、それをまた元の場所に押し戻されたような気分がして、なんだか妙に胸がつかえるような心地がした。
「じゃあ、また気が向いたら連絡でも──」
 胸にわいた感情には見て見ぬふりをして、私はこの一年ですっかりうまくなった当たり障りのない笑顔を顔に貼り付ける。
 爆豪くんと視線がぶつかる。と、やにわに爆豪くんが舌打ちをして、言った。
「週末は」
「え」
「今週の金曜の夕方以降なら非番だっつってんだよ」
 間違ってもそんなことを言われてはいないし、週末というワンワードからそこまで汲み取れという方が無理な話だ。けれどそんな理屈をこねるより先に、
「金曜なら私も大丈夫!」
 私はそう返事をしていた。お互いに連絡先が変わっていないことを確認し、詳細はまたメッセージでと約束をしてから爆豪くんと別れ、大急ぎで休憩室に戻る。すでに私に与えられている休憩のうち半分近くが消費されていて、私は大慌てでおにぎりを口に詰め込んだ。
 このあとも実習は続くのだと思うと気は滅入るけれど、それでも私の胸は本当に久しぶりにわくわくした感情で膨らんでいた。

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