マンションに向かって車が発進したころには、すでに時計はてっぺんを越え日付をまたいでいた。爆豪くんは無言でアクセルを踏み続け、私は自分の左手の薬指にはまった華奢な指輪を、飽きることなく矯めつ眇めつしている。
「これから色々大変だなあ」
 指輪の重みを感じながら呟けば、爆豪くんは前方へ向けた視線をこちらに寄越すこともなく、「あ?」といつもの通りの返事をした。つい先ほど夫婦になることを決めた男女とは思えないほど、全体的に色気に欠けた会話だ。
 深夜のためか道はがらがらに空いている、道路わきの商店も明りに乏しい。爆豪くんとはそれなりに長い期間友達でいるけれど、こうして夜遅くにふたりでドライブをするのははじめてのことだった。
「今までみたいにただ友達でいるのはほら、一緒にいるっていうだけでいいけど、結婚して夫婦になるってなるといろいろと手続きとか挨拶とかあるじゃない」
「適当でいいわ、んなもん」
「そういうわけにはいかないでしょ。ヒーロー免許は改姓の手続き面倒らしいよ」
「俺は絶対やらねえ」
「いや、まあ、うん。爆豪くんはそうでしょうけども」
 こちらももとより爆豪くんに苗字を変えてほしいなどとは思っていない。私には今の苗字にこれといったこだわりもなく、家を継がなければいけないようなこともない。私が爆豪くんに合わせて苗字を変えるつもりでいたけれど、ただ色々と煩雑だなあと思うくらいは自由だ。
 具体的な入籍のタイミングや結婚の準備に関してはまたこれからゆっくりと考えていくとして、ひとまずは実家への報告だろう。両親とも、私に恋人がいるという話すら知らない。いずれ爆豪くんは恋人ではなかったけれど、とにもかくにも寝耳に水であることは事実だろう。だがまあ、相手が長年の知り合いである爆豪くんであれば、反対されることもないはずだ。
「あとはとりあえず、職場だね」
「俺はもう済ませた」
「さっきの電話のこと言ってる? あれで済むとも思えないけど」
「あれで済ますんだわ」
 あくまでもあれで済んだと言い張る爆豪くんに、私はひそりと嘆息する。職場のことであれば私は無関係なので、この溜息は明日以降爆豪くんを相手に話を聞きだし、しかるべき発表の準備を進めなくてはならない事務所サイドへの同情の溜息だ。
 そっと薬指のリングを撫で、私は爆豪くんへと視線を遣った。
「表立ってヒーロー活動をしていない私はいいけど、多分爆豪くんはマスコミに報告したりしなきゃいけないんだと思うよ。あとファンへの報告」
「誰がするかよ」
「爆豪くんだよ」
 頑として姿勢を崩さない爆豪くんに、私は再度溜息をついた。
 ともあれ、そうした事務的なあれこれは明日以降に考えればいいことだ。何も結婚することを決めたばかりのこんな真夜中に、明日以降の苦労を思って溜息を連発する必要もない。
 いずれ、夫婦になればそれこそ考えなければならないことはたくさんあるのだ。
「それにしても、夫婦かあ……」
 しみじみと呟き、そしてはたと気付く。
「私、爆豪くんとキスとかできるのかな」
 考えなしに頭に浮かんだ疑問をそのまま口にした瞬間、運転席の爆豪くんが盛大にむせた。爆豪くんにしては珍しいリアクションだ。おや、と思って爆豪くんを見ると、信号が赤になるのを待ってから、爆豪くんはじろりとこちらを睨んだ。
「てめえ……」
「だって今まで考えたこともなかったでしょ? こう、今の関係のままでいたいなあっていう気持ちを起源にした夫婦になろうだから、そういう恋人らしいことをしたくて結婚するわけじゃないし……」
 というより、どちらかといえばこれまでは意図して考えないようにしていたのだ。爆豪くんと私が男女の仲になったり、友人以上の親密さで触れ合うということについて。
 考えてしまえば、爆豪くんと顔を合わせたときに思い出してしまう。思い出して意識してしまえば、勘のいい爆豪くんにそのことを隠し通すのはきっと難しい。
「……爆豪くんもそうじゃないの?」
 当たり前のように、そうだと思っていた。爆豪くんは私のことをそもそも女だと認識していないくらいで、そこからさらに男女のあれこれを交わす相手として見られているなんて考えたこともなかった。
 けれど、私の予想に反して爆豪くんは肯定も否定もせず、ただむっつりと前方を睨んでいるだけだった。
 その沈黙が、爆豪くんにとっては認めがたい肯定の意であることは明白で、私は予想外のことに取り繕う余裕すらなく驚いてしまった。
「え、爆豪くん私とキスできるなとか考えたの?」
 当然ながら、この発言は爆豪くんを怒らせるのに十分すぎるほどの威力を持っていた。すぐさま横から怒鳴り声が飛んでくる。
「逆になんでてめえは考えてねんだよ! てめえ結婚なめとんのか!?」
「な、なめてないけどぉ」
 なめてはいないけれど、若干思慮が足らなかった気はしないでもない。事ここに至って、私はそのことを考えないわけにはいかなかった。
 爆豪くんとの結婚にどうこう思うことがあるわけではないものの、爆豪くんと同じ結論に至るための過程において、私は爆豪くんよりもいくらか諸々の吟味というものが足りていないことはたしかだ。
 内心で冷汗がだらだらと流れる。これはもしかしたら久々に、本格的に爆豪くんに怒られるやつかもしれない──そんなふうに腹をくくりかけたその時、爆豪くんが唐突に車を路肩に駐車した。
 マンションまではまだあと十分ほどはかかる。近くにコンビニや自販機があるわけでもなく、何か運転に差支える事情がありそうでもない。
「え、なに」
 どうしたの。と私が言うより先に、爆豪くんが「顔!」と怒鳴った。
「は、はい」
 これ以上怒らせるのはまずいので、ひとまず爆豪くんに従うことにした。顔というワードだけで爆豪くんが何を求めているのかは分からないものの、おそらくは顔をこちらに向けろということなのだろう。さすがに殴られることはないだろうけれど、デコピンくらいはされるかもしれない。シートベルトを外して顔を爆豪くんに向けながら、私は戦々恐々として心構えをする。
「目ぇ瞑れ」
 追加の註文にも、素直に従った。じきに襲ってくるであろう何らかの痛みを想定して肩を強張らせていると──
 ふいに、頭を後ろからぐっと押される感覚がした。直後、くちびるに柔らかいようなそうでもないような、よく分からない感触を感じる。
 二十三にもなって、それが唇の感触だと分からないはずがない。
「……」
「……」
 ほどなくして、爆豪くんのくちびるがそっと離れた。後頭部をがっしりとホールドされていた手も離れ、私は夢かうつつかというふわふわした気分で目を開く。
 薄暗い車の中、爆豪くんが何故か不機嫌そうな顔で私の間抜けな顔を睨んでいた。
「できんだろ」
「で、できる……」
 言われるまま頷いた。爆豪くんが鼻を鳴らす。
「当たり前だわ。てめえ俺相手にキスできねえとか抜かしたらまじで殴る」
 そう言って、爆豪くんは自分も先ほど外していたらしいシートベルトを装着しなおし、再びギアをドライブに入れる。何事もなかったかのように車を発進させようとする爆豪くんに、私はほんの束の間ぼんやり見とれ、それから慌てて「待って」と声を掛けた。
 爆豪くんが胡乱げにこちらを見る。
 そっと指先でふれた自分のくちびるには、まだ少しだけ、押し付けられた爆豪くんのくちびるの感触が残っている気がした。
「ねえ、もう一回してみよう」
 私の提案に、爆豪くんはただでさえ訝し気だった表情から、さらに眉間のしわを深くした。本当に今さっきこのひととキスしたんだろうか──うっかりそんなふうに不安になるような柄の悪い表情を見せる爆豪くんに、私はめげずに言葉を重ねる。
「ね、記念すべきプロポーズ記念日だから。それに、さっきのじゃキスできるかの確認にはちょっと不十分だったというか」
 だめ? と。
 私が尋ねる言葉は爆豪くんによって封じられていた。先ほどの押し付けるだけのキスとは違う、もう少しちゃんと確認するような、食むようなくちびるの重ね方は爆豪くんのそれとは思えないほどにやさしくて。
 もうずっとよく知っているはずの爆豪くんなのに、全然知らない男のひとのようでもあって。けれど、感じる温度も、漏れる息遣いも、それは間違いなく私のよく知る爆豪くんのものなのだ。
 爆豪くんの手が、センターコンソールに置いた私の手を探るように求め、しっかりと指を絡める。何度も触れたことのあるはずの手は、記憶の中のものよりもずっとずっと慎重な手つきで私に触れる。
 何度か角度を変えて確かめるようなキスをしたあと、今度はゆっくりとくちびるを離された。舌を入れたわけでもないのに、頭の芯がぼうっと熱くてとろけるような感覚になる。
 ぼんやりと爆豪くんを見つめる私に、爆豪くんはむっとした顔で「何だよ」と言葉を吐く。
「なんか、これは自分でも新しい発見なんだけど──私今、爆豪くんにめちゃくちゃどきどきしてる……もう八年も爆豪くんの友達やってるのに、なんか……すごいときめいた……」
 まるで高校生みたいなせりふを吐いてしまったことが恥ずかしくて、私は呻きながら顔を覆った。恋人みたいな関係になりたいわけではないなどと嘯いておきながら、いざ触れ合ってしまえばこんなにも簡単にときめいて、ほだされている。
 こんなふうに心臓が壊れそうなくらいにどきどきしたのなんて、二十三年間の人生において間違いなく今がはじめてだった。
「どうしよう、もしかしたら結婚するとかちょっと早まったかも……」
「は?」
「こんなにどきどきする予定じゃなかった」
 もはやほとんど泣き言のようなものだった。相変わらず顔を覆って呻いている私に、爆豪くんは束の間の沈黙ののち、チッと舌打ちをして言った。
「シートベルトしろ。さっさと帰んぞ」
 私のときめき云々も、何もかもをスルーする潔さを見せた爆豪くんだった。しかしそれが爆豪くんらしくもあったし、私としてもここで気など遣われてはいよいよ居たたまれない気持ちになってくる。
 溜息をつきつつシートベルトをつけると、爆豪くんに「こんなとこでぐだぐだ駄弁ってる時間ねえだろ」と呆れたように文句を言われた。
「たしかにもうだいぶ深夜だもんね」
 早く帰って寝よう。そう思いながら返した返事に、爆豪くんはいつものように鼻を鳴らして──笑った。
「違ェわ。試さなきゃなんねえことがまだほかにもあんだろ」
 私のよく知る声音で、私の知らない何かを示唆する爆豪くんに、私はまた声にならない悲鳴をあげて、両手で顔を覆った。

fin.

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